■不死身のビ−ナス 登校前の慌ただしい時間。清水家では、鏡の前で真剣な表情をしている長女の姿があった。 手にしているのは1本のリップ。それを手に握りながら真剣な表情で鏡とにらめっこをしている。 ことの始まりは昨日だ。 “薫もたまにはメイクとかしてみなよ!” そう言うお洒落な友達の強引さに負け、そのまま受け取ってしまったリップ。淡い色だとはいえ、普段からメイクなんてまったくと言っていい程した事のない部活命のソフトボール少女にとって、これを使うというのはなかなかの一大事なのであった。 「…いざっ」 はたから見ればいささか大袈裟な意気込みを見せる薫は、慣れない手つきながらも試しに塗った唇を確認する。 ・・・・・・が、似合う似合わないが、不慣れな自分では正直わからなかった。ふと我に返ってしまうと、あまりにも自分らしくない行動が急に恥ずかしくなる。鏡はそんな自分の居心地の悪そうな顔だけを赤裸々に映しだしていた。 (うう…やっぱり、やめとこ…。ガラでもないし、きっと恥かくだけだ…。) そう思って唇を拭おうとティッシュに手を伸ばしたとき、背後で母親の声がした。 「薫、まだ家にいたの?大河はとっくに出たのに…遅刻するわよ!」 驚いて時計を見ると、いつもならすでに家を出て、バス停にいるくらいの時刻だった。「ヤバ!」 薫は鞄をつかみ、そのまま一目散に部屋を飛び出した。 (どうか、ラストのバスには間に合いますように…!) 息を弾ませ全力疾走で向かった成果か、まだ目当てのバスは到着していないようだった。薫がほっと息をつくと、そこには同じ学校の制服を着た背の高い男が立っている。大きなあくびをしている様子でいかにも眠そうな空気をかもしだしていた。薫は嬉しそうに声をかける。 「おはよう!本田も今?」 「おー清水か。寝過ごしちまってよ・・・ん?」 薫の顔を見るや、瞬時に吾郎は何かに気づいたように尋ねた。 「お前、どうした、その口…」 「え、口?…あっ!」 あわてて鏡の前からそのままの顔で家から飛び出してきたことを、清水は思い出した。 (リップ拭かないで来ちゃったんだった…。) 自分でも慣れない姿を見られた気恥ずかしさから、とっさに口を隠す。相手はいったいどう思っただろう、と緊張しながら、…でもほんのちょっとだけ期待しながら相手の次の言葉を待った。 「朝から、油もんでも食ったのか?」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・はい?」 期待も場外ホームラン。予想外の発言に乙女心がピシッと音をたてて壊れた気がした。 「いや、口が光ってるからよ。朝メシから天ぷらか。」 野暮すぎる意見を放つ男に、薫はわなわなとふるえながら叫んだ。 「あ、あ、油もんって!そんな訳あるか!これはグロスって言うんだよ!」 「ふーん。全然知らねぇ。」 想い人からのあまりにも関心のなさそうな発言に薫は泣きたくなった。 (ああもう…あたしって、なんでこんなデリカシーの無い奴が好きなんだろ…。) 全身が脱力する想いがして、ガックリと肩を落としたところへ、ようやくバスが到着した。 ************************** 車内は席に座るどころか乗りこむことすらもギリギリな程の満員。いつもと乗る時間が違うだけでこんなにも人がごった返しているのかと、ふたりはため息が出た。 「何だぁ?この気持わりーくらいの人間の数は…!」 「うわーこの時間、混んでるなー…。」 しかしこれを逃せば遅刻は100%確実なので、文句を言っても二人には選択権はないのである。急いで飛び乗るも、車内はぎゅうぎゅうでバスが走り出せばふたりは自由に動くこともなかなかできなかった。 人垣に押され、乗客の波にのまれていく。いつの間にか気がつくとふたりは完璧に抱き合ったような状態になってしまっていた。 (…マジかよ…。) (…どうしよう…。) 薫にとっては吾郎の胸に顔を埋めるような形になっていることがあまりにも恥ずかしく、吾郎にとっては薫の胸が思いっきり自分に当たっていることに全身の神経が集中している。 (ドクン、ドクン、ドクン) 熱のこもった車内でお互いに自分の心臓の音だけがやたらとうるさい。これがそのうち相手にも聞こえてしまうのではないかとお互い気が気ではなかった。しかし、そんなことなどお構いなしに四方八方から満員の乗客に押され思うように身動きがとれないばかりか、更にぐいぐいと圧迫されどんどん密着してしまう。 「…だぁーっ!まだ学校着かねーのかよ!もっと急げ!この!」 恥ずかしさに耐えかねて先に口を開いたのは吾郎の方だった。