ガン、と何を打ちつける音が夜気を震わせた。二回、三回と断続的に響く音。不動が壁にボールを蹴りつける音だった。
 月明かりがほんのりと周りを浮かびあがらせる夜の広場で、不動はひとりもくもくとボールを蹴っていた。当然ながら他のメンバーの姿はない。
 今ごろ、一室に集まってよもやま話に花を咲かせているのだ。そこには間違いなくみさこもいるだろう。
 だが、関係ない。不動は右足でボールを叩く。鈍い音を立てて、ボールは前に押し出された。
 不動がひとりなのは今に始まったことではなかった。昔から不動はひとりだった。だから、今さらメンバーと車座をつくれなくとも悲しい気持ちは湧いてこない。
 人付き合いは難しい。些細なことで軋轢が生まれる。集団になればなるほどそれは顕著に現れ、特に、不動のような我の強い人間はまず排斥されてしまう。本質を突いただけで、大罪を犯したように非難されるのだ。
 言い方の問題だ。しばしそんな苦言が飛んでくる。もっとやわらかく言えばいいじゃないか、と。ただそれだけのこと。簡単だ、と相手は笑う。
 不動は言われるたびに心に泥がたまっていく気がしてならなかった。
 幼いころに母親から植え付けられてきた、人の上に立てという歪んだ支配意識。いつしかそれが芽を出し葉を伸ばし、不動をがんじがらめにしていた。根付いてしまった意識はなかなか拭えない。そのせいで、不動の口からは人を寄せ付けないような言葉ばかりが出てくる。人に優しくすることは、つけ入る隙を与えるのと同義だという、強迫観念にも似た気持ちが心の奥にヘどろとなって沈殿している。それがどうしても邪魔をして、不動にとって、相手に優しい言葉をかけるのは容易なことではなかった。
 なんでこんなことができないんだ、と言われるたびに心が波打ち、そんな自分が腹立たしく、また呆れたように見下す相手に腹が立った。
 結局、不動は煙たがられる。はじめは周りに人がいても、一人また一人と離れて行き、必ず自分はぽつんと立っている。
 ならば、いっそのこと初めから輪に入ることなく、一人でボールを蹴っていた方がずっと気楽だ。今までずっとそうしてきた。これからもそれは変わらないはずだった。
 みさこに絡んだのは偶然で、単なる成りゆきでしたかない。散々きつく当たったのにニンジンを食べると言いだしたことに驚いて、皿くらい返しに行ってやるかと気まぐれを起こしただけだ。

(イライラする)

 一際強く、ボールを蹴った。狙いもなにもあったものじゃない、力任せに放った一撃。壁にぶつかったボールは、不動の理不尽さを咎める様に勢いよく後方へ転がっていってしまう。不動はそれを追いかけることをせず、荒い呼吸を繰り返しながら目の前に建っている壁を睨みつけていた。

(っくそ、無性にイライラする……!)

 額に浮かぶ汗を乱暴に拭う。大きく息を吐いて、不動はその場に座り込んだ。

 みさこと別れたあと不動は一人で山道を登り、押し付けるように食器を返すと荒い足取りで宿舎まで帰ってきた。光の少ない山道は不気味だったが、それを気にする心の余裕はない。火であぶられたように、感情の泉がぐつぐつと煮えていたのだ。どこからともなく怒りが吹き上がり、得体のしれない感情を形成していく。
 この上なく不愉快だった。膨れ上がる衝動ををなんとかするために「あのお節介やろう……」と悪態をついたが、的を射ていないような違和感が残る。
 そうじゃない。それだけじゃない。なら、どうして。
 煮え立った泉からもうもうと立ちこめる蒸気が心の中にもやをつくり、何に対してこんなにも腹を立てているのかをわからなくしてしまう。それが余計にいら立ちを募らせる。行き場をなくした怒りはボールに向けられ、不動はひたすらボールを蹴っていた。

