二礼二拍手一礼。
早朝の清貧とした空気が鼻孔を過った。鼻の芯から喉の奥、そうして胸元まで冷気が落ちていく。朝の神社にいるのだと悴んだ指先よりも教えてくれた。何回、お参りをしたのか分らないし、祈ったところで何かが変わるわけでないことも知っていた。私が、こうして彼が試合に出る日、遠くの日本から近所の神社へ参拝したところでなんの意味もないだろう。
もし口にすれば彼は「委員長ったらそんなことやってるの?」と小馬鹿にしたような無邪気な笑みを浮かべるかもしれない。感謝も感動もされないだろう。また、私は別に感謝も感動も求めてはいない。
神様へ祈るのは、山岳のためじゃない。自分の心を守るための行為だ。
神様へこうやってお参りしないと、私は今日一日のことを何一つ頑張れない。山岳が乗るロードレースという世界を垣間見てからずっとそう。初めて、山岳が自転車に乗って背中に羽みたいなのを生やして山をぐんぐん上っていく姿を見てから。勉強をするのも、仕事に行くのも、応援に行けないときは、こうして山の上にある近所の神社でお祈りをしないと、何一つ身に入らないのだ。
「心ここにあらず」な状態を続けてしまい、結果、失敗する。失敗して、あ――あ、なにしてるんだろうって落ち込む。落ち込んでいるとき、山岳が優勝したって知らせとかも、心の底から喜んであげることが出来ない。それが嫌。私は、山岳が優勝したら喜んであげたいし、勝てなかったら励ましてあげたい。人に何か響く言葉を吐こうと思ったら、まず、自分自身がしっかりと胸を張れるように、少なくとも一日は生きていないと言えない気がするのだ。常に胸を張って生きられるほど、私は美しい生き方をしていないけれど、彼が私に言葉を求めてくれたとき、はっきりと指針を示すかのように言葉を述べてあげたい。電話越しに甘えた声を出してくる幼馴染の頭をなでるように。

「頑張って山岳」

神様に向かってつぶやく。向こうはもうすぐ試合が始まる。きっと山岳の頭の片隅には私の顔はなにもない。山に向ける期待だけが胸の中でぐるぐる回り、早くペダルを漕ぎたいと双眸を輝かせている。同じ舞台には立てないけれど、それでもいつでも山岳のことを応援し続けたい。