もういいかい | ナノ








 もしもだよ、ぼくがきみをすきだとしたら。
 瞼の裏に透ける赤っぽい光が朝を告げていた。少しずつ浮上していって痺れが抜き取られていく意識に私は心地良さだけを押し付けてもう一度眠ろうとしたが、寝がえりを打ってもう眠れそうにないことをやがて知ると諦めてわたしは瞼を開いた。まず見えたのはくすんだ白の壁で、視線を上に這わせていっても変わらない風景が続いている。年を越したとしてもリセットされるものなんてほとんどないのだと多分なんとなくずっと気付いてはいたけれど、拍子抜けしなかったといえば嘘になる。新しい年は、こうやって少しの倦怠感と共に迎えられる。月日がわたしを過去から押し出そうとするのを感じながら、すこしずつ実感が抜け落ちていくいろいろな行事を、すこしずつ流していくと、わたしは生きていけるんじゃないのかと、変わらず在れるんじゃないかと思っていたけれど、やはり朝はしんどくて、身体がなんだか重たくて、そうして、すこしばかり、はき気がする。いつから楽しいことがなくなってしまったのかは知らないけれど、たぶん、いつもの景色を、いつもの景色としてしか見れなくなった頃からか、もしくは、用事がある以外は、そして用事さえも時折ほっぽりだして、外に出なくなった頃からか、どちらにしても、同じくらいの時期なのだけれど。
 昔はたのしかった夜更かしは、今ではとても苦痛なものであって、たのしかったものが減って、こわいものと、どうでもいいものばかりが増えていって、眠りたくても眠れなくて、それでも見た目は正常なのだから、こうやって不幸なふりをしているのも馬鹿みたいなんだけれど。時折訪れる私の中の異常は、いつだって正常に紛れて、笑い話に出来てしまうから。とてもさみしくて、電話がふとしたくなっても、そういえばわたしは電話がとても嫌いだったのだと、どうしようもなくて、ほんとうに、どうしようもなくて、どうにかしてほしくて、こんなのがいつまで続くんだろうと、すこし呆然もしている。いろんなことをあきらめるのなら得意だったから、歳を重ねるにつれその回数が増えていった。どうでもいいとおもうことがいつかわたしのすべてを揺らがすことになってしまっても、どうせ、わたしは、たいせつなものがない。なくしてしまったのだ。いつものように。

 もしもだよ、ぼくがきみをすきだとしたら。
 戯言を口にしたのは、うつくしい男で、見ていられない人であった。あのひとはわたしと全然違う人で、いろんなものを追い求めて、けれど捨てるのが上手な人でもあった。わたしは間違えてたいせつなものまで捨ててしまったのに、あのひとは要らないものをしっかりとわかっていて、いっそ残酷なくらいに捨てることができる。そしてあのひとはわたしよりずっと強くて、前に進んでゆける力を持っていて、笑顔をつくるのも上手で、考えることも上手で、希望の裏に絶望を孕ませ、絶望の裏に希望を含ませていて、ああ、わたしよりなにもかも、うわての人であった。わたしはうまく笑えなかったのに、よく泣いた。よく泣いたけれど、すぐ泣きやんだ。わたしが泣く姿を一種の優越感と一緒くたになったアメジストで見つめていたあのひとは、この世界の出来事がつまらないとしても面白いことをつくりだすことができる。あのひとは人を救う力をもっていて、崇拝されるだけの器でもあって、けれど善人という類いではない。見ていられなかったというのは、あのひとをみているとわたしがあまりにも劣っているということがありありとわかるからであった。あのひとの隣にいると、途端に自分が縋りついてきたものを見失ってしまうのだ。
 あのひとは嘘をいうのも得意だった。そしてわたしは、嘘がひどく嫌いだった。だからわたしは、あのひとを、すきではなかった、のだと思う。それは劣等感や、矜持や、そういうものから来るのかもしれないけれど、そもそも容貌からして、軽薄なそのようすが、気に入らなかったということもある。笑顔が怖かった。でもあのひとの髪はふれるとすごくやわらかくて、さらさらで、きれいに日の光を跳ね返す。手は、人を殺すようにみえないほそさと白さをもっている。あのひとはわたしの持っていないものを持っていて、わたしの欲しいものと、わたしの欲しくないものをもっている。手をさしのべるのはあのひとの役だったけれど、役目ではなくて、その手を握り返す役はわたしにも為せたのかもしれぬが、資格がわたしにはなかった。たとえばあのひとが知っているうつくしいものを、わたしは知らないから。

