001

新幹線が終点に着いたことを知らせるアナウンスが流れた。着替えが詰った鞄を手に持ち、財布とスマートフォン、それに受験票が入っているかを確認するとホームに降りる。観光に来たわけではないので、手荷物は必要最低限の物しか詰まっていなかった。下車すると、東京の凍てつく風が真横から御堂筋翔に吹きつけてきた。頬を叩くような風が皮膚に突き刺さり痛い。従姉妹に押し付けられた臙脂色のマフラーに顔を埋め「さむいなぁ」と独り言を漏らすと、改札を抜ける為、整備された駅のホームを闊歩した。


改札を抜けると乗り換えの為、丸の内線へと向かった。利用に慣れた京都駅はJR線とせいぜい地下鉄が連結しているだけだが、東京駅は様々な駅が交差しているため、到着するまでは複雑で迷うことも有るかも知れないと考えていたのだが、色分けされた案内線を辿っていくと想像より簡単に丸の内線へ辿り着くことが出来た。
そもそも、いつも東京に来る時は自転車で地道に漕いでくるか、夜行バスを使う二択しかないので、東京駅というものに慣れていない。今回だって御堂筋は夜行バスで行く予定だったのだが、世話になっている叔母から「受験やのに夜行バス使って疲れがとれんかったらどうするの!」と言われ、しょうがなく新幹線を利用することになったのだ。昔から世話になっているという気持ちがある為か、どうにも御堂筋は叔母に向かって何時ものように滑舌よく反論することは出来ない。押し切られるままに新幹線の切符を購入する嵌めになった。
押し切られた時の叔母の顔がぼやぼやと頭の中に浮かぶ。今朝別れたばかりなのに、妙に懐かしく感じた。

階段を下って丸の内線のホームに到着すると、電車は出発したばかりだった。しかし、間隔を然程あけず、次の電車がきたのでそれに乗り込む。いつも思うのだが、都会の人間というのは感覚を開けず次発の電車が来るというのに、何故駆け込み乗車をするのだろうか。急ぐのであればその分、早く家を出るなりすればいいのに理解に苦しむと御堂筋は顔をしかめた。
電車内は人で溢れていたが、満員電車というほど込んでいない。人より高い身長のお蔭で少々、混んではいたが息苦しくなかった。きょろきょろと、周囲を見渡すと、インフルエンザが今年も猛威を奮っていたのでマスクをしている乗客が目立つ。若い母親に連れられた子どもがマスクを装着することを拒みながら泣き喚いているので、少々、耳障りだった。自分だけではなく癇癪を起こす子どもを「なんとかしろよ」という目線で見つめている乗客も多い。
ぎゃあぎゃぁと騒ぐ子どもは自分が母親に迷惑をかけていることを気付いていない。いや、気付いているかも知れないが、子どもが親に迷惑をかけるということが「当たり前」だとして受け取っていた。泣き叫ぶ度に母親は委縮していき、子どもにかける優しい言葉の裏に段々と棘が現れて行くというのに。その叱咤さえ絶対的な愛情を知っている子どもにとっては恐ろしくない。寧ろ、母の優しさを象徴している言葉なのだ。
その甘えが気に食わない。親が何時までも変わらずソコにいる存在だと信じ切っている。本当は何時死んでしまうか判らないのだ。自分を護ってくれるあたたかい色を持つ絶対的な存在など。突然、消えて無くなってしまう。
自分の母親もそうだった。御堂筋からしてみれば突然いなくなってしまった。彼女はとても自分に甘かった。母と子という二人だけ生活だったので余計に彼女は御堂筋を甘やかした。悪い事をしたら叱ってくれたし、少しでも善いことをすれば全力で褒めてくれた。客観的に見ても甘やかされこそしたが、良い母親だったろうと思う。
母親の傍に居る時の感覚を思い出すと、あたたかい羽毛布団にくるまれているような気持ちになる。記憶に一番こびり付く母の匂いは病室の殺菌されたアルコールが効いた匂いだったが、家に居た時は干したばかりの洗濯物のような香りがしていた。幸福に包まれた生活だ。
しかし、そんな生活も御堂筋からしてみれば突然終わりを迎えた。入院したときはまさか死を迎えることになるとは想像すらしていなかった。
いきなり母の入院が決まった時は泣いて喚いた。
ちょうど、あの子供のように。
駄々を捏ねるとすべてが解決すると勘違いしていたのだ。泣いて喚いているだけで願いが叶うのならば、誰だって強者になろうとは思わない。しょせん、この世では、願いを叶えられるだけの力を持った特別な人間だけが、自分の幸福を実現することが出来るのだ。
泣き喚くことが無駄だと悟ったのは何時からだったか。あまり覚えてはいないが、母の入院日が長引くにつれ、泣き喚くことが母の重荷になるのだと子どもながらに悟っていった。悟っていき、なんでもいい、彼女が喜んでくれることをしたくなった。
「うるさいで、きみ」
泣き叫ぶ子どもの肩を掴むと、化け物でも見たかのような眼差しで子どもは自分を見てきた。瞳孔を大きく見開いて。大きな眼球の中に御堂筋を映した。なんて失礼な餓鬼やと思いながらも、澄んでいる大きな双眸は硝子玉のようで目が離せなかった。この眼は無欲で無知でどうしょうもない人間がする眼差しだというのに、何故だか負けたような気持ちにさせられて腹が立つ。
舌打ちを僅かにすると、母親が子どもの肩から御堂筋の手を払いのけ、我が子を抱きしめ謝罪をする。別に謝って欲しかったわけではないので、謝られた所でなにも思う所は無いが、ちょうどホテルがある駅だったので無言のまま下車した。
やはり誰かに庇護され甘やかされている存在はとても嫌やわと思った。



002


受験を難無くクリアした御堂筋は四月から上京し一人暮らしを始めた。
木造建築のアパートは老朽化が進み、階段を上るたびに床が軋むのだが、お蔭で家賃が安い。引っ越しの手伝いに来た従姉妹と叔母は「もっと良いアパートでも良かったのに!」と口煩く言っていたが、金のかかるスポーツまでやらせて貰っておいて、これ以上の我が儘を望む方がどうかしている。母が残しておいてくれた僅かな遺産があるといえ、子ども一人を大学まで通わせるのに使うお金は平均して三千万円だと言われており、国から補助金が幾何か降りていても到底、足りる金額ではない。
本当は家賃から光熱費まですべて自分で賄う予定だったのだが、却下されてしまい、こんな屋根がついているアパートを借りて貰うこと自体、申し訳なさは僅かにある。それにアパート自体は悪くは無い。駅から遠いが自転車を使えば問題のない距離であるし、襤褸過ぎて住人があまりいない。お蔭でとても静かだった。
大学へはデローザを漕いで三十分ほどかかる。全力で漕いだらもっと早く到着するのだが足を慣らすことを目的としているので、無理をせず体に負担がかからないよう調節しながら漕いでいく。御堂筋がわざわざ関東にある大学を受験したのは、ロードレースの強豪校として有名な大学で、卒業した後、学校名を話しても笑われない程度には名の知れた大学だったからだ。推薦が来たわけではない。沢山、名のある強豪校から誘いは受けたが御堂筋が提示した条件に見合うと判断出来たのはこの大学だけだった。勿論、この大学から推薦を貰えれば楽だったのだが、クライマーに今年は力を入れて推薦状を出しているようだったので、オールラウンダーの御堂筋には声はかからなかったのだ。
だが、別にいい。入学して、入部してしまえばこちらのものだ。高校の時のように首尾よく牛耳れるとは思わない。紛い物なりにも大学までロードを漕ぎ続けてきた連中なのだから、それなりに骨のある奴らだろう。しかし、時間をかけてゆっくりと、自分がいかに貧弱な存在で勝つ為には御堂筋翔という人間が必要なのかということを分からせていけば問題ないだろう。
ぜぇんぶ、順調や。
ニヤッと自然と口角があがった。笑う御堂筋を見ていた周囲の人間が、ひそひそと卑下するような声を飛ばし「きもちわる」と呟いていたが気にならなかった。自分がプロになる道のりは順調に開いている。他人が見れば彼岸花が咲き誇る道だろうと、御堂筋にとっては満開の桜と同じだった。
脳内で考えたプランにまるで狂いはないと、入部届を出しに部室まで足を運ぶ時までは思っていた。