人の波に圧迫されて息苦しそうにしながらも薫も声をあげた。 「・・・ちょっ、静かにしろよ。お前は人より頭ひとつ出てるんだからまだマシだろ?子供じゃないんだから、おとなしく我慢してろよなっ」 薫の上目づかいの視線を目のあたりにする吾郎はドキリとする。すっぽりと自分の胸の中に収まっている薫と目線が重なる。心なしか、自らの鼓動が更に早くなったのを感じて冷や汗がでてきた。 (な、なんかヤベェ…この体勢はヤベェんじゃねーのか…?) 胸元に伝わる柔らかな感触と、髪から香るほんのりとしたシャンプーの良い匂い。健康な男子高校生としてはこれ以上このままの状態だといろいろと問題がありそうだった。 (いやいやいやいや待て待て待て、俺。相手はあの清水だぞ、ナニ考えてんだ。) 「・・・本田?」 人知れず焦る吾郎を不審がるように首をかしげる薫の視線。それを必死に誤魔化そうと思わず吾郎は口がすべった。 「けっ、俺に抱きつけたからって、そんな喜んでんじゃねーよ」 「なっ…!?」 神経を逆撫でするような物言いにカッとなった薫は、思いきり目下の吾郎の足を踏みつけた。 「…ってぇ―――――!!!」 「フン。自業自得だ、この野郎!」 ぷい、と顔をそむけた薫は回りからの痛いくらいの視線に気づく。いつの間にかすべての乗客の視線は車内一騒がしいふたりに自然とそそがれていた。 *************************** 聖秀近くのバス停についたと同時にふたりは飛び降り、逃げるように居心地の悪い満員バスから脱出した。 そのまま学校への一本道をふたりは足早に歩く。歩幅の違いで吾郎の歩みはかなり早く、それに少し遅れて薫は続いていた。車内でのケンカのこともあり、今は相手と一緒にいるのはお互いに大変気まずいのだが、行き先が同じ高校とあってはそのまま同じ道を歩いていくほかはないのだった。ただ黙々と目的地へと急ぐふたりの間には険悪なムードが漂う。 「薫ちゃーん!おっはよー!!」 そこへ響くは、幸せなほどに空気をも読まない能天気に溢れた声だった。 「あ…おはよう、藤井。」 「いやー!朝から会えるなんて嬉しいなー!今日は薫ちゃん、いつもよりちょっとゆっくりだね?」 「・・・あーえーと・・・まあ、ね・・・。」 「えっ?何、どうしたの薫ちゃん!何かあったの?」 その質問にはなんとも説明もできずに、適当にあいづちを打つ薫。それに話しかけ続けるツンツン頭の男は、隣にいるクラスメイトすらまるで存在しないかのように喜々として好きな子に接している。そんな様子を間近で見ながら、吾郎はさっき踏まれてまだ痛む足のことを考えて機嫌が悪かった。 (うるっせーなぁ…。こんな狂暴女のどこがいいんだか…。) すると突然、藤井は何かに気づいたように吾郎に向けて驚きの表情を浮かべた。 「オ、オイ、茂野…それって…?」 「ああん?」 藤井の震える指が示す先にあるのは吾郎の胸元。制服のベスト中心部分を見るとそこにはくっきりと残っているものがあった。それは、ピンク色をした唇の跡。 「げっ!」「うわっ!」 同時に声をあげる吾郎と薫。ふたりは顔を見合わせながらさっきの密着していた状態を思い出し、どちらともなく顔を湯気が出そうなくらい赤くした。 (あたしの…!) (さっきの満員バスでついてたのかよ…!) ふたりの顔を交互に見比べながら、藤井は呆然と固まっているたがぶるぶるとふるえた声で叫んだ。 「一緒に登校する二人…顔を赤くして見つめあう男女…そして、胸に残るキスマーク!!…まままま、まさかまさかまさか!茂野と薫ちゃんが…朝っぱらから…そんなことをっ…!!!」 「アっ…アホかてめえ、何想像してんだ!違うに決まってんだろーが!」 みるみるうちに思春期の男子らしい妄想を始めてしまった藤井。流石は同じ男子と言うべきか、言わんとすべきことをすぐに気づいた吾郎はあわてて否定する。 「茂野、てめぇ…俺は絶対許さねぇからなあああああっ!」 「だから、違うってんだよ!!!」 騒がしく言い争う男達の姿を見ながら、薫は朝から続くあまりにもな精神的疲労にぐったりと肩を落としていた。 (ただ学校に来るだけなのに、こんなにも疲れるなんて…。) 二度と化粧なんてするもんかっ。 そう、ソフトボール少女は心に誓ったのであった。 何だか恥ずかしい程にラブコメでございます。こういうの好きなのでいろいろ王道を詰め込んでいたらこんなことに。マネージャー中村も入れるとさらに収拾つかなくなりそうだったので、今回は三角関係で終了。 どうでも良いですが、バス内でのやりとりのモデルは「健太やります!」10巻の前田と近森です。この二人も大好きなので…。 |