普段、子供っぽくて無邪気さを張り付けたような態度を良くも悪くも晒しているのに、泣き顔だけはあまり目にしないなぁと氷室は思った。
眠たそうに欠伸をして、その時漏れる生理的涙なら何度も見たことはあったのだが、それとは違う種類の涙。悔しいとか悲しいとか恐ろしいとか、そういう時に出る涙をあまり見せない男だと思った。
涙なんてもの、本来男が誰かの前で流すものではないが、それでも耐えきれなくなった雫が双眸から零れ落ちて頬を伝って地面まで落ちていくという経験は誰しも味わうはずなのに、氷室が知っている限り、紫原が人前で泣いたことなど、一度や二度くらいしかなかった。かれこれ、紫原とは高校の時から十年以上の付き合いになるのに、本当に数えるほどしかないのだ。それも、どちらとも悔し涙で、本当にどうしようもなく絶望して、世の中を嫌になって、怒って悲しくてそういう時に泣く涙を氷室は見たことが無かった。
そんな顔、見たいのか? と問われると首を傾げてしまうが「おそらく見たいんだろうね」と答えることは出来るかもしれない。
勿論、彼が幸せそうに人生を謳歌しているに越したことはないのだが、いつも人知れず流す涙を自分の前で流して、おいおいと救いを求めるように膝の上で泣いてくれたら、少しの優越感と、この子は自分を愛しているんだという安堵と、やはり自分もこの子を愛しているんだという確認が出来るかもしれないと考えたことはあった。

それはほんの軽い気持ちで、勿論、氷室だって本気で愛する紫原が恐ろしい目にあって泣きじゃくる姿を見たいわけではなかった筈だ。
(なにか、罰が下ったのかも知れないな)
と、氷室は思った。一時でもそんなことを考えてしまった自分に対して。これは酷い重たい罰なのかも知れないと氷室は思った。紫原は今、氷室の膝の上でわんわんと泣いている。いつか夢にみた姿だ。むろちん、むろちんと言いながら膝の上でわんわんと泣きじゃくって、喉は渇き、涙が枯渇しても、それでもわんわんと泣き喚いていた。
氷室は今、病室のベッドの上だった。別に死ぬ病気に罹ったわけではないし、一生、歩けないと宣言されたわけではない。ただ、君の選手生命はここで終わりだねという申告を医師から言われただけだった。もう氷室も三十を超えた。引退を考えても可笑しくない頃合いで、常に自分を限界の先まで追い込んできた氷室にとって、酷使しすぎた身体は良く持った方だと医師からも言われ、自分でも理解していた。だから、引退はもうすぐだと考えていたし、心の準備も出来ていた筈なのに、いざ、引退ですと言われると、ああそうなんですか、と受け入れられるほど、氷室の心は強くなかった。
当然、大人なので医師の前ではぐっと堪え、yesを連続して口にしたが、紫原の顔を見た瞬間、そうか、この男と同じコートで競うことはもうないのだという悔しさが込み上げてきた。泣くのを我慢し、痛む足のことを冷静に紫原に説明したつもりなのに、気づいたら紫原は氷室の膝の上でわんわんと泣いていた。最初は、こら痛いんだぞそこでも! と小言を漏らして誤魔化したが、紫原はそんなこと気にも留めず、わんわんと、泣き続けている。
「むろちんともっとしたかった」
紫原はそう告げた。わんわん泣きながら、もう一緒にコートに立つことのない選手としての氷室を惜しむように泣いてくれた。そのことが、氷室にとってどれだけ嬉しく、そして、報われた言葉であったかを、紫原は知らない。氷室の中にあった未練が緩やかに溶けていき、泣きつかれた紫原を抱きしめた。
(なんて馬鹿なんだオレは……)
泣いてくれるに決まっているじゃないか。そういう奴だろう。自分の為には悔し涙くらいしか見せないが、誰かのためには泣いてくれる。普段の行動が行動だからまるで信じられないかも知れないけど、そういう奴じゃないかと、氷室も涙を流した。