        □



「なんでお前らがここにおるん?」
思わず疑問が口からするりと出てしまったのは、入部届を出しに部室まで足を運び、扉を開いた瞬間だった。

入学式からの様々な今後大学生活を送る上で大切な説明会(オリエンテーションとも俗に言う)が終わり、七日目にして部活やサークルへ入部届を持っていくことを許された御堂筋はその日の夕方、前日に記入しておいた入部届を出しに部室まで向った。
山の麓を開拓するようにして作られた大学なので、坂を折りたたんだデローザを担ぎながら共に上がっていく。体育館を抜けるとその奥に、高校のような清廉さには欠けるどこか雑なイメージを持たせられる部室の群れが建てられてあった。コンクリートの壁には落書きが施されてあり、何代も前の生徒がしたものだろうと直ぐに予測することが出来た。色が剥げて劣化している。御堂筋は、知能の低い連中が居るのだと馬鹿にしたような眼差しを向け登っていく。
自転車競技部の部室は尤も奥にあり、大きな木々の下で影を作っていた。直ぐ裏は東京に似つかない山が広がっている。コンコンと軽くノックをすると、扉の向こうにいる先輩と思われる人物が「どうぞ」という声を返した。一応、頭を下げて「入部届持ってきたんですけど」と控えめな声を出し、上を向くと見慣れ過ぎた顔が二つも転がっていて、ひっと思わず息を飲み込んでしまった。
そして、先ほどの言葉が出た。
「なんでお前らがここにおるん?」
と。
何故? なんでや? と今まで順調だった御堂筋の頭の中で組み立てられていたプランが崩れていく音がした。瓦解の音というのを久しぶりに耳にした。頭の片隅にあったプランに罅が入って割れていく。
本来ならコイツ等はこんな所にいてはいけない。味方として慣れ合うつもりはない。寧ろ、大学に入って高校時代の雪辱を晴らすつもりでいた。お前らは所詮、敗者なのだということを教えてやるつもりだったのに。
「御堂筋くん!! わ、え、ここの大学なの? 嬉しいよ!」
こっちはまったく嬉しくないわ! と明らかに嫌そうな顔をしているというのに、空気なんか読まず、まるで運命だと言うように自分の手を握りしめ馬鹿みたいに喜んでいるのは、高校三年間の間にインターハイでの優勝を二回味わった男だった。
一度目は一年生の時。まったくノーマークだった、今年から自転車を始めたという初心者に負けたのは未だ記憶の奥底に悔しさとして残っている。二度目は三年生の時だ。御堂筋からすればついこの間のことだ。絶対に負けるやろう、もう諦めろや、ということが何度もあったにも関わらず、この目の前にいる間抜けで腹が立つ眼鏡をかけた男は、諦めずペダルを漕ぎ続け、結果、優勝を果たした。笑顔のままゴールテープを切り、両手をハンドルから離し空を仰いだ。
勝利しか知らないような男だと勝手に思っている。負けるのが嫌なんです、勝ちます! 追い付きます! と言って、本当に勝ってくるのだ。そういうことが出来る人間というのは、そうとう諦めが悪く、そして人とは違った突起した選ばれた才能を持っている奴なのだが、この男は両方持っているというのだから性質が悪い。しかもその勝利に対する執着に裏表というか、勝負事をする人間だったら誰でも持っている筈の「汚い心」というのを持っていないように見える。純粋なのだ。御堂筋がもっとも嫌う、純粋で腹立たしい眼をしている。
「わ――ほんとうに御堂筋くんだね。俺さぁ、坂道くんもいるし御堂筋くんもいるし、もう大会でなくても色んな人と山登れそうって思ってすげぇわくわくしてきた」
もう一人の空気を全く読まないアホ毛が目立つ男が立ち上がり御堂筋に詰め寄る。男もインターハイの優勝を一度だけ掻っ攫って行ったことがある人間だった。一年目はコイツも負け知らずの男だった。眼鏡と同じく負けることを知らないという顔をしていた。本当に自分が楽しんでいて、生きているという実感を味わっているというのに負けることなど有り得ないと考えているようなそんな男だった。
しかし、二年目からは違った。昨年の負けがこのアホ毛のどんなところを刺激したのかなんて想像したことはないが、敗北という現実を知った男は勝利を得る為に山を登った。その点では自分とまるで一緒だったように思えるのだが、自分と異なった所は、勝利を貪欲に求める様になってからも山を登る事の楽しさを阿呆のように忘れなかった所だろう。コイツも眼鏡と一緒だ。純粋。御堂筋が嫌いな純粋な眼差しをしている。
「小野田に、真波ぃ」
小野田坂道と真波山岳。
ロードレースを齧ったことがある人間ならば今では誰もが知って居る名前だ。彼らはそれほどまでに強かったし、出場する大会、出場する大会で勝利を収めていった。区間賞、俗にいう山岳賞などは御堂筋もこの二人が出場する大会でもぎとったことがあるし、インターハイのような何日も分けて行う大会で日別の勝利をぎ取ったことはあるのだが、最後のゴールテープをこの二人が出場する大会で御堂筋が一番初めに切れたことは一度もなかった。そもそも、関西と関東で勝負する場が限られているからということもあるが、一度も勝てたことがないのもまた事実だった。
だからこそ大学では勝利をこの二人から奪ってやるつもりでいたし、何より二人の事が好きにはなれなかった。自転車を乗っている時ならばいい。実力は確かだ。そこら辺の雑魚共と走っているよりよほど有意義だったし、走っている時ならば喋らなくてもいい。顔色を覗きこまなくてもいい。ただ、ペダルを漕いでいるだけでいいのだから。
しかし、喋るとなると彼らと会話が噛み合ったことなど一度もなかった。御堂筋は小野田と喋っていると宇宙語を語られているような気分になるし、真波にいたっては自分から「俺らって自転車乗ってないと喋ることないね」と言ってくる始末。実力が無ければ塵のように意思のないものとして扱ってもいいのだが、実力がお墨付きなだけに無碍に扱っても懲りずに話しかけてくる。
「サイアクや、なんでいるんや」
「え? ご、ごめん。僕は、その推薦もらって。ここが一番いいかなぁって」
「あ、オレもだよ。推薦貰ってさぁ――ここの大学が一番楽しそうだなって! だって、他の大学は学校に山がないんだよ! みんな盆地でさぁ。やっぱり山がある大学じゃないとつまらないなって」
「なら、東京以外の大学にでもいけや」
「え――それだったら、先輩達と一緒の大学になるなぁって。俺、今度はあの人達と戦ってみたかったんだよね」
「ぼ、僕はただ、ここが、その家から一番近くて。ご、ごめんね」
一斉に喋り出した二人を見て顔を顰めた。一人ずつ喋るということを知らないのか。いや、あまり人と喋ると言う機会を持たなかったからだろう。小野田の方は遠慮こそしているが微妙に真波がぺちゃくちゃ喋るのと被っているし、真波に至っては好き勝手口を動かしているだけだった。
クライマーを中心に推薦を出していると言うことをもっと考慮すべきだった。クライマーとして今年度もっとも有名なこの二人に推薦状が届かないわけがないのだ。それにしても、様々な大学から推薦状を貰っただろうに。なぜ、よりにもよってこの大学を選んでしまったのだ。
「まぁ、御堂筋くん。これからよろしくね」
「よ、よろしく御堂筋くん!」
挨拶されたからと言ってとてもよろしくする気持ちにはなれなかった。順調にいっていた筈なのに、大きな齟齬が生じてしまったと深いため息を吐き出した。