「はあ…」
 汗でぬれた生地が肌に貼りつく。あまり気持ちのいいものではない。不動はTシャツの襟元を掴む。バタバタと動かせば、ひんやりとした空気が服の中へ入り込み汗を冷やしていった。去っていく熱と共に心地よい疲労感が襲ってきた。
――こうやって、昔はよく怒りにまかせてボールを蹴ってたな。
 幾分か落ちついた不動は、幼い頃の自分を思い出していた。突如環境が変わり、不満ばかりが溜まっていく毎日。仲間を引き連れ非行に走ったりもしたが、所詮は表面上の付き合いにすぎなかった。一緒にいても心の中にくすぶる怒りを昇華することはできなかったのだ。
 そういう時、いつも一人で疲れ果てるまでボールを蹴っていた。結局、彼の不満を吸い取るのも気持ちを落ちつけてくれるのも人ではない。だから不動はひとりを好むのだ。周りに人がいることに何の価値も見出せない。ただ気をもむだけで、何一つとしていいことはない。
 だから、今ここにこうして一人でいることは正解のはずだ。
 なのに、どうしてだろうか。妙に落ち着かない。
 不動はその場に寝転がる。
 首だけで、背後に建っている宿舎を見た。窓から明かりがもれ、複数の人影が蠢いている。綱海たちがいる部屋だった。
 突如、さきほどの光景がよみがえる。
 みさこが綱海を見つけた時、ぱっと咲かせた笑顔。そして、自分といることを指摘された時のうろたえた顔。まるで一緒にいたのを見られて焦っていたようだった。
 彼女の様子を思い出すと、みょうな心地になる。心のどこかが軋んで、静まりかけたなにかがざわざわと騒ぎ始めるのだ。
 不動は忌々しそうに舌打ちをして、宿舎から視線を逸らした。ついでに妙にちらつくみさこの影も追い払おうと、かたく目を閉じた。


 代表メンバーの大半が集まるにぎやかな室内で、みさこはひとり表情を曇らせていた。連れてこられた初めは綱海や風丸などとトランプに興じていたが、次第に喧騒の輪から外れて、今は室内のすみっこに座ってどんよりと重苦しい空気をまとっている。
(不動君、すごい怒ってた…きっと私態度がいけなかったんだ)
 うう、と情けない声が出る。
(確かに不動君は意地悪だけど、そればっかじゃないし、なによりあの時は励ましてもらってたのに……それをちゃんと綱海君に伝えてれば……)
 あの後、みさこは綱海に不動のことを話そうと思っていた。意地悪されてたわけじゃなくて、ただ一緒に返しそびれた食器をもっていこうとしていただけなのだと。だが、みんなが集まり押し流されるように不動から遠ざけられ、弁解の余地もなくトランプ大会が開始される。大きな流れに翻弄された気分だった。急流に逆らえない笹の葉のごとく、ただ流れに乗っていることしかできない。言おうにも、不動を締め出そうとする空気がそうさせてくれない。情けないことに、それを突き破る意気地が今のみさこにはなかった。そうすれば綱海の厚意を踏みにじってしまうのではというためらいも手伝って、ただ部屋の隅にうずくまって負のオーラをまき散らすことしかできなかった。
(最低じゃん、私)
 折り曲げた膝を抱え、顔をうずめる。
 今ごろ不動は何をしているだろう。まだ目を吊り上げて怒ってるんだろうか。何度も目にした深緑を思い出して、みさこはもう一度小さく呻いた。

「どうした?」
「あ、綱海君……」

 みさこが顔をあげると、相変わらず眩しいほどの笑顔をたずさえた綱海が立っていた。

「元気ねーな。疲れたのか?」
「あ、うん……ちょっと」
「なれない奴らに囲まれてると疲れるよな。それにマネージャーやんのも初めてなんだろ?そりゃ疲れるな」

 陰気など寄せ付けないほどに快活に笑うと、綱海はみさこの隣へどかりと座り込む。長い足を無造作に投げ出して、「はあー」と脱力し、壁に背をもたせかけた。「今日は俺もへとへとだ」
 貝のようにうずくまっていたみさこは、気持ちが切り替わらない緩慢な動作で綱海のだらけ切った姿を見ていたが、不意に顔を歪めた。

「綱海君、それ痛くないの?」
「あ?」

 みさこは綱海の日焼けした足を指差した。小麦色の筋肉質なすねやふくらはぎは綺麗なラインを描いているが、それに気付くよりも、彼がたくさんこさえている打ち身が気になってしまう。弁慶の泣き所と言われる向こう脛に、花が咲くように点々と青いあざが散っていたのだ。大小さまざまなそれは、見ているだけで痛々しい。
 うっかりみさこは痛みを想像してしまい、擦り傷ひとつない自分のすねを必死にさすった。

