桜が散り、青々とした若葉が茂るにつれて、夏がのっそりと頭角をあらわす。
 太陽が徐々に徐々に手加減なしの紫外線をまき散らし、地表に熱の膜をつくって人々を包囲する。たっぷりと葉をつけた樹木たちが申し訳程度に木漏れ日を作って応戦してくれるものの、上はよくても周りはがら空き、いかんせん空気が生ぬるいため涼をとるには力不足だ。
 もうすぐ夏休みをむかえる七月上旬、今日はずいぶんと暑い日だった。

 朝の登校時間、校門は生徒でごった返している。大きな川のように人が流れを作り、次々と校門へ吸い込まれていく。立向居は人でできた流れに混ざり込み、彼ら同様に門へ向かって歩いていた。
 本当に川ならさぞ涼しいだろうが、人が群れてるだけのこれは暑くて仕方がない。
 朝だというのに清々しさは一滴の水ほどもなく、日差しと湿気、そして人が発する熱気で不快指数はうなぎ登りに上昇中だ。まだ何もしていないのに、すでに背中には汗が浮かんでいる。
(それにしても、今日は暑いなあ……)
 はあ、とこれまた熱い溜息を吐きだすと、ショルダーバックをわずかにずらす。肩ひもが触れていた箇所は、どこよりもしっとりと濡れていて、思わず眉を寄せてしまった。汗をかくのには慣れているが、ただ暑さのみによって流れ落ちる汗と運動で流す汗とでは全く違うのだ。前者はべたべたしてとにかく気持ち悪い。だがスポーツで流れる汗は水のようにサラサラしていて、あまり不快に思わない。
 どうせなら動いて汗を流したい。だから、今から部活に行きたい。
 これから始まるであろう教室での授業(悲しいことに、よかと中には冷房がない)を考えると、そう思わずにはいられない立向居であった。
「……あれ?」
 校門に差しかかった時、彼は一点に目を止めた。
「なんだあれ」
 思わず素直な声がでた。
 大きな瞳をぱちぱちと動かす。
 口をへの字に曲げてしまったのは、暑さが増したような気がしたからだ。
 彼の視線の先には、ひとりの女生徒がいた。その生徒は、漂白したように眩しい夏服を着て、グレーのやや短いプリーツスカートを揺らして歩いていた。ほっそりとした足には紺色のハイソックス。よかと中指定のショルダーバッグを肩から掛けていた。一見、至って普通の生徒なのだが、一つだけ明らかに可笑しい部分があった。頭だ。彼女の黒い髪を覆うようにして、青色のキャップが深々とかぶせられているのだ。熱を逃がすため、後頭部の部分がメッシュ素材になっているそれは、野球チームのロゴがつけられているものに似ていた。
(え、あれって日焼け防止……?)
 制服姿にキャップ帽子。その、どこかちぐはぐな格好をした女生徒に立向居はくぎづけになっていた。周囲の生徒も同様で、ちらちらと彼女に視線をおくる者も少なくない。
 一体誰が、何のために?
 敷き詰められた煉瓦を踏みしめ、立向居は考えていた。
 その時、女生徒がちらりと後ろを向く。キャップの影から横顔が見えた。

「森さん!?」

 思いのほか大きな声が出て、立向居は自分の口を慌ててふさぐ。
 今度は彼が注目を集める番だった。だが、その大きな声のお陰で、女生徒――みさこが立向居に気付いた。目があった瞬間、泣きそうな、恥ずかしそうな、いたたまれないような、一言では言い表せないであろう想いがない交ぜになっている顔をしてみせた。
 立向居は足早に彼女のもとへ駆け寄った。

「た、立向居君……」
「おはよう、森さん。えっと、それ……なに?」

 もう少し、ソフトな対応を取るべきだったのかと思うがもう遅い。率直過ぎたのか、みさこは眉を寄せて言葉に窮していた。もごもごと歯切れの悪い音を発した挙句、俯いてしまう。鮮やかな青が目に痛い。
「もしかして日焼け止め?女子ってそういうのやたら気にするよね」

