スオウの事を嫌いだという人間は大抵「何を考えているか分からない」と言った類の言葉を吐きだす。不気味だとか、計算高いとか、狡猾だとか、その癖、それらを悪いことと思っていない所に腹が立つだとか、まぁ、そういうことを言う。
よく、親友の俺に対してスオウの悪口を吐けるなって感じだけど、別にこれは俺に言われた言葉ってわけじゃない。勿論、一部は俺に直接吐き出されたものだけれど、殆どが陰口のような形で呟かれたものが偶々、俺の耳に入ってきてしまったものだ。
昔は、そんな陰口が叩かれる度に腹が立って仕方がなかった。だって、スオウという人間は俺にとってまさしく救世主のような人間で、悪口を言う奴はそいつの人間性が出来ていないからだ! と腹が立って、喧嘩になってしまったこともあった。
たいてい、お互い悪かったね、という終わり方を見せる喧嘩だが、親が呼び出されることが一度だけあった。
その時は、どうせ母さんが来るんだから優しく抱きしめて俺は何も悪くないよと言って貰えるはずだなんて甘いことを考えていて。けど、実際に来たのは親父だった。
俺は親父が苦手だ。初めはなんで嫌いだったっけ。そうだ、双子の片割れである汐が親父のことを好きすぎるから、それに引いて、じゃあ俺は嫌った方がいいんだろうか? と無意識にバランスを取るかのように嫌いになっただけだった。
けど、それがこいつ苦手だ……に変わったのは、俺が陸上をやり始めてからだ。
俺の親父は陸上選手。そりゃ、この日本所か、世界でも名を知らない人はいないほどの陸上選手だった。現役はとっくの昔に引退している筈なのに、未だにトレーニングを続けていて、俺なんかより、さらっと早く走って見せる。初めて、親父と勝負した時、俺は簡単に呆気なく木っ端みじんに負けてしまって、しかもその後「凄く早くなったね」とか言うものだから、腹が立ってそこから、ほんと嫌い!!! という反抗期を迎えるようになった。初めて喧嘩で親を呼び出した時の俺は反抗期の真っ最中で、親父が来たこと自体に腹を立てていた。どうせ、説教されるんだ、と不貞腐れていたからだ。
迎えに来た親父はしっかりスーツを着ていて、まず先生と俺が殴った親に頭を真っすぐ下げた。なんでだよ、そもそも初めにスオウの悪口を言っていたアイツが悪いんじゃねぇか!! と腹を立てたし、親父のことを相手の親は馬頭していたけれど、反論もせずに頭を下げ続けた親父のことを心底、情けないと思ったのだ。
帰り道、親父は俺に言った。「怒っても殴っちゃいけない」と。親父の言い分は分からなかった。なんでだよ! だって口じゃ俺は勝てねぇから殴るしかねぇじゃん! みたいなことを俺は返した。「けど、ダメだ。翼の手は人を殴るためにあるんじゃないだろ」と言いながら、しゃがみ込んで、俺の手を掴んできた。
あんなに高くあった親父の顔が俺の目の前にきて「人を殴るって言うのは、どんな事態を引き起こすか分からないことなんだ。例えば、今日殴った子は偶々怪我をしなかったけれど、殴った拳が目に当たって彼が失明したらどうする?」なんてことを言われた。親父は普段からは考えられないくらい、恐ろしいたとえ話を俺の前に並べていった。結論は、暴力はダメなことだ、という一言に尽きると思うんだけれども、そこに至るまでのたとえ話が幼い俺には恐ろしすぎる話だった。
「けど、翼が友達の為に怒ったのは嬉しいな」
と、親父は最後にそう言って、俺の頭を撫でた。誰かのために怒ることが出来るのはとても素敵なことなのだと。自分の事のように怒ったり喜んだり泣いたりできる友人がいることは、とても素晴らしいことなのだと、親父はそう語った。
一応、あの時から、俺は一応、暴力は奮わなくなった。同じの例え話が怖かったというのもあるけれど、あの時のあの願いは、飯沼祐樹という俺の親父が初めて切実に、俺に頼んだお願いに聞こえたからだ。暴力はいけないこと。そして、自分が悪く言われても、好きな人が悪く言われても、耐えることも結構大事なことなんだって、幼いながらに分かったからだ。ま、俺が未熟だから、親父みたいに溜め込んでしまうことなんかできないし、腹立つことあったらすぐに口に出るようにはなっちまったけれど。