「すねのあざ……すっごい痛そう」
「ん、ああこれか?」

 傷ついたわけでもないのに、自分の脛を必死にさするみさこ。それなのに当の本人は言われるまで気付かなかったといったように平然としていた。

「痛くねえよ。なんか慣れた」
「な、慣れちゃうもんなの…?」
「身体のあざはディフェンダーの宿命。一々気にしてたらゴールされちまうからな。身体張ってんだ。ディフェンダーは」

 な、栗松!と彼は、トランプで負けて悔しがっているチームメイトに話を投げる。突然話を振られた栗松は頭にクエスチョンマークを浮かべたが、彼がディフェンダーの苦労を語ってることを話せば、聞いてくれよ!と言わんばかりの勢いで話に乗ってきた。あまりの勢いにみさこは内心たじろいだ。サッカーにそこまで詳しくないみさこは知らなかったが、彼らは相当身を徹してゴールを守っているらしい。
 あれよあれよという間に守備陣の涙ながらの苦労話が始まる。しかし、そこで攻撃陣が黙っているわけもなく、彼らなりの大変さを訥々と語り、守備陣に対抗し始めたのだった。中でも一番みさこが気の毒に思ったのが、ちょっと待てと話に乗ってきたミッドフィルダーたちの中間管理職的役割の厳しさだった。
 みさこと綱海で始まったささやかな会話が枝葉を伸ばし、あっという間に広がっていく。そこに険悪なムードは一切なく、みんな笑い話を混ぜながら自身の大変さを自虐的に、ときには得意げに語って聞かせている。
 心の中に、不動のことが重くのしかかってはいたが、今まで打ち解けられずにいたメンバーと話せたことが嬉しくて、みさこは少しだけ元気が出ていた。口元がほころぶ。

 盛り上がりを見せる一代愚痴大会はいつの間にか戦術の話になり、今は二人の手を離れてどんどん進んでいく。みさこはこっそりと話から抜け出す。その足で窓際まで歩いく。大勢に囲まれた熱気を冷まそうと一息ついていたところで、綱海も同様にみんなの輪から抜け出てきた。少し前の行動を辿るように、みさこの隣へやってくると、今度はドアの冊子に手をかけた。

「元気でたか?」

 綱海の優しさはまっすぐに心へしみ込んでくる。吊り目がちの瞳が蛍光灯の光を受け優しく揺れている。その双眸には綱海の人柄の良さが滲み出ていて、みさこは小さく笑い返した。

「うん、ありがとう」

「そりゃよかった」と綱海が笑い声をあげた。綱海が笑うと心が温かくなる。まるで太陽から生まれたような人だった。
 二人して空を見上げる。ぼんやりした月灯りが降り注ぎ、さわさわ揺れる木々の輪郭を映し出していた。

「みんなとも打ち解けられたみたいだし、よかったな」
「ありがとう。綱海君のおかげだよ。私がまだみんなと打ち解けられてないこと、気にかけてくれてたんだよね」
「俺はみんなでわいわいやんのが好きなんだ。そっちのが絶対楽しいだろ?誰かが外れてるのはあんま好きじゃねえ。なんかそれってこっちもさみしーじゃん。だからみさこにもはやく他の奴らと打ち解けてほしかったんだよな」

 言いつつ、綱海は「まあ、それができないやつもいるけどな」と眉じりを下げた。困っているような、あきれているようにもとれる表情だった。みさこも曖昧に笑い返す。
 名前が出なくとも、綱海の頭に浮かんでいるであろう人物は容易に想像ができる。十中八九、不動だろう。
 出会ったときから印象は最悪。人間関係を乱すことにおいて天才的能力を発揮するのだと信じて疑わなかった。彼女の予想通り、奔放な不動は自分の思ったことを思ったままに実行し、反感を買う。みさこも怒られてなじられて、嫌な気持ちになることがたくさんあった。
 だが、差し出されたペットボトルを嬉しいと思ったことも事実だ。
 明日はもう少しマシなドリンクを作れと言ってくれたことも。
 押し問答はあったが、一緒に食器を返しに行こうとしてくれたことも。
 きっと、素直じゃないんだろう。そしてこの上なく不器用。言葉は尖っているけれど、心が荒涼としているわけじゃない。
 それを知ってしまうと、なぜか憎めなくなる。