 出来るだけ明るく務めたが、みさこは俯いたままだった。そのまま帽子ごとふるふるとかぶりを振る。
 二人は適度に注目を集めつつ、昇降口へたどり着いた。
 校舎に入れば灼熱の日差しはさえぎられ、幾分か涼しくなった。
 だが、みさこが帽子を取る様子はない。日光を遮るのが目的ではなかったようだ。だとすれば、暑さをしのぐためにかぶってきたのではないだろう。
 じゃあ、一体どうして?
 みさこを見つけた時のように、立向居は考えた。

 がこん、と立てつけの悪いロッカーを開く。土とほこり、微かにカビ臭さを伴った臭いが鼻をついた。
 上履きをすのこの上に投げ出した時、みさこが消え入りそうな声で呟いた。

「……失敗したの」
「え?」
「失敗したの。最悪なの。もうダメなの」

 え、なにが?
 のどまで出かかった言葉を、すんでのところで嚥下する。こんなつっけんどんに聞いていいものか、と先程のことで少し学習した立向居は言葉を選ぶ。

「そんなこと言わないで、俺に話してよ。いつまでも帽子、かぶってるわけにもいかないし。何かあったなら聞くから。嫌なこととか、あった?」
「……嫌なことじゃなくて、私の自業自得なんだ」
「自業自得?」
「そうなの。調子乗って、つい、やりすぎちゃって……気付いた時にはもうどうしようもなくて」

 みさこの声が逼迫していくので、立向居はそれとなく彼女を昇降口の隅へ連れて行った。あはは、と甲高い声が聞こえて、クラスの女子が昇降口へ入ってくる。みさこの身体が強張るのが分かった。
 偶然かと思ったが、そうではない。青いつばを白い指が力強くつかむ。そのままぎゅっと顔を覆うように下げてしまう。
(帽子をかぶってきたのは、顔を隠すためか!)
 絡みあっていた糸がほどけたようにすっとした。必殺技に悩んでいる時に解決策が見つかった時の喜びに似ている。だが、そんな喜びと同時に、暗い感情がのそりと鎌首をもたげた。
 クラスの女子から身を隠す。もしかしていじめに遭っているということなのだろうか、顔に隠したいような傷ができるほどに、陰湿ないじめが。
 立向居の顔が険しくなる。
 すると、みさこが上目づかいに立向居を覗き込んできた。
 瞳には怯えの色が見えた。黒い睫毛の間から不安定にゆらゆらと揺れている。
 おもわずドキリとさせられた。

「立向居君、ひとつ約束してくれる?」
「約束する」

 さまざまなものが混ざりあった熱が胸を焦がしていった。
 立向居は強く頷き返した。

「絶対に、」
「絶対に?」
「絶対に、笑わない?」

 一拍、間があく。

「……え?」

 絶対に、笑わない?予想だにしない約束に、立向居は目をしばたたいた。

「笑わないけど……えーっと…?」
「絶対?」
「ぜ、絶対」
「わかった」

 頭に大きなはてなマークをこさえる立向居をよそに、みさこは意を決したようにキャップに手をかける。
 する、と彼女の頭を覆っていた帽子が取り去られた。静電気により、髪が何本か帽子に縋るように付いていった。

「あ」

 白日のもとに晒されたみさこの頭――前髪は、眉よりかなり上、大幅に短く切られていた。立向居の脳裏に、日本の伝統的木製人形が思い浮かんだ。
 前髪にそそがれる視線にいたたまれなくなったように、みさこは片手で隠してしまった。眉は寄り、目は泣きそうに潤んで、頬が微かに上気している。