              □



話はやはり合わないが、同じ学科、同じ部活ということでどうしても一緒にいる時間は多くなった。常人なら適当に接して無視を貫いていれば、御堂筋に話しかけることなど無くなるというのに、真波山岳と小野田坂道は違った。
特に小野田の方はなんとアパートが一緒だったということもあり、勝手に「運命かな御堂筋くん! 僕と君がと、と、ともだちになるための!」なんて、うっとおしい妄想に浸った言葉まで投げかけてくる始末だ。家から近くてお前はこの大学に入ったんやないのか? と言ってやりたいが、毎日部活をしてから実家に帰るには少々、きつい距離らしい。なにより一人暮らしした方が秋葉に近いという単純な理由だった。アホくさくて、また秋葉かと溜息を灰いた。
御堂筋がどれだけ無視していようと、初めて会話を交わしたあの薬局までの道のりと同じノリで言葉を投げかけてくる。無反応な相手に対して良くそれだけ喋れるなぁと偶に関心さえしてしまう。
小野田がぺちゃくちゃぺちゃくちゃと一方的に趣味の話を投げかけるのに対して、真波山岳は基本的には自ら好んで喋りかけるということこそ無く、小野田がいなければ無言で二人とも空を眺めているということが多い。だが、一応喋りかける時は顔色を窺ってくる小野田と違って、真波は話の脈絡もなく唐突に声をかけてきて、どう解釈すれば今、お前が喋っている内容になったん? なんで喋りかけてきたん? という会話をしてくるので困り者だった。
勿論、御堂筋は無視を貫くのだが、黙って偶に二・三言返してやれば満足する小野田坂道と違って、真波山岳は無視をする御堂筋に対し「ねぇ、なんで黙ってるの? ねぇ、ねぇ!」と返事をするまで肩を揺さ振ったり耳元で叫んで来たりするので、うっとおしいことに変わりない。
結局、三人でいてもまったく会話の内容が掠りもしないので一緒にいる意味があるのかさえ分からない。
四月は特に三人一緒に行動することが多かったので、傍から見れば友達だという認識をされているだろうが、自転車が関わらなければ趣味も合わないし、物事の考え方一つとっても違うような人間のことを「友達」と定義するかどうかというのは、疑問を抱く所だった。
小野田が一方的に喋っていて盛り上がっているように見える時もあるが、結局、ライバル校として対面していた時と関係性はまるで変わっていない。御堂筋が二人とコミュニケーションを取れていると感じるのは、自転車に乗っているときだけだったし、それは小野田坂道も真波山岳も同じような認識だっただろう。



        □



「まぁ、けど自転車乗るのは嫌いやあらへんよ」
ぼそっと御堂筋が呟いた言葉に素早く反応したのは小野田だった。良くもまぁ、こんな暑い中で自転車を漕いでいると言うのに、他人の呟きに反応出来るものだと思う。
入学して半年以上経過した。
茹だるような暑さを伴う夏の訪れはレース開始を告げる合図のようなものだと御堂筋は感じる。ロードレースはオールウェザースポーツだ。いかなる天候でもレースは続けられるし、一般的にオフシーズンだとされている冬だって路面が凍結し雪さえ積もってさえいなければペダルを踏むことは出来る。しかし、試合本番だと感じるような季節はやはり夏だった。皮膚がじりじりと太陽に焼けるような匂いが鼻腔を過り、蝉たちに耳障りな合唱が鼓膜にこびり付いてペダルを漕ぐ中で手に入れる勝利は中々に気持ちが良い。
今日はその夏の暑さの中で走る今年二度目のレースだった。御堂筋らが入学した大学はとにかくレースへの出場回数が多い。どんな小さなレースでも体調が優れているのならエントリーするのが基本となっている。高校時代はレースと言ってもインターハイへの調整も兼ねてのものが多かったので、回数はそれほど多くなかった。
しかし、大学は違う。出場したレースで最も多く勝利を手にした選手が自動的にインターカレッジの団体選手として出場することが決まるという仕組みになっていた。この仕組みは中々御堂筋的には気に入っているもので、実力主義が分かりやすい形で出て効果的だと考えている。雑魚を相手しなくて済むし、普段偉そうにしている先輩と呼ばれるたかが一年や二年先に生まれただけの連中が敗北して地に足を着く瞬間を高見から見学することが出来るからだ。
尤も、一番良いのは真波山岳と小野田坂道がこの争いに負けることだが、中々、自転車を乗ることに関して抜きん出た才能を持っている二人を蹴落とす選手は御堂筋を除いてこの大学にはいなかった。
「え、御堂筋くん、今、なんて言ったの?」
「アホか、聞こえてたやろ」
「うん、けど夢かなぁと思って。あのね、僕も御堂筋くんと登るのすごく好きだよ!」
汗をだらだら流しながら人の呟きに小野田は脚色して返事をする。好き等とは一言も言っていない。どちらかと言えば、お前らと喋るのは嫌いやから、お前らと自転車乗る方がまだましやわ……――という意味合いの方が強いというのに。純粋な眼差しで、はっきりとした肉声で嬉しそうに告げる小野田を見ていると調子が狂う。
ここに真波が居ればまた違った雰囲気になっていただろうに(おそらく、アイツは俺も! と元気よく答えたあと、けど負けないよ、と人が変わったように囁いてくるに違いない。真波が持っている負けん気の強さや、ある種、弱者を舐める様に下に見ている態度、強者と出会っても貪欲に勝ちに行く態度は中々に嫌いではない)生憎、真波はここにはいない。
二十分ほど前に集団落車が後方で起こり、御堂筋と小野田は巻き込まれリタイヤ寸前だったのだ。
勿論、落車したというだけでは今日の目的がある「御堂筋くんと真波くんと対等に競って勝つ」という小野田は諦めないし、御堂筋は巻き込まれるふりをして寸前の所で回避していたので、先頭集団に今から追い付く所なのだ。
真波は初めから飛び出して行っていたので落車を免れ、今は先頭集団にいるか既にその集団から離れたところで、二人が登ってくるのを今か、今かと待ち構えている所だろう。
「お喋りする暇があったら登らなあかんのとちゃう?」
「どひゃ――! そ、そうだね御堂筋くん! じゃあ、行こうか!」
「協調するんか」
「え、駄目だった?」
当然のように協調するつもりだった小野田を見て顔を顰めたが「僕が引くよ」と言い出したので、せいぜい、小野田に風よけになってもらい自分は脚を休めることにしようと勝手に決めた。今日こそ勝つのは自分だ。
四月から何度も勝負を三人でしているが、結果は小野田が三回勝利して真波と自分が二回という成績だ。今日、真波が勝つと自分がビリになってしまうので、それはなんとしても阻止しなければならなかった。






