夏休みが嫌いだった。家にいる時間が増えると、否応なく、アイツと関わる時間が増える。家にいて水槽をずっと観察していても、アイツは幽霊のように現れて、俺の前に立つのだ。覗き込まれた影が出来、俺が目を顰めるのなど気にせず「猿比古〜〜」と、伸びた口調でニヒルな笑顔を浮かべながら俺の名前を呼ぶ。アイツが名前を呼ぶと地獄の合図だ。これから、どんな酷いことが待っているんだろうか? という絶望と、本能的に父親に構ってもらえて嬉しいという気持ちが混じり合い、胸からこみ上げる嘔吐感を必至になり、抑えるのだ。口を掌で覆い隠し「おぇ」と漏れてしまうのを防ぐ。なぜなら、俺が吐こうとしていることがバレてしまうと、アイツは俺の喉元に指を突っ込んで吐かそうとするのだ。それで、何度か嘔吐したことがある。床に吐き捨てられた吐瀉物を見て、アイツが「キモチワル」と笑ったときの屈辱を、俺はいまだ、忘れてはいない。






「伏見!」

五感をすべて奪われるような、溌剌とした馬鹿な肉声が頭上から聞こえ、顔を上げた。記憶の中の人物とは異なり、吊り上がった細い眼を俺に向ける八田は、額から汗をだらだらと垂らしていた。制服を一枚羽織っただけの八田の恰好は、十分、暑さ対策に備え薄着であったが、それでも八田は暑くて堪らないらしい。少しだけ、不機嫌そうに眉間に皺をよせている。
コンビニで購入してきたアイスを俺に差し出してきたので、大人しく受け取る。今日は八田がじゃんけんで負けたので十円だけ多く出している。俺はじゃんけんで勝った人間の特権として、コンビニの駐車場に腰かけながら、八田がアイスを購入してくるのを大人しく待っていた。待っているといつも禄でもないことを思い出したり、そもそも、外で待つというのは、暑かったり寒かったりするから止めようーーということを、何度か提案しようとして、結局口にしていない。

「早く食べねぇと、アイス溶けちまうぞ」

二人で小遣いを出し合って買ったアイスはすでに溶けかかっていた。八田に全部やるよーーと言いかけて、きっと、全部あげるとか、そういうことを、この男は好かないーーと思ったので、大人しく口の中に含んだ。ソーダ味のアイスは咥内でじわっと溶けた。甘さと冷たさが癖になり、一瞬だが、夏の暑さを忘れさせてくれた。
八田は俺の横にどかっと、腰かけた。あまりにも勢いよく腰かけたので、俺の目には痛そうに写ったし、どうしてこの男はこう粗野な動きをさも当たり前のように出来るのだろうか? と疑問を抱きもした。それでも、八田は、そんな小さなこと気にすることはない。さきほど購入したアイスを既に食べきり、アイスの棒だけを加えながら、今年の夏は何をするか? ということを喜々として話していた。

「海は欠かせねぇだろ? 山は行きたい?」
「虫がいるから嫌だ」

カブトムシにはしゃげる年齢は終わったはずだ。山に行くなんて苦行でしかない。本当は海も嫌だけど、八田がどうしても行きたいというのなら、付き合ってやらなくもない。

「虫が嫌だって……」

八田は虫が嫌だと主張した俺に対し、眉を顰め、信じられないものを見たかのような顔をした。煩い、放っておけ。虫は嫌だ。そんな顔を向けられた処で嫌なので、俺は八田の呆れ声を無視することにした。
数秒だけ沈黙が流れた。風の音が耳朶を横切り、コンビニに誰かが来店したのだろう。耳にこびり付く音楽が聞こえてきた。
八田は少しだけため息をついて、それでもなんとか折れてくれたようだ。山の代わりにプールの代替え案を出してきた。海とプールは一緒の括りだと思っていたが、八田の中ではどうやら違うらしい。
八田は山のように次から次へと、夏休みの予定を立てていった。結局、この中で実行できるのは、八田の財布を考えるとかなり限られてくるのだが、八田はそんなこと関係なしに予定を埋めていった。俺は埋まっていく予定表を見ながら、夏が永遠に続けばいいのに、と思った。そうすれば、八田が口に出した予定をすべて、実行することが出来るだろう。そうすると、きっと八田は凄く喜ぶし、俺も楽しいと認めざる負えないんじゃないんだろうか。
あんなに嫌で堪らなかった夏休みは気づけば俺の前からいなくなっていた。子供のころ、嘔吐した屈辱を忘れたわけではないけれど、八田が予定を好き勝手上げていくごとに、食べていたいアイスが溶けるかのように、幼い頃、アイツに植え付けられた記憶まで、さらさら無くなっていくような錯覚に陥った。