 もしもだよ、ぼくがきみをすきだとしたら。
 震えた喉でそしたらと言って、わたしは唾を飲み込んだ。かれは変わらず微笑んでいて、わたしは泣きそうになった。カーテンが風を孕んで、穏やかな午後の光は、春のものだったか。
 わたしもあなたをすきになるかもしれない。
 そう言ったわたしから視線を逸らして、そう。きみはきみをすきな人がすきだからねなんてつぶやいたあのひとを、大胆に否定してしまえばよかった。ほんとうは、わたしは、わたしをすきな人をきらいになって、わたしをきらいな人をすきになりかけて、いたのよ。けれどわたしにあのひとを否定する賢さはなかった。横顔を見つめたとき、あのひとは少しだけ瞼を伏せていたと思う。
 ねえ、きみは、ぼくが世界をちゃんと再構築出来るって信じてる?
 わたしとかれは暫くの黙っていた。空気がざわざわ揺れて、ともすれば、あのとき生けられていた花の香りが、漂ってきそうだった。あのひとがわたしを嫌っていたことは、知っていた。一度壊して、組み立て直す。そろりそろりと直してゆくよりはずっともどかしくなくて、思い切りのよいやり方であると思うが、あのひとは決して大雑把なわけではなく、余裕のある人であった。あのひとがわたしを見ている。今度はわたしが少しだけ瞼を伏せた。

 おやすみと髪をゆるく梳かれて、わたしは安堵の中で眠りに就いた。夜のにおいがする。わたしは、あのひとにおやすみなさいと返したことがない。あのひともそれを望んでいないのだと思う。
 怖い夢をみたときに、甘えられるひとはもういない。誰かのベッドに潜り込むことも、誰かの腕の中で泣くことも、眠ることも。わたしの異常にわたしすら気付けなければ、わたしはただ他人に嫌われることしかできないから、わたしはわたしの異常に気付いて、それを上手く隠さなければならない。わたしは良い子になれなかったはずなのに、いま、こんなにもなんにも言えなくて、黙っていて、ただ傷ついてゆくだけの生活の中にいて、我儘を、どうか、誰か、きいて、たすけてほしかったのになあ。
 きみはわがままを言わないね。あのひとの台詞。困らせたくないのとわたしは大人の真似をして微笑んだけれど、かれの目にはひどく幼稚に映ったことだろう。

 冷えた爪先をスリッパに差しいれて、わたしは開いていたカーテンを閉めにいく。わたししかいない部屋、わたししかいない家。あたたかなところへとゆけたらよかったのだけれど、わたしにとってのあたたかなところなんて、過去にしかない。つめたいところにわたしは立っている。爪先からの寒気に、わたしはもう震えることはない。立ち止まっているだけ。わたしが失ってしまったものを、取り戻すことができないのなら、いっそすべてあきらめてしまいたい。あのひとなら、取り戻しにゆくのだろうけれど。思えばわたしは、あのひとにとって不要の感情を殆ど持っていた。あのひとから分離したもののようだった。あのひとはわたしを求めてなどいなかった。けれど遠くに、目の届く範囲に、置きたがっていたことも覚えている。

 あなたが怖かったから、言えなかったけれど、いまなら言える。わたしはあなたの目指した世界を、信じてなんていないけどひたすら願ってはいたんだよ。願っても意味がないことなんて、もう知っていたけれど、それでも願わずにはいられなかった。結末が瞭然としていたからこそ。組み合わせた指と指の間からも、祈りは砂のように零れ落ちていって、がんじがらめにされた心は、砕けてやっと開放されるのだろう。囚われていたなにもかもは自由を手に入れて、あのひとだけがすべて滅んだ。
 自分を閉じ込めていた檻が壊されても暫く外に出たがらないいきもののように、わたしは今、状況を把握するのに手間取って、ただ息だけをしている。







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