ゴールラインを真っ先に切ったのは、御堂筋ではなく真波山岳だった。あのまま逃げきった真波は風のように自転車を漕いでいき、目と鼻の先でゴールを決めた。走っているときの真波の顔は自分と変わらないくらい気持ち悪いと思うが、貪欲に勝利だけを求める化け物に負けるのは腹立たしいが、認められないほどでもない。
今日の敗因はやはり落車を見抜けなかった自分の判断ミスによるものであるし、どうも昔から奥の手を隠し持つ戦術運びになっているようで、慎重に事を運んでしまう。真波のように序盤から考え無しに飛び出していくことが出来ない。いつも後手に回るような形で切り詰め、どこからどう崩して行けばいいのか考え抜き勝負に出るのだが、最近はその手段を取っている限り自分は勝つことは出来ないのだろうと分かってきた。
ならば、次は先手必勝とばかりに飛びだせばいいものではないが、体調が万全過ぎると見越した日は真波のように飛び出していくという方法を取るのも有りやなぁとぼんやり空を仰いだ。
レース後の空は妙に青い事が多い。今まで自分は青空の中を走ってきたのだが、何故か走っていると空を眺めている余裕はない。景色は視界に入っているのだが、上を向き仰ぐことが出来るのは勝者になった瞬間か、レースが終わり勝負事に決着がついてからと決まっていた。
「御堂筋くん!」
「小野田かぁ。なんや」
「いやぁ、真波くんにドリンク届けにいこうと思ったんだけど……――」
察して欲しそうな雰囲気を出しながら小野田は目線を真波がいる方へ向ける。
そこそこ大きな大会だったのでチャンピョンは首にメダルをかけて、アホみたいに人が群がっている。今日の真波も派手なメダルと花束を持って記者たちに先ほどまでは取り囲まれていた筈だ。
人見知りな小野田のことだ。記者たちの間へ割って入るのが嫌なのだろうと決めつけて目線を向けると、そこには記者の姿はなく二つ括りで眼鏡をした真面目そうな女と喋る真波の姿が見えた。
あの女には見覚えがあると御堂筋は曖昧な記憶の断片を引き摺り起こす。確か、過去二回、真波が勝った試合が終わった後はいつもあの女と喋っていた。初めは群衆に紛れていたので気付かなかった。どうせ顔が妙に整っている真波のことなので女から喋りかけられてちやほやされているだけだと決めつけていたのだが、二回目になると段々と女の顔が輪郭を帯びて捉えられるようになった。そして、三回目となると見覚えがある女という印象に変わった。
どうにも真波とは違うタイプの人種に見えるのだが、あの真波が数分間人らしい会話をしているのだからよほど、親しい仲なのだろう。真波の会話はいつも脈絡がなく、喋っていると何を主題としていたか忘れることが多いのだが、あの女はどうやらそうではないようだ。と、いうことは、よほど親しく話慣れた仲ということになる。
「こ、こ、ここ、恋人かな」
ドリンクを握りしめた小野田が顔を真っ赤にして呟いた。良く他人の色恋沙汰にそこまで興奮するものだと、冷めた眼差しを向けるが小野田は気にせず「ま、真波くんってモテる、もんね! あ、そういえば今泉くんもね」と意味が解らない話を始めた。なぜ、今泉が出てくるのだろう。
適当に話を切り上げたくて「そうなんちゃう」と返すと、今泉の意味がわからない話から再び真波の話に戻ったようだった。
御堂筋はじぃっと小野田の話を横で聞き流しながら二人の姿を見つめた。恋人と適当に返事をしたがどうにも恋人とは違う気がした。
実際、今まで誰かに恋をしたことも、恋人が居たこともないので、恋人同士という雰囲気がどのようなものか御堂筋は理解出来ないのだが、何故か世話をやく眼鏡の二つ括りの女と真波を見ていると、幼い頃、自分が母にレースが終わった後にして欲しかったなぁと想像し夢見ていた光景と重なって見えた。
眼鏡の女はレースに勝った真波のことを褒めて、タオルを渡して、汗を拭こうとしない真波のことを甲高い声で叱っていた。ロードレースの服っていうのはね? と、うんちくを垂れ始めようとする真波の口から出る言葉など聞く耳を持たず「とにかく、風邪でもひいたら次のレースに出れないでしょう!」というようなことを言って入念に顔を拭いていた。かと思えば、真波が咽喉乾いたなぁという顔をすれば自分が持って来ていたであろう、水筒を差し出していたし、お腹が空いたという顔をすればおにぎりを差し出して存分に真波を甘やかしているように見えた。
過保護と見えるまでに真波を甘やかして、けれど心配をし、間違ったことは叱っているその姿は母と子のようだ。
ふと、受験前日、電車の中で見た親子のことを思い出した。
甘やかされるのが当然だと言うような態度をとっていた子どもの姿が妙に真波と被って見えた。





003

食事というのはスポーツ選手にとってとても大切な生活の一部だ。良く食べ物を噛み切る歯でしっかりと噛み砕いてから、栄養を咀嚼することはスポーツ選手のもっとも大切な行いと言えるだろう。
独り暮らしを始めてからというもの、叔母たちは「ちゃんと食べてる?」と時たま、連絡を寄越してくるが優勝するための準備を御堂筋が抜かるわけも無く、しっかりと三食、栄養を考えて胃の中に食べ物を収めていた。

