俺は母さんとは違う生き物なんだということを、自分で知っている。
例えば目の前で苦しんでいる親子がいるとする。父親が借金に溺れ、俺の家からお金を借りる。母親は子供にDVを働き、子供は父親の借金のせいで、売春行為をさせられようとしている。母さんがその光景を見れば「こんなこと間違っている」と高らかに声を弾ませて、その家の借金をすべて肩代わりしてあげるだろう。自分のポケットマネーから出せなばいいとか。そういう言葉を口にして。
けれど、俺は絶対に自分がそんな愚かしいほどに自己犠牲に浸り、そして傲慢ともいえるほどの価値観の押し付けが出来ない人間であると知っている。
俺がそういう場面に出くわしたとして、例えば俺の善人な行為がする行動といえば、売春しようとしている子供に「そんなことしなくてもいいよ」とほほ笑みながら、違う仕事を斡旋してあげるくらいだろう。その両親に対しての救いは、一切行わない。お金を借りたのも、子供にDVを働いたのも、すでに自己責任の範囲だ。借金も帳消しにはしない。そういうお金は微々たるものだけれど、佐治組はそういったお金で動いているんだから。自分のポケットマネーからそのお金をねん出するほどの懐のでかさなんてあったはずがないだろう。
俺はいつだって、誰かが幸福になるためには、誰かの不幸が必要であると考えている。例えば、先進国の平和の為には、後進国の内戦や飢え、貧困が必要になる。国という境界線を越えて、安い賃金で働かした奴隷のような人たちによって自分たちの生活が支えらえれていると考えている。勿論、そう考えると後進国に生まれた人達は可哀想だ。内戦があり、親を殺されたり、人を殺したり、身体を売ったりしなければ生きられないかも知れない。けれど、俺は自分の周りの人間が幸福であるために、そういうものを、しょうがないものだと諦めることが出来る。
きっと、母さんもそういう考えの人間なんだろうけれど、あの人はそういうことに気づいていない。母さんが護りたい平和というのは、自分の目と鼻の先。自分の目に映る不幸に
限られていて、それで正義の味方みたいなんていうあの男の口ぶりは少し笑ってしまうものがあるけれど、目の前の不幸さえ、何かと秤にかけた時、その不幸が見逃しても良い不幸であるなら、見なかったことが出来る、俺という男とくらべて、さて、どちらが正義の味方であるのかと問われると、母さんに軍配が上がるだろう。

俺は別に正義の味方になりたいわけじゃない。だから、こういう考えで良いのだけれど、いつまで経っても幼い子供が抱き続ける自分の周りにだけ存在する清らかな世界を護ろうとする母さんのことをとても尊敬していて、少しだけ苦手だった。