しあわせになりたいわに
4.ぬめる皮膚は冷たいまま///
豊穣の守護神、セベク神。
それが俺のスタンドに与えられた名前であり、啓示であり、そして呪いである。
鰐の頭を持つ神官の姿をした神の名前で、豊穣と守護などと言葉で聞けば随分と穏やかな印象を受ける暗示だ。しかし、それはむしろ危険と恐怖の象徴である鰐の化身だからこそ与えられたとも考えられるだろう。ナイル川を起点とした生活をしていたエジプトに住まう人々にとって、鰐こそ天敵にほかならなかったのだから。
恐怖を乗り越えたものは強い、とは誰が言ったか。神として味方につけて、そうして鰐は守護神へと姿を変えた。
獰猛なる番人。まさにそれが俺のスタンド、セベク神の能力だ。
危険から身を護る。ただそれだけだが、だからこそ非常に強力だ。あらゆる致命傷は致命傷でなくなり、ただひとり、生き残れる。「なんと浅ましく、なんと強力か」とも誰かに言われた気がする。
だが、いくつか欠点もある。他者の防衛ではスタンドのルールに則ったフィードバックが発生するし。他にも、護衛対象にはあらかじめセベク神の守護を与えておかなければいけないし、さらのそう多くの人数を守ることもできない。
そういう意味では、かなり限定的だ。
それで、マライアには最初からセベク神の守護を与えていた。あのお土産はつまりそういうわけ。彼女は当然、知らなかったが。だが、セベク神はしっかりと彼女を守り通した。
おかげで、今はまだ眠っている彼女も外傷はほとんどない。強いて言うなら、衝撃によって意識を失っていると言ったほうがいいだろう。
あの時、鉄塊に挟まれたダメージはセベク神がほとんど吸収してしまった。代わりに、俺のからだのいくつかにフィードバックしてきてしまったが、大した問題ではない。
「……マライア。」
もうすっかりと夜になってしまった。
どうにかジョースターと取引をしたが、俺にはまだ館での仕事が残っている。テレンスが俺の分の夕飯を作ってたことだろうし、ヴァニラのやつもなんだかんだで待ってることだろう。ペット・ショップと遊んでやる約束も残ったままだ。
眠るマライアの髪に軽く触れる。もう頬に涙のあとは残っちゃいなかった。
銀に縁どられた目元が震える。うっすらと開かれた瞳が俺を見た。おはよう、調子はどうだと声をかけても、ぼんやりと寝ぼけ眼のマライアは二三瞬きをする。
「……な、んで?」
「第一声がそれかァ。まぁいいけどな。」
俺で悪かったな、と言いながらきっと俺の顔は緩みきっているだろう。俺が立ち去るより先に目が覚めて良かった。何より俺が、よかったと思う。
「調子はどうだ。」
「なんであんたがここに?」
ぱっと飛び起きたマライアが、急に動いたことでめまいにでも襲われたのか、バランスを崩す。ベッドから落ちそうになるのをどうにかとどめながら、マライアの様子を伺う。
「見舞いだ、見舞い。俺が本当にお前のこと殺すと思ってたのかァ?」
「……思ってたわ。だって、あんた、いっつも一人で帰ってきたじゃない。」
「そりゃあ、全員病院にぶち込んできたからな。 帰りは俺一人になる。」
騙された、とマライアがため息混じりに小さく言ったのを聞きながら笑う。どうせテレンスやほかの連中が彼女をからかったんだろう。
俺がいつも一人で帰ってくるのは本当だったし、だから誰と組むこともなかった。ただひとり無傷で生還するスタンド使いのことをやつらはそろって死神扱い。それを面白がって、テレンスたちは俺を敗れた刺客のもとへ送り込んでいたのだから。
始末、というのだって、後始末は後始末でも血なまぐさい意味での後始末じゃあない。当然揉めるのはわかっていたから、誰にも言わず、独断で全員病院に送り込んできてやっていただけなのだ。知っているのは、テレンスとすでに病院送りになった奴らだけ。
「悪かったな、黙ってて。」
「いいわ、別に。あんただってバレるわけにはいかないでしょう、そんなの。」
「あぁ、本当は言おうかと思ったんだけどな。」
「……いいわよ。」
少し不貞てたような声。今まで、大人びた態度と表情の彼女ばかり見ていたからか、年相応に見える態度は新鮮だ。
悪かった、ともう一度言っても別に、とだけ返ってきた。
「調子悪いところはないんだな。」
「えぇ。 ……あんた、助けてくれたんでしょ?」
「さぁね。」