「ふぅぅ――美味しかったね」
しかし、あくまでそれは一人分の話だったのだが、今年の冬に入って小野田坂道が部屋に炬燵を出してからというもの「ねぇ、御堂筋くんお鍋一緒にしない?」と誘ってくることが多くなったので、なんとなく二人でご飯を取ることが多くなってしまった。
初めの内は「炬燵だよ、お鍋だよ!」としつこく誘われていても無視を貫いていたのだが、一度「御堂筋くんと一緒に炬燵で鍋を食べる!」と決めた頑固な坂道は、御堂筋がどれだけ追い払っても翌日には誘ってきた。十回ほどそれを繰り返すと断るという行為に飽きてしまい、一度ご飯を共にすると、なんとなくそのままずるずると、炬燵の気持ち良さもあり夕食を共にするようになってしまった。
冬なので食べるのは決まって鍋なのだが、自分が招かれた側だというのに、なぜか鍋の支度をするのはいつも御堂筋の方だった。小野田は想像以上に料理が出来ない。今まで半年間どうやって生きてたんや? と御堂筋が疑問を浮かべてしまうほどの料理下手である。鍋なんて切って煮込むだけなのだから、誰だって出来るだろうと思っていたが、小野田が切った野菜は太すぎて初めて鍋を一緒に囲んだ時は煮えるまで随分と待ったものだ。唯一、まともに出来るのが玉子焼きくらいなのだが、それも日によって味はバラバラだし、小野田が作る砂糖が入った甘めの玉子焼きは、醤油と味醂を混ぜた玉子焼きが好きな御堂筋にとって美味く出来ても微妙な味でしかなかった。
今日は小野田のリクエストでキムチ鍋をしたのだが、しょうしょう意地悪のつもりで辛めに作ってやったにも関わらず、美味しいよ、美味しいよと頬張られてしまったので作戦は失敗である。
「あれ――? もしかして、もう食べちゃったの?」
がらがら、と、チャイムも無しに人の家(小野田の家ではあるが)に上がってきたのは真波だった。
時たま、こうやって二人で鍋を囲んでいると真波は連絡も無しに突然現れるのだ。真波も一人暮らしをしているのだが、御堂筋と小野田と違って借りているアパートは学校のすぐ近くだった。
歩いて三分ほどで学校に着く距離で、良くこれだけ近くてあれだけ+遅刻が出来るものだと呆れてしまう。必修科目を一緒に受けているのだが、真波の出席率は前期はあと一日休んだら単位が貰えなかったし、後期もすでに後がない。必修以外の科目など、何科目か落としていることもあるようで「お前、四回生になったら苦労するタイプやで」と笑ってやると「けど山が呼んでるからさ」という言葉が返ってきただけだった。本人は単位を落とそうとまるで気にしていないらしい。良くこの調子で高校三年間は留年しなかったなぁと感心してしまう。
「お前の分なんかあらへんよ」
連絡も無しに来るからや――と嫌味を込めて返したのだが、真波はまるで気にしない様子で、鞄の中から特化! と書かれたシールが張られてあるスライスチーズを取り出した。
「けど、おじやはまだでしょ? 俺さぁ、キムチ鍋って坂道くんに聞いたからチーズ持ってきたよ」
「あほちゃう。鍋に入れるんやったら、スライスチーズやなくて、ミックスチーズとか買ってこんかい」
「ミックスチーズって?」
「ばらばらになっとるやつや。そういう、四角のパンに乗せる感じのやなくて」
「ああ、なるほど。けど、溶けるんだから一緒だよ。ね、早く、ご飯、ご飯!」
コートを脱いで、隅っこへ放り投げたあと、図々しく炬燵の中へと入ってきた。手を洗うという考えはどうやら無いようだ。当然、おじやを作るのは御堂筋だと考えているようで、鍋の中に残った野菜の残骸をお玉で救い出しては食べていた。
神出鬼没なので真波の分の鍋など今日のように残っていない時もあるのだが、それならば! と言って、締めの雑炊を腹にたらふく収めるので何時来ようとも本人としてはまったく問題がないようだ。偶に雑炊さえ終わっているときもあるのだが、白米は大抵残っているので、それを食べていく。腹の中に納まってしまえばなんでもいいようだった。
小野田と真波が動く気配を見せないのでしょうがなく立ち上がる。このまま家へ帰ってしまっても良いが、チーズという高カロリーのものをタダで食べられる機会を逃すのは惜しい。どうせ米も小野田家にあるのを利用するのだと、炊飯器の中を覗き込み、炊きあがっていたご飯を鍋の中へと放り込んだ。


「あぁ――食べた、食べた」
真波は満腹になった腹を摩りながら満足そうに呟いた。小野田も腹が限界のようで横になってうとうとと瞼を落としかけていたので、コイツ片付けもせんと寝るつもりとちゃうか? と思った御堂筋は小野田の頬っぺたを摘まんで起こした。
流石に片付けまでする義理もなければ、なんで飯まで作って後片づけまでボクがしなあかんねん? と真っ当なことを思う御堂筋は、慌てて起き上がった小野田がせっせと片付ける様子をぼぉっと見ていた。
「お前はいつも片付けもせえへんな」
まだ積極的に食卓を片付けようとする小野田はマシだと御堂筋は真波のことを横目で見る。携帯を弄りながら鼻歌を口遊む真波はいつも後片づけさえ参加しないので、そうとう、図太い精神の持ち主だ。
「う――ん、なんか実家とかでもやってもらっちゃってたからなぁ」
「そんなんや、一人暮らしできひんやろ」
「うん」
「即答かいな」
「まぁね。出来ないっていうかさぁ、別にやんなくてもいいかなぁって」
「塵屋敷になるで」
「いつも掃除しに来てくれる子がいるから大丈夫だよ」
にこっと全力で笑い、なぜか自慢そうに話す真波の顔は腹立たしいものだった。掃除しに来てくれる子――という言葉を解釈するならば、それは実の両親でもなければ、兄妹でもない(そもそも真波は一人っ子だ)、男友達でもないので、おそらく、恋人だろう。
真波山岳という飄々として、掴みどころのない、自転車を乗ることにしか特化した才能を持っていないような男であるのに、何故か女にはモテる。顔が整っているからというのもあるだろうが、この掴みどころのない所がミステリアスで良い! という女がいたり、なんだか天然っぽくて可愛い! という女がいたりするので異性の考えていることは、同性が考えていることより、不可解だと御堂筋は思う。
まぁ、それだけ女から騒がれているのならば、掃除に来てくれる女が一人くらい居たとしても不思議ではないだろう。
「色恋沙汰に現を抜かしてたら負けるで」
嫌味をたっぷりこめて真波へ言葉を飛ばしてやったのだが、当の真波は御堂筋が言っている言葉の意味を理解出来ないという顔をして、瞬きを二回ほど繰り返した。
「え、恋人じゃないよ?」
「なんや、部屋の片づけまでさせてるのに恋人やあらへんの?」
図々しい男だと嫌味を込めていう。よほど清潔で綺麗好きの人間でなければ他人の部屋など掃除したくないだろう。わざわざ真波の部屋まで行き掃除をするということは、よほど、真波山岳という人間に好かれたいという心の裏側が見えているというのに。恋人でさえなければ、その女は真波にとってただ、掃除をしてくれる友人というだけの存在になる。
「恋人とか、委員長はそんな言葉では片付けられないよ。てか、そんなものと一緒にしないで欲しい」
へ、と咽喉から間抜けな声が出そうになった。部屋の掃除までさせておいて恋人でもないという女のくせに、まるで真波が「恋人より彼女は大切な存在だ」と言っているように聞こえたからだ。
「あ、もしかして、偶に応援しに来てくれる子?」
片付けが終わった坂道が、緑茶を急須に入れて持って来て告げる。ことんと、いう陶器の音が机の上に置かれ、ずずぅとお茶を啜りながら尋ねた。
「そうだよ。さすが坂道くん」
「なにがさすがやねん」
「いやぁ、良く見てるなぁって思って」
良く見ていると言うより、女子と喋っているイケメンの姿は現実でも確かにあるんだ! みたいなテンションで覗き見していた坂道を見ているので、なんとも言えない気持ちになる。
「委員長はさ、俺の幼馴染なんだけど、う――ん、なんて言えばいいんだろ。けど、恋人じゃないよ」
「なんや、お前はその女の事好きとちゃうんかい」
いつも応援に来てくれている子という言葉を思い出して、あの眼鏡で二つ括りの女を御堂筋は脳裏に思い浮かべた。
真波が勝つ試合の時、必ず見に来ているあの女だ。おそらく、部屋の掃除を定期的にしに来てくれて、恋人よりも大切な存在であるというのは、あの眼鏡の女のことを指しているのだろう。甘ったるい、甘えているばかりいる阿呆の姿を全力で真波が晒していた光景を思い出す。反吐が出るような構図だった。勝利を報告して、汗を拭いてもらい、飲み物を貰い、祝いの言葉を吐かれ、そして叱咤されていた。真波はあははと笑っており、見ていると咽喉の中で痰が絡まったような気持ち悪い感情が芽生えた。
「好きだよ。すげぇ、好き。けど、恋人じゃないんだって。なんていうかさ、委員長はすごい強い人なんだよね――」
「すごく好きだけど、恋人じゃない、の?」
坂道が真波の思考についていけず、疑問を漏らしたが、変わらずにこっと爽やか好青年を装った笑みが真波から弾けだす。
「うん。ずっと、俺の応援をしてくれる人。なんだろ、なにがあっても彼女は俺のことを嫌わないんだ、きっと。それで、世界で一番強い人。だから、付き合わないし、付き合えないかなぁ。だって、恋人なんて関係じゃ収まりきらないよ」
さらりと嫌味なく答えた真波の言葉を聞いて、相変わらず自分勝手な奴やなぁという感想を御堂筋は抱いた。
それやったら、その女の気持ちはどうなるんや? というのがまず初めに頭の中に浮かび上がった疑問だった。
女というか、人間というのはそれほど強くは無い。なにがあって真波がそこまであの眼鏡の女を神聖視しているのかはわからないが、好意があるから尽くしており、見返りを求めるから努力し、言い方は悪いが媚びを売るのだ。誰が好きでもない相手の面倒を見返りもなくせっせと見るというのだろう。家族ならともかく。
そう、家族ならともかく。家族であれば別だ。血の繋がりという切っても切れない縁にいるだけあって、家族というのは、なんの見返りもなく他者の面倒をあんがい見るものだし、法律上にもその義務があるくらいだ。だから、真波の面倒をせっせと見ている女が実の姉だというのなら、すんなりと胸の溜飲が下りたが、どうやらそうではないらしい。幼馴染といっても所詮は他人であるし、この年になって、ましてや異性のことをなんの見返りもなく世話を焼くというのは考えられない。ずっと応援してくれて、俺のことを嫌わない強い人と真波は女の事を称したが、それはあまりにも残酷な科白やなぁと御堂筋は思った。自分の気持ちを押し付けているだけだ。真波は。相手の。あの、女の気持ちなどまったく考えたことも、ましてや汲み取ろうと努力したことさえないのだろう。
しかし、それは疑問を抱いたに過ぎず、次に思い浮かんだ疑問の方が御堂筋を苛立たせた。
お前、なんで無条件にその女がずっと自分の隣に居ると思ってるん? という。
そんな保障なんてどこにもないのだ。自分が大切な人が死なない世界など有り得ない。人はいつか死ぬ。遅かれ早かれ。いや、死という大げさな今生の別れでなくても、真波が何時までも女の気持ちを無碍に扱おうというのなら、向こうから離れていっても仕方のないことだ。絶対なんて言葉はこの世のどこにも存在しない。当たり前のことだ。保障されたものなんて一つもない。
なのに、なぜ。真波は子どものようにそれを信じているのだろうか。
「アホとちゃう」
「み、御堂筋くん!!?」
流石に、今の場面で毒舌が飛びだすのはまずいと判断した坂道が、必死に御堂筋の口から出るであろう台詞を止めにかかるのだが、そんなこと知ったことではなかった。
「いつまでも、あまったれのままやと、いつかその女離れていくで、真波ィ。なにが、嫌わないや、なんで、ずっと甘えてるんや。そいつは、お前の親か? そうやないやろ。せやったら、面倒みたらん義理なんか一つもないんや。すぐにぃ、離れるでぇ。一瞬や、ほんまに。親やって、一瞬、ほんの目ぇ離した隙に消えるんやから、なんの拘束力ももたん、ただの他人との関係なんて、ほんま、一瞬で消えるんや」
口から言いたいことが出てくる。ずるずる、ずるずる、ずるずると。
真波は睨みをきかしたような顔で見つめ返してきた。自分のお気に入りを、価値観を否定された子どものような顔で。怒っていると読み取れる顔だった。けれど、適切な言葉が自分の中で思い浮かばなかったのだろう。駄々を捏ねる理由を探しているような眼差しだった。
その顔を見て、ほんま、コイツは子どもやなぁと思ったのと同時にどこか胸の中がすっきりした。
反論されたらさらに酷い言葉を重ねて、ひたすら真波を虐めてやるつもりでいたのだが、意外なことに真波は沈黙を続けるだけだった。坂道一人だけが緊迫した空気の中で、どうしようかと焦りを見せている。
このまま睨み続けていても、おそらく何もないのだろうと、無言のまま御堂筋は自分の携帯を持って小野田の部屋を出た。
ぱたんと部屋の外に出て少しだけ冷静になった頭で、ちょっと言い過ぎたか? という疑問は抱いたが、すぐに自分が間違ったことを告げたことは無いと訂正が入る。
「親でさえ、いつまでもおらんのやぞ」
母親の顔がぼやりと脳裏に浮かんだ。
優しい笑顔を見せる母の顔が。本当は苦しいくせに、心配をかけようとせず、御堂筋を励ます言葉ばかりかけていた母の顔を。
世界一、強い人は誰だと言う問いかけに、おそらく御堂筋は「僕に決まってるやろ」という言葉を口にするだろうが、内心では母親の事をうっすらと頭の中で思い浮かべるのだ。少なくとも、幼い御堂筋にとって母は一番強い人で認めてもらいたい存在で、一度も見に来てくれなかった試合に、もし母が顔を出してくれたのなら、アホみたいに頑張って、その勇姿を母へと見せつけていただろう。そして、褒めてもらって、汗を拭いてもらい、抱き締めてもらい、お茶を飲ませてもらい、二日後くらいにちょっとだけ叱られるのだ。そういうことを望んでいた人だった。結局叶わなかったけれど。
母は一度たりとも御堂筋の試合を観に来ることなく死んでしまったのだから。










004


真波はあれから御堂筋に対して、眼鏡の女の一件で何も言い返してくることはなかった。どころか、次の日から普通に話しかけてきて、誘っても無いのに夕飯を食べに来るので、以前とまるで変わらない付き合いが続いた。
掘り返されても、罵倒するしかないような内容なので、しょせん他人事だと思った御堂筋からも、眼鏡の女の一件を掘り返すことなく、ただ坂道だけが、以前のような争い(彼から見てみれば喧嘩しているようにも映っただろう)が起きないことを危惧して、少しばかり心ここにあらずな状態が続いた。
 


         □


「絶交のレース日和だね」
そう口に出したのは坂道だった。今日は二年目のインターカレッジの選抜メンバーを決める重要なレースを控えており、あと一時間もすれば笛の音と共に旗が上げられ、レースが開催される。流石に何度もレースを経験しているので、人が溢れかえっていようともう焦らない小野田は青空を見上げ、瞼を軽く閉じ風を感じる様にそう呟いた。横に居た御堂筋は「なに黄昏てんねん。雰囲気つくんやな」と若干思ったのだが「そやね」と適当に答えておく。
内心では、コンディションとか、天候との兼ね合いでどうレースを組み立てれば良いかとか、そういうことも少しばかり考ええや、と坂道に対して毒舌を吐いているのだが、述べたところで坂道が実行するわけでもないし、そもそもライバルにアドバイスを伝えてやる必要すらない。坂道はたった一言でいいのだ。たった、一言の返事をするだけで坂道がアホみたいに喜んで勝手に会話を続けてくれるというのは一年間四六時中共に居て学んだ教訓だった。
「今日は長い山岳ステージがあるみたいでさ、早く漕ぎたいな」
「ほうか」
「そうだよ! きっと真波くんもすごく楽しみにしてって? あれ、真波くんは?」
「そういえば、おらんな」
アイツの所在地など知ったことではないと御堂筋は溜息を吐き出すが、一応、同じ大学の選手として、出場予定の選手が一時間前だというのに会場付近に顔を出さないというのは不味いのではないかという疑問は抱いた。
「いつも、レースの日は一時間前くらいには居るのにね」
「けど、真波やだ」
「そうだけど。寝坊かな? 僕、電話してみるよ」
携帯を探し始めた坂道を薄眼で見ていたのだが「ええ、どこだったっけ?」などと、間抜けなことを言い出したので、先ほどマネージャーに私物はまとめて預けたことを伝えてやった。おそらく、テントの中に置いてあるか、貴重品だけまとめて部のワゴンに積み込んでいるかのどちらかだろう。一緒に渡した筈なのに、忘れているということは、慣れたように見せかけて試合というものに対し、未だにこの男は緊張を持っているのだろう。坂道の緊張というだけで最早、才能がない人間には嫌味に聞こえるだろう。何度も優勝を掻っ攫ってきて男が震えているなど、では自分はお前を越すにはどうすればいいのだという漠然な不安を抱くやつがいても可笑しくは無い。まぁ、坂道自身は自分の事を凄い奴だとまったく認識していないので、才能がなく勝利をロード―レースという競技で得たことがない人間の気持ちなど考えたことも無いだろうが。
五分ほど待っていると小野田が電話ではなく、真波本人を連れて帰ってきた。電話をかけようと、部のテントへ向かったところ、ちょうど出くわしたようだ。
「お前、また遅刻か?」
「そうなんだよねぇ。いつもなんだかんだ言って起こして貰ってたんだけど、今日は放置されちゃって。さっきまで寝てた」
「そおか」
起こして貰っていた相手が眼鏡の女であることは察しがついたが、あえて深く突っ込むことはなく、口を閉ざした。寝ていたという言葉に嘘は無いのだろう。いつも整えられていない髪だが、普段に増して乱雑で寝癖の後がついている。「ヘルメットちゃんと被れるん?」と嫌味を告げると「被っちゃえば一緒だよ」とからかいがいのない返事をされてしまった。
「あ、真波くん電話鳴ってるよ?」
手に持っていた真波の携帯電話が鳴り響く。「お前、マネージャーに渡してこなあかんで」と一応親切に教えてやる。着替えてはいるので一度、テントには立寄ったようだが、携帯は置いてくるのを忘れたのだろう。真波ならこのまま出るともいいだしそうだが、重くなって地面にすべて捨てるのがオチなのでおすすめは出来ない。
「ほんとだ――! ん? 委員長だ、めずらし――!!」
ピクっと御堂筋の眉が動いた。眼鏡の女からの電話らしいが、あの一件があっていらい、なんとなく真波よりもその眼鏡の女と会ったり声を聞いたりするのが苦手になってしまったからだ。真波と眼鏡の女は、なんというか、御堂筋が一度捨ててしまった、捨てざるおえなかったものを、全部抱えているように見えてしまい、眼鏡の女の存在というのはその象徴のようだった。
「え」
がらん。
携帯電話が地面に落下した。液晶の画面が割れる音が聞こえたが、携帯が割れたことよりも、真波の顔がいきなり蒼白になったことに気をとられ、画面が割れたことに御堂筋が気付いたのはずっと後になってからのことだった。
なんや、なにが起こったんや。
そう疑問を抱かざるおえない顔をしていた。真っ青になり、空いた口は塞がらず、今から試合だというのに、真波はそんな事、頭の中からすぽ――んと抜けているようだった。予想外の事態が起きた真波の表情を見るのは、もしかしたら初めてかもしれない。高校一年生だったとき、初めて真波と坂道と共にレースに参加しインターハイ最終日、坂道がなぜお前がそこに居るんだと言う追い上げを見せた時も、真波はこんな顔をしなかった。ただ、真波の中に今あるのは動揺、そして、悲しみだけだということが読み取れる顔色をしていた。
「どうしたの、真波くん」
坂道が心配そうに声をかける。
「委員長が、事故にあったって、それで」
ああ、なるほど、と御堂筋は納得した。真波の中にある絶対的な存在が崩れてしまったから、こんな顔を見せたのだ。
なんだか、それが分かって一人の女の命がもしかしたら危ないかもしれないというのに、ざまあみろと、思ってしまった。
「いうたやろ。ずっと、とか、絶対とか、ないんや。いきなり人は死ぬで」
さらりと。
本当に雑談でもするみたいに、さらりと真波に告げると、胸倉を掴まれた。身長差はかなりあるが、真波も一般男子としては十分な体格の持ち主だ。運動神経は悪い方ではないし、掴んだ御堂筋の襟刳りを自分の方へ引き寄せようとしていたので「ああ、殴られるんか」ということは頭の中で理解していた。
「だ、駄目だよ真波くん!」
頬っぺたに痛い拳の一撃を待ち構えていたのだが、坂道の制止の声によって腕は止まる。
「駄目だよ。こんなことで喧嘩している場合じゃないでしょ。委員長さんがどういう状態か判らないけど、真波くんはすぐに行ってあげるべきなんじゃないかな? だって、そんな状態でレース出来るの」
「出来るよ。俺は、けど……――」
レースは出来ると言う真波の答えを聞いて、御堂筋はそやね、大切な人が死んだくらいで足を止めてたら勝てるレースも勝てへんわ――と妙に納得したのだが、目の前で泣きそうな顔をして動揺を見せる真波を見つめ、本当にそれでええんか? という疑問を抱いた。
御堂筋は確かに足を止めなかった。
ずっと。母親が死んでしまっても、ペダルを漕ぎ続け、自分が一番強いのだと言うことを証明してきた。その道が間違っているとは思わないし、思うつもりもないが、真波に関してはどうなのだろうか。
今、行かずにレースに出てこいつはこの後、自転車に乗れるのだろうか。そして、自分と同じように勝利に妄執する選手へなってしまうのだろうか。本当に、そんな思いを抱いたままペダルを漕ぐ男が、今までのように強くいられるのだろうか。競ってきた相手が簡単に落魄れる様子は見ていて楽しいものはあるが、この落魄れ方だけは納得が出来なかった。
なにより、真波がレースに出ることを、自転車を眼鏡の女の命と天秤にかけて、自転車を選んでしまったら、今度こそこの男は見捨てられてしまうだろう。自分の命より自転車をとった男のどこに惚れ続けろというのだ。どこを愛していけばいいというのだ。加えて今日は選考がかかっている大事な大きな試合でこそあるが、何も選考の基準となる試合は今日だけに限られた話ではないし、去年の事を考慮すれば真波が選抜メンバーに選ばれるのはすでに決定しているようなものだ。
「行けや」
「御堂筋くん?」
「行かんと後悔するで。ほんと、人なんて勝手に死ぬんや。なにがあるか分からん。レースは今後もあるけど、今日行かんかったら、お前はずっと腑抜けになってまうで。そんなヤツに勝ってもなんも嬉しくないし、僕が強いって照明にもならへん。なにより、可哀想やろ、その委員長って女が。お前に来てもらわへんと」
さらりと、言えてしまった。
さきほど、死ぬでと言ったときと同じように。誰かを庇うような言葉を。
真波の手が御堂筋の胸元から離れる。愛車にそのまま跨り「棄権しますって言っておいて――」という言葉と共にはるか遠くへ駆けていったしまった。
携帯電話の液晶が割れていると気付いたのはその時で、地面に落ちた携帯電話を坂道は拾い上げる。なんだか白けてしまったし、このテンションのまま坂道と一緒にいると試合にも影響を与えそうだったので踵を返して立ち去ろうとしたが「あの、御堂筋くん」と引き留められてしまった。
「御堂筋くんって真波くんのことう、羨ましかったり、する、の?」
てっきり、叱られるとばかり思っていたので、拍子抜けた質問に「そんなことあらへん」と返すと坂道は慌てて言い訳のように言葉を紡いだ。
「そ、っそっかぁ。僕てっきりそうかと思っちゃった」と苦笑いするので「なんでそうおもったん」と尋ねる。小野田は暫く喋ろうか迷ったようで、目線を泳がせていたのだが、少しばかり待ってやると口を開いて語りだした。
「僕も羨ましいなぁってちょっとだけ思っていたから。ぼ、僕ね、自転車乗り始めてから凄く尊敬する先輩に結果? というか、成果? みたいのを報告して褒めて貰うのがとっても好きだったんだ。もちろん、褒めて欲しくて乗っていたわけじゃなかったけど、ペダルを漕いでいて心が折れそうな時、思い出すのはその人たちの顔で。けど、もう僕の傍にいなくて。いや、卒業したし大学生だし、その、当たり前のことなんだけど、それでも褒めて貰うの好きだったなぁって真波くん応援している委員長さん見ていると思い出すんだ。どんなに色んな人と会ってもずっと強くてカッコいいのはその総北センパイや鳴子くん、今泉くんだから。けど、真波くんはそういう自分の憧れの存在? なんていうんだろう、心の支えみたいな人に今もそしてずっと褒めて貰って認めて貰う事が出来るんだなぁって そう思って、なんだろ、うん、羨ましいなぁってなるんだ」

羨ましいと坂道はこの胸の中で燻る感情をそう評したが、御堂筋はたしかに坂道とすべて一緒というわけではないが、羨ましいと言う言葉が適確なのだろうと認めてしまった。自分がこんなに真波とあの眼鏡の女に対して固執するように強い言葉を持って真波を問い詰めたり、柄にもなく背中を叩くような真似をしてしまったのは、母の事があったからだ。自分の母親と自分の過去の関係に二人はとても類似している点を持っていた。そのくせ、家族でもないということに不安を覚えたり、幼い自分のように愛して貰っている人に寄りかかるだけ寄り掛かり、甘えている姿があまりにも阿呆で腹が立った。
「せやね」
一言だけ坂道に返すと、坂道の中にでも燻っていたものの蟠りがとれたような笑みが漏れていた。
「無事だといいね委員長さん」「大丈夫なんちゃう。しらんけど。死んではないやろう、多分やけど。死んでたら、まぁ、そのときは、そのときや」なんて適当にあとは返事しておいた。













005



「委員長と付き合うことになりました」
へらっと何事も無かったかのように真波が二人に報告してきたのは大会が終わった一週間後だった。



坂道の家に集まって、親から牡蠣が届いたと坂道がいうので、滅多に食べられない牡蠣とくれば参加するしかなく三人で鍋パーティーを開いていると、思い出したかのように真波が告げたのだ。まさか付き合うことになるまで話が進展すると思っていなかった二人は(だってあの時の鍋パーティーで散々、付き合うことはないということを公言していた真波だ)食べていた牡蠣を口の中から落としそうになった。
「いや、ほら、委員長事故ったでしょ。事故っていっても自転車とぶつかって足の骨軽く折っただけなんだけど、そのとき思ったんだ。本当にこの人は俺の傍からふとしたことで離れていっちゃうことがあるんだなぁって」
にこっと御堂筋の方を見て真波が告げたので、なんだか妙に気まずい気持ちになる。あの時、責める様に真波に自分の意見を吐露した時の返答が今聞けているようだ。
「まだ恋人として好きかって聞かれたら判らないけど、愛してるんだと思う俺は委員長を。だから、大学卒業したらすぐに結婚するよ。なにか、繋ぎとめるものが欲しい。委員長が病気に成ったり、入院したり、それこそ死んでしまう時に真っ先に俺の元へ連絡が来るような関係になっておきたくて」
今回、俺に連絡きたの一番最後だったんだよ! 信じられない! しかも、事故したっていう報告じゃなくて、あれ全部聞いてみたら「起こしに行ってないけど、ちゃんと起きてるでしょうね!?」っていう確認だったみたいで、そんなの嫌だなぁって、そう思ったんだ。
と、真波は屈託のない笑みを見せながら喋った。どこか拗ねているような口調では会ったが、何一つ後悔などしていないという爽やかな笑顔を漏らしていた。
御堂筋は話しを聞きながら、やっぱりあまえたがりの阿呆のままやないか……と少しばかり呆れてしまったが、自転車にでも乗っていない限り話す話題などまるでない奴なので、仕方ないと牡蠣を口に含んだ。



 
おわり