つい先日、エスカはクラスメイトであるみさこから付箋の良さをこんこんと語って聞かされた。エスカにとってそれはただの紙切れ、というかゴミ程度の存在としか思っていなかったので、そんなものをいかにも優れていると豪語するみさこは滑稽でしかなかった。
 生まれてこの方、自分の感じるがままに生きてきた彼は、相手をおもんばかって嘘をつくなんて気の利いたことはしてこなかった。言いたいことは、はっきりと。家系柄、そういわれて育ってきたのだ。
 今回のことについてもそれは同じで、付箋を愛するみさこを気遣うこともなく、はっきりとゴミ呼ばわりをした。彼女があからさまに嫌そうな顔をするのも全く気に留めずに。
 エスカの言葉を果たし状と取ったのか、みさこは講義の最中にも関わらず、挑むような視線を向けてくる。
 思いがけない強い視線。それは好戦的なエスカの目に魅力的に映った。
 付箋にさして興味はなかったが、彼女の挑戦を受けて立つのは悪くない。エスカも負けじと付箋をこき下ろすことで対抗した。

 だが、彼女の付箋に対する愛は相当のものらしい。ああだこうだと講釈を垂れ、魔法の道具であるかのように語られていく付箋の魅力は、なかなかどうして心惹かれるものがある。まことに不本意ではあるが。
 メールよりもずっと温かみがあって、贈り物を貰ったように嬉しくなる、というのも、ウサギを使って実践されると確かにそうかもしれないと思ってしまった。そこからはなし崩しにエスカの考えが改められていく。
 中でも彼の心を一際揺らしたのは、みさこが例に出した「ごめんね」にあった。
 謝ることは難しい。特に意地を張ってしまう自分のような性格にとっては。エスカは自分にそんな一面があることを知っていた。それゆえ、言い逃げしてしまえばいいという文句はひどく魅力的に響いたのだ。
 謝罪メールを送りその後電源を切るのと、付箋に「ごめん」と書き言い逃げしてしまうのと。自分だったら断然後者がいい。エスカは迷いなくそう思っていた。
 受けてとなって考えても、一体、謝る相手はどんな顔をしてメッセージを貼りつけていったのだろう、と想像したらおかしくて笑ってしまいそうだ。そんな考えすら浮かんでいた。
 仕方なくみさこの言葉に同意すると、彼女はとても嬉しそうに笑った。勝ち誇った時の満足げな笑みというよりは、自分のことをわかってもらえたときに見せる少し幼げな微笑みだった。あからさまに不機嫌な顔をしたかと思えば、高揚しているせいかほんのり頬を染めながら熱弁をふるい――そして最後にぱっと笑う。まるで小さな子供のようにころころと変化する表情を見ているのは、心の底を羽でくすぐられているかのようだ。みさこが寄越したウサギの付箋を眺めれば、いっそうその思いは深くなる。
 そんなことを思ってしまった自分、そしてそう思わせたみさこが少し恨めしくて、エスカはささやかな嫌がらせをしてみせた。揚げ足を取るように行われたそれにみさこはいたくご立腹のようで、翌日エスカの机には「バカ」と書きなぐられた付箋が、主の怒りをたたえるように居座っていた。
 なるほど確かに感情が表れている。
 みさこが聞いたら「うるさい」と怒るだろうその感想をエスカは心の中だけで呟いて、小さく笑うにとどめた。


「エスカ君、昨日はどうも」

 ディベートを控えた休み時間、移動中にみさこが能面のような笑顔で話しかけてきた。口元は笑っていても目が笑っていない。要は怒っているのだ。
 彼女の目の下にはくっきりとしたクマがあり、昨夜遅くまで課題に取り組んでいたことが窺える。

「よお、昨日はよく眠れたか?」
「まさか。朝まで課題と仲睦まじく抱き合ってましたよ」
「そりゃ大変だったな。授業に関係ないのにごくろうなこった」

 おどけた口調で言えば、みさこは笑顔をしまい込み恨めしそうに見上げてきた。つんっと唇を尖らせる。それが少し愉快でエスカは声をたてて笑った。
 すれ違う生徒何人かが訝しげな視線を向けてきたが気に止めなかった。そのまま肩を並べて教室へ向かう。

「エスカ君の馬鹿。ろくでなし。唐変木」
「心外だな。ちゃんと教えたじゃねえか。それも、森が教えてくれた『言いにくいことを言える』付箋とやらを使って。あれは確かにいい。言いやすかった」

 「最後にねぎらいの言葉も添えたしな」と付け加えれば、いよいよみさこが噴火した。

「エスカ君ってずっごい意地悪!」

 彼女の声に驚いた生徒がなにごとかと二人を見る。みさこは、はっとして声のボリュームを落とした。思いっきり怒りたいのに怒れない。そんな鬱憤がたまっているようだ。ますます機嫌が悪そうに顔をしかめる。
 感情を包み隠さず表に出すみさこは、幼い子供がお菓子を買ってもらえずふてくされているようだった。雄弁に付箋の良さを語っていたときとはだいぶ印象が違う。どうしてか、少しだけ愉快だった。
 エスカはのどで笑った。

 ディベートが行われる部屋は普段使っている教室より一回り大きく天井も高い。隅へ行くほど高くなっているひな壇のような床に、マホガニー製のつるりとした長机が並べられている。鳥瞰するとコの字型を描いている配置は、ディベートを考えての造りだろう。
 少し仰々しい雰囲気の教室へ入ると、女生徒に囲まれたミストレや、一人本に目を落とすバダップに気付く。彼らも今日はディベートを行うクラスに当たったらしい。
 エスカが周りへ視線を向けている間に、みさこはすいっと彼の元を離れ後方の席へ移動してしまう。
 それを見計らったように、他の生徒がエスカを取り囲むようにして集まった。普段から仲良くしている生徒だ。皆一様に今日のディベートでエスカが活躍することを望んでいるような口ぶりだった。
 期待を背負うのは嫌いではない。むしろ高揚する。エスカはいつもディベートが始まる前、こうして仲間たちと語らい己を奮い立たせていた。だが今はどうもみさこのことで気が散ってしまい、なおざりな返事ばかり。
 そのみさこは、むっつりと