茶化すんじゃあないとマライアが文句を言った。先ほど急に起き上がったせいで起きためまいは収まったのか、少し体を起こす。俺の方を真っ直ぐに見て、ぽつりと礼を言った。彼女にしては本当に珍しい。
「いいんだ、マライア、お前に怪我がなけりゃ。」
「……そういうこというやつだった、あんた?」
まぁね。とは言っても、「マライア、あんたにだけだ」などと言えはしないが。
ふと会話が途切れ、現在の時間をみる。真夜中が近づいている。とっくに日はくれて、外は月明かりだけ。主のための時間が訪れているから、帰ったら色々と問われるかもしれない。胃が痛い話だ。
「……帰るの?」
「あぁ。」
とん、とマライアの肩を叩く。もう行かねばならない。支えを失ったマライアが倒れないようにしながら、ベッドサイドから立ち上がろうとしたときにふと思い当たる。
「なぁマライア。」
「なに。」
「一個だけ、頼みたいことがあるんだ。」
「……なによ?」
「その、あー、うん……抱きしめても、いいか。」
「…………はぁ?」
ずっと、一度だけでいいから彼女にきちんと触れたかった。なにも、恋人になりたいなどとバカバカしいことは考えちゃいない。マライアを大切には思っているが、特別になりたいとは思っていない。
彼女を守れさえすれば俺にはそれで十分だ、とも。
それでも、一度だけ触れたかった。彼女の体温を、生きているという事実に、触れたかった。
「あ、いや、やっぱいい。なんでもない。気のまよ「いいわよ」い、え?」
断られるだろうと思っていたから、驚いて彼女を見れば、こっちを馬鹿にしたように笑っているじゃあないか。そりゃあどういう笑いだ。俺の一世一代の頼みがあまりに地味だったって言いたいのだろうな。それでもこちとら緊張したというのに、なんともひどい女だ。
「ハグくらいいいって言ってあげてんのよ。」
「本当か?」
「えぇ。」
ほら、とマライアが緩く両手を広げて俺を呼ぶ。月明かりとはこうも彼女の髪を輝かせるのかとどうでもいい感想を抱きながら、恐る恐るマライアの背に手を回す。
マライアがまた笑った。あまりにもぎこちない動きをしてしまったのが彼女にもわかっているのだろう。
「なぁ、マライア。」
腕の中に彼女がいる。いつも凛としている女性だが、ああ、やはり、華奢だった。こんな小さな背中でどれだけ戦ってきたのか。
さらりとした髪に触れると、マライアが体重を軽くあずけてくる。少しのタバコの匂い、それ以上に、女性らしい香水混じりな柔らかい香りが感じられる。
暖かい。マライアに怪我がなくてよかった。こうして、声を聞けて、彼女の目を再びみれて、なにより、なによりこうして触れられてよかった。
彼女は生きている。彼女のぬくもりをしれたのだから、もう心配することはない。それだけで俺は安心していける。
マライアのことはもう心配していない。ほかの連中もやかましいくらいにゃピンピンしてた。そうでなくとも、彼女には怪我一つつけちゃいない。
おそらくはSPW財団の監視下に置かれてしまうが、それもまた安全ではあるだろう。ゆくゆくはまた別の道へ進んでいくのかもしれないし、案外そのまま仕事を見つけてしまうかもしれない。
ともあれ、あとはマライア、君の選ぶことだ。
「お前は幸せになれよ。」
呪縛から解き放たれて、君は君たらんとして生きてくれ。
嫌がらないのをいいことに、彼女の額に触れるだけのくちづけを。祈りと願いを込めて、一度だけ。
「変なこというのね。」
「今のうちかと思ってさ。」
そして願わくば。我が呪いを受けて、生きてくれ。
「マライア、その……ありがとう。」
「あらもういいの。」
息がかかるほど近くで彼女が笑う。いつもより少しだけ、幼くみえるのは彼女が気を張っていないからだろう。そういう表情を見せてもらえる程度には信頼を勝ち得たのだろうか。
きっとその信頼を損ねてしまうと分かっていても、それでも、俺はまだ戦える。
「もう行かなくちゃあならないんだ。」
「……そ。」
「マライア、」
きっともう会うことはないだろう。きっとこれが最後だからと、俺のわがままに付き合ってくれてありがとう。
「また会おう。」
いつもみたいに、彼女がひらりと手を振る。その姿を目に焼き付けて、俺もいつもみたいに手を振った。
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覚えておいてとは言わないよ
mae ◎ tugi