「前髪、切りすぎちゃった…」

 声も、ぶるぶると震えている。

「ガタガタしてるのを直そうとしてたら、どんどん短くなっちゃって、気付いたらこんな、こけしみたいになっちゃって」

 ううう、と唸った。
 立向居は放心していたが、しばらくして、ふっ、と呼気がもれだす。

「あは、あはは……ははっ」
「あ、わ、笑った!」
「ごめん、だって、まさか前髪を隠してたなんて思わなくて…あはは」

 陰湿ないじめかと思っていたのに、蓋を開けてみれば前髪を切りすぎていたなんて。自分のいきすぎた妄想が間抜けで、立向居は笑ってしまった。彼女は自分の前髪を笑われたと思っているようで、ひどい!と怒りはじめた。そのたびに、さらさらとした前髪が夏の風に揺れる。

「俺、森さんがいじめに遭ってるんじゃないかって心配してたんだ」

 ひとしきり笑うと、立向居は目じりに浮かぶ涙を拭った。

「え?いじめ?」

 きょとん、と目を丸くする。前髪が短いせいか、いつもよりずっと幼く見えてしまう。胸をくすぐるような、あどけない可愛さがそこにはあった。

「そう。いじめ。森さんがあんまり苦しそうな声出すから、もしかしたらクラスの女子にいじめられてるんじゃないかって。けっこう焦ったよ」
「立向居君、そんなこと考えてたの?」
「だって、森さんの様子、それくらいおかしかったから」
「そんなにおかしかった?」
「うん。泣きそうだったし」
「確かに、泣きそうではあった、かも……」
「それにしても前髪隠すために帽子かぶってきちゃうなんてすごいなあ。ものすごい目立ってたよ」
「それは……!わかってたけどどうしても見られたくなかったんだもん」

 その時、予鈴が鳴った。
 あと五分で朝のホームルームが始まる。
 教室に駆けこむ生徒で、昇降口は先ほどとは違った慌ただしさだった。

「やだな、教室行くの。絶対笑われる」

 生ぬるい空気が沈殿する廊下で、みさこが再び帽子をかぶろうかと悩んでいるようだった。立向居に話したことで幾分か落ちついているのか、泣きそうな気配はない。

「そんなことないよ」
「うそ。笑ったじゃん」
「あれはあれこれ考えすぎてた自分のことを笑っただけだって」

 そう言えば、みさこの前髪について何も言っていなかった。立向居は今それに気付いた。
 第一印象は「こけしみたい」だったが、それはタブーだ。言ったが最後、みさこにしばらく睨まれることになるだろう。立向居は、ゆっくりと自分が感じたことを手繰り寄せていく。

「おかしくないと思うよ、俺は」
「…いいよ、無理しなくて。どのみち腹くくらなきゃいけないから」
「本当に。なんか小さい子みたいで、可愛いよ。それに浴衣とか似合いそうだなーって思った。ちょうど良いよ、夏だし」
「褒めてるの?貶してるの?」
「褒めてる褒めてる。お面付けてりんご飴とか食べてそう」

 それ、絶対褒めてない!
 みさこはジト目で立向居を睨みつけた。

 二人が言い合っているうちに教室の前までやってきた。みさこは心底嫌そうに顔を歪める。女子から姿を隠したのは、手ひどくからかわれるからだろう。

「覚悟を決めるわ……」
「がんばって」

 立向居が笑って送り出そうとすると、みさこがくるりと振り返った。
 短い前髪が楽しげに揺れた。

「はげましてくれてありがと、ほんとは感謝してる」

 破顔一生、小さい子が甘いお菓子を手に入れたときに見せるとろけたような笑顔を見せる。
 立向居は固まった。
 背中に汗が流れる。
 今日は暑いのだ。
 じっとりと湿った空気がからみついて、動いてもいないのに汗が噴き出る。
 だが、暑さからくる汗とは少し違う。運動した時にながれるものとも、どこか違った。
 それよりももっと深く、身体の芯から湧きだすような熱をもったものだった。
 入口に突っ立ったまま動けない立向居は、教室でからかいの嵐に翻弄されている、前髪をいたずらに揺らす可愛らしいクラスメイトをじっと見ていた。

(ああ、もう、今日は本当に暑い……)

額に浮かんだ汗が、つ、と頬を伝ったが、不愉快ではなかった。
 

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