「あのね、さっきの話なんだけど……不動君の、こと」

 みさこは窓の外に目を移したまま、おもむろに切りだした。

「あの時ね、別にきついこと言われてたわけじゃなかったんだ。お皿を返しに行こうとしてただけなの」
「皿?」
「そう。ご飯食べ終わるのが遅くなっちゃって、食器の回収に間に合わなかったの。不動君も置いてかれてたから、じゃあ一緒に行こうってことになって」

 外を見ていると、不動のことが思い出される。薄暗い月明かり、蛍光灯は切れかかり、頼りない光しか放っていなかった。そんな中、たまたまぱちんとついたとき、不動の笑った顔を見た。ざわざわと胸のあたりが騒ぎだす。あの時の感覚が、わずかな苦みを伴って帰ってくるようだった。

「私がちゃんと二人に説明できればよかったんだけど、おろおろするばっかりで何もできなくて……。嫌な思いさせてごめんね」

 綱海を見る。彼はすこし困惑したようにみさこを見返した。

「なんか、おせっかいだった?」
「それは絶対ない!綱海君の気持ちはすごくうれしかったよ。昼間の事があったから、私のこと気にかけてくれてたんだよね?今も私が元気ないことを気にしてくれたし、みんなと仲良くなれるように上手く輪に入れてくれて、すごく感謝してる。ありがとうね」
「んー、そっか」

 綱海は納得したように頷く。少し前まであった困惑の色は消えていて、相変わらずまぶしいほどの笑顔の花が咲いていた。
 その笑顔に後押しされる気持ちだった。
 みさこは意を決する。

「私、不動君にも謝ってくる」

 言うや否や、みさこは部屋をあとにした。



 不動は廊下を歩いていた。一通りボールを蹴り、うっぷんを晴らしたところで自室へ向かう。思いのほか汗をかいてしまったので、もう一度風呂に入り直す必要があった。ここは宿泊施設ではあるが旅館ではない。今の時間でも使えるのだろうか、とつらつら考えていたところで足を止める。
 彼の部屋の扉のまえに、人影がぽつんとあったのだ。見覚えのあるシルエットだった。
 気配に気づいたのか、その人物は沈んだ表情のまま顔を上げた。こちらを見る。みさこだった。

「不動君」

 彼女は不動を見ると小走りで駆けてくる。
 なんでいるんだ。
 そんな疑問でいっぱいになった。
 不動が動けないでいると、みさこが目の前にやってくる。

「あの……」

 戸惑ったように声が揺れている。ちらりとためらいがちな視線が寄越された。揺れる瞳は何かを恐れている色だ。眉も不安そうに下がり、息を潜めて不動の様子をうかがっているのが伝わってきた。おそらく恐れているのは不動自身だろう。
 みさこは不動に怯えるような態度を良く見せていた。そうかと思えば怒ったり、傷ついた様に顔を歪めたり。何にしろマイナスなものばかりだ。今と同じように。
 綱海の前だとそうではない。ぱっと笑顔が咲くのだ。嬉しさがこぼれ落ちてしまったように笑う。意地ばかり張って人を見下す自分と、誰に対しても快活に笑いかける屈託のない綱海。そんな自分を怖がるのも、綱海を慕うのも当たり前と言えば当たり前だ。
 それなのに、ひどく不愉快だった。――自分を否定されたような気になった。
 もっと優しくすればいいのに。過去に言われた言葉を今も突きつけられているようだった。
 そんな思いが引き金となって、霧散させたはずの感情がどっとあふれてくる。

「あの、私、不動君にあやま――」
「帰れよ」

 気付いたとき、言葉はもう出ていた。

「え?」

 みさこが呆然とした。何を言われたかわからない、といった顔だった。

「帰れって言ってんの。ウザいんだよ」

 もう一度言う。吐き捨てるような言葉だった。みさこの瞳がさっと翳り、暗い色が落ちていく。口元が震えていた。
 みさこの横をすり抜け、不動は部屋のドアを閉めた。ボールを乱暴に放って、床に座り込む。
 あふれかけた怒りはもう収まっていた。
 変わりに苦い泥が心の底に落ちていった。


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