帝王の花冠
クローバーの花冠///

「白花。」

 大きな男が眠る女性を抱きしめていた。

「…白花、」

 少年はその様子を、すこし離れたところで見ていた。名前もしらない男が、知った名前を切なげに呼ぶその不可思議な光景を見ていた。真っ白な花が咲き乱れている、白と白と白ばかりの空間で、ふたりだけがはっきりと色を灯していた。

 黄色い衣に黄色い髪の大きな男。彼がなんども眠るその人の名前を呼ぶが、彼女が目を開くことはない。白い大地に散らばる黒い髪を彼は撫でながら、それでもやはり名を呼んでいた。

 ここはどこで、彼は誰か。
 少年は誰かに問いたかったが、誰にも問うことができなかった。ただ、目の前の男から目をそらすことができないでいた。

 その時。ふと顔を上げた男と少年の目があった。

「……ぁ」

 赤い赤い、男の目。
 恐ろしく整った顔立ちのその男の名前を少年は知っていたが、口にできなかった。ただ、驚きで口から声が漏れただけ。

 その男が、嗚咽も上げずに目からはたと雫を落とす。ぱたりと落ちた雫は、眠る彼女の頬に落ちて流れていった。
 見てはならないものを見てしまったと少年は咄嗟に思った。だが、男は少年を見て、くしゃりと困ったように笑っただけだった。

「白花、」

 力の抜けたその体をいたわるように優しく優しく男が抱き上げる。一度だけ、ぎゅっと顔をしかめさせた男だったが、すぐに力を抜いた情けない笑みを浮かべた。

「あいしてるよ」

 もう返事は還らないとわかっていながら、男はもう一度彼女に愛を告げる。唯一の、誰も知らない恋。その色の薄れた冷たい唇にくちづけて、男は彼女を抱きしめた。

 答える代わりに。
 さらさらと白い世界が砂になって消えていく。花がどこからか吹いた風にさらされて、その花びらを空へ回せた。白い砂が崩れていくと同時に、天井に紺碧の空が現れる。地面の白い塗料がはがれると同時に足元が青く青く染まっていく。

 どこかへふたりが溶けて消えていく中。少年はただふたりを見ていた。顔の見えなくなった男と、眠る女性。少年も夢から覚めていく。

 やがて男が一人だけになる。腕に抱いた彼女が少しずつ水泡のごとく還っていくのを歯噛みしながら、一層つよく抱きしめた。行くな、おいていかないで。彼が小さく漏らす。

 暗くなった夢の中。
 するりと腕の中からすべての感触がなくなって、男は一人その世界に取り残される。誰もいない場所。冷たくなった世界の中で彼はたった一人で、静かに泣いた。
 それが最初で最後だった。

 彼が深海でまどろんだ、80年あまりのことだった。



mae  tugi
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