だから今はスオウの悪口を小耳に挟んでも我慢できる。滅多に聞かないし、聞いても妬みとかからくるもんだろう――って思う様になった。
「まぁ、だからって直接聞くのが好きなわけじゃねぇんだけど」
「あらそう?」
そう言ってスオウに対する愚痴を俺に吹き込んでくるのは、双子の片割れである汐だった。汐は久しぶりに俺の部屋に押しかけたと思ったら、スオウの悪口を言うだけ言って、すっきりしたかのような顔をして「紅茶飲みたいから汲みなさいよ」と腹立つことを言ってきた。俺は切れて無視を決め込んでいたが、頬っぺたを摘ままれてしまったので、しょうがなく口を開いてやった。
「スオウの悪口、俺に言いにくんな!」
「だって聡は遠征でいないし。桜には言えないし。そうなるとあんたしかいないじゃない」
「俺だってスオウの友達なんだからな!」
「知ってる」
「じゃあ言うなよ」
「言うわよ。これでも心配してあげてるんじゃない。家族だから」
汐は珍しく茶化さず、俺の目を見てそう言った。双子なのにまるで似ていない顔が、俺の方を見つめている。汐って言葉を返そうとしたら踵を返して「リビングで待ってるから紅茶淹れて」とだけ言って部屋を立ち去っていった。
残された俺は、なんだよ、と少し不貞腐れる。なんで、そんなこと言うんだよ。
だって、スオウって良い奴じゃん。そりゃ、ちょっと抜けてる所あるけど、弱い人間を放っておけなくて、誰でも平等に話しかけて、いつも明るくて、話だって面白くて、おまけに顔だってカッコ良いんだぜ。
気分が悪くなった俺は部屋を出て、紅茶なんか勿論、淹れてやることもなく、家も飛び出した。こういう時はランニングでもして汗を掻いてすっきりするに限るからだ。俺は短距離の選手だから、長距離はそこまで早くない。それでも持久力はあるから、走れと言われれば永遠に走っていることが出来る。
外はもう真っ黒に染まっていて、街灯の灯りだけが頼りだった。俺の家は郊外にあって、住宅地からも少し離れている坂の上にぽつんとある。道路を下っていくとそれなりに人が増えていくが、今は山の方へ、山の方へ足を延ばした。一応、道路は整備されており、山を越える車が時折、真横を通り過ぎる。本当はランニングするなら住宅地がある方に向かうのが良いんだろうけど、今は人と出会いたくなった。
汗がだらりと流れていく。もうすぐ夏も終わるというのに、すっかり暑さは引かずに、すぐに来ていたTシャツが汗まみれになった。何分走ったか分からないけれど、ポケットに入れていたスマホが震えて足を止めた。
「あ、母さん。何?」
母さんからの用事はもうすぐご飯だから早く帰って来なさいというものだった。俺は分かった、と首を縦に振って元来た道を戻る準備をする。母さんの言う事には、昔から俺は素直に従うようにしている。だって、すぐに褒めてくれるし、俺は母さんに些細な事でも褒めてもらうのが結構好きなんだ。
走り出す前に準備運動をしようとストレッチをしていると、森の中からざわめきが聞こえた。俺は、あ、熊か? と野生動物の警戒をする。昔から山のふもとに住んでいる(というか、山の中に住んでいるので)両親から野生動物に対する対象方法は嫌というほど叩き込まれていた。まず、呼吸を落ち着かせ、気配をゆっくり消す。
がさり、がさり、と森の草木をかき分けて、それは姿を現した。

「あ、スオウ」
思わず、声が漏れる。森の中から現れたのは俺の十年来の親友だった。けれど、いつもと様子が違う。あの朗らかを絵に描いたような笑顔が張り付いた顔はなく、俺の顔を見て、一瞬、酷く動揺を見せたようだった。俺は近づくのを躊躇った。だって、よく見れば、スオウの手があまりにも黒く染まっていたからだ。その黒の正体は一体、何なのか。俺は考えることを辞めた。
「こんなところで会うなんて。翼ったら危ないよ」
「いや、お前もじゃん。それより、山菜でもとってたのかよ? 汚れすぎてるから俺の家でシャワーでも浴びて帰れよ?」
「え、それはご遠慮するよ。悪いし〜〜! 山菜届けなきゃいけないしね!」
山菜と言って持ち上げた袋から飛び出しそうになっている中身を、俺は見て見ぬふりをした。山菜なんだ。これは、山菜なんだ。例え、土がたくさん埋まっている袋にしか見えなくても。その土の中には一体なにが埋まっているように見えるのかと。

(言うわよ。これでも心配してあげてるんじゃない。家族だから)
そう言った汐の言葉が今になって頭の中で児玉する。分かってるって。だって、スオウっていうか、黒沼家ってちょっと可笑しいじゃん。スオウも、桜もハイネもだって。マリアは学年が離れすぎててちょっとわからないけど、さ。いつから可笑しかったのか、とか。初めから可笑しかったのか。とか。そういうの考えられないけれど。特に最近は。
スオウが俺に何でも話してくれているって思っていたのはいつまでだろう。
スオウのこと、俺がなんでも知ってるって思っていたのはいつまでだろう。
スオウのこと悪くいう奴が実は結構、的を得ていることを言っているって気づいたのはいつからだっただろう。
俺、スオウのこと好きだ。
だってそれは、スオウの良いことを、俺がこいつを好きな所をいっぱい知っているからだ。
暴力はいけないこと。けど、コイツ自身がきっと暴力をふるっているわけじゃない。だって、手に怪我しているところも顔に怪我をしている所も一度だって見たことねぇし。
だから良いよなってわけじゃねぇけど、俺は気づかないふりをして、コイツの傍に立って居よう。多分、それをスオウは望んでいるんだ。

車が対向車線から走ってきて、俺達の真横を通り抜ける。スオウの手はやっぱり真っ黒で、袋の中に埋まっていたのは人の手だった。