自分の悪口を耳にしたところで、アナスタシアは「また何か言っているわ。可哀想な人達ね!」と聞き流すことが出来ただろう。けれど、アナスタシアの耳に入ってきたのは、あろうことか、初めてできた友人のことを悪く言うものだった。
その日、アナスタシアは日直の仕事である黒板消しを行っていたため、移動教室から帰ってくるのが誰よりも遅くなった。もう次の授業は南棟の一番端にある化学室での実験で、クラスメイト達は、教室内には誰一人として残っていないはずだった。しかし、アナスタシアは急いで飛びかえった教室で、おそらく授業を受ける気がない女生徒たちの他愛無い悪口を耳にしてしまった。
初めに感じたのは驚愕だ。何故かというと、アナスタシアの友人である杏はとても慈悲深く優しい人間を絵に描いたような人物だからだ。彼女は同級生の誰よりも大人びた目を持っている。それは、同級生という括りを抜けて、大人の中に彼女を一人置いてきた所で、年齢ばかり重ねた人間の中にいても、彼女はひと際、輝くであろう。
誰よりも落ち着いた自分の意見を、周りの調和を乱すことなく、述べることが出来る人だ。慈悲深く優しいといっても、それは流されているだけの人間ではない。しっかりと、自分が正義だと思う芯が彼女の中にあり、それを伝える術を暴力以外で持ち合わせているという点が、彼女の最も素晴らしい一面の一つだ。
もともと、自分の意見を持たない人間など、アナスタシアは大嫌いだ。大嫌いは言い過ぎかもしれないが、単純に疑問を抱く。他者に合わせ、なんの努力もせずニコニコ笑っているだけで幸せを手に入れられるなら、人類はみな、幸せに生きられるだろう。だから、自分が幸せになる努力もせず、意見を伝えず、ただ、周囲に合わせるように生きるだけの人間など、アナスタシアの到底理解の及ばないところにいる人間だった。
だから、アナスタシアからしてみれば、そんな取るに足らない存在にも等しい、モブ達が、とうてい付け入る隙のない、杏の悪口を楽しそうに喋っている光景は、分を弁えない狼藉者に違いなかった。
ぐっと、掌を握りしめた。持っていた教科書を、彼女たちに投げつけてやりたい怒りが沸々と湧き出た。けれど、冷静な方の脳みそが、そんなことをした所で一体なんの解決になるのか? ということを問いただしている。もし、この悪口を言われている対象が、自身の恋人である白虎であったのなら、衝動に任せ教科書を投げつけるどころか、顔に平手打ちをくらわし、そのあと、自身の父親に電話をかけていた所だが、友人である杏の悪口だったため、なんとか、冷静な方の脳みそが残っていた。
どうすれば効果的なのだろうか。もし、この言葉を杏が聞いてしまったら、どうすればいいのだろうか。いや、きっと、杏は何事もなかったかのように振る舞うのだろう。第三者に自分が好かれていないことなど、何一つ気に留めないのだろう。
けれど、それは杏の都合であり、友人の悪口を言われていることを聞いてしまった自分の怒りを収める理由にはならない。そう、杏のためなどではない。アナスタシアは傷ついた自分の心をどうにかして慰めてやりたかったのだ。

「アナちゃん」

思案していると、背後から肩を叩かれ振り返る。すると、そこに立っていたのは杏だった。おそらく、先に言ってと言われたので、化学室に移動したが、あまりにも遅かったアナスタシアが校内で迷子になっているのではないか? と思って様子を見にきてくれたのだろう。
大声で聞こえてくる悪口の数々は杏の耳にも届いている。だが、いや、やはり彼女は気丈とした顔でその場にいた。

「私のために怒ってくれているの? ありがとう」

瞬時にアナスタシアの気持ちを見抜いてお礼を告げてくる杏の賢さがアナスタシアはたまらなく好きだと思った。首を大袈裟に降ると頭についた大きなリボンが横に揺れた。杏はにっこりとほほ笑むとアナスタシアの手を握った。そして、少しだけ悪戯好きな子供のような顔を浮かべたと思うと、自身の悪口で盛り上がっている教室内に堂々と顔を出す。
当然のことながら、静まり返る教室内で、いつも通りの笑みを浮かべた。

「ねぇ、もうすぐで授業始まるよ? サボるのはいけないことだと思うけど?」

悪口には触れず当たり前のことを指摘した杏を見て、悪口を述べていた彼女たちは唖然とした顔をした。杏はそれだけを告げるとアナスタシアの机まで脚を運び、科学の教科書とノートを取り出すと教室を後にした。

「杏ちゃんスゴイデス! カッコよかったヨ!」
「本当? 別にね、嫌いな人がいるのも、悪口をいうのも悪くないことだと思うんだけど、授業をサボるのは悪いことだよね。それに」
「それに?」
「私の友人を困らせてくれたから、ちょっとだけお返しよ。ふふ、大人げなかったかしら」
「同級生だから問題ナイよ!」
「そうね」

ふふっと笑う彼女の笑みに隠された顔がアナスタシアには見えなかった。杏の笑い方は不思議だ。今まであったどんな大人よりも大人らしい笑い方をする。人より成熟しきった彼女が今まで育った環境は自分とはまるで違うもので、けして、杏のようになりたいと思ったことは一度足りともないけれど、この奥が深い大人びた笑い方はどうしようもなく焦がれるものがあると思った。この人と友達になりたい。強く自分から願った初めての友人のことが、アナスタシアは変わらず大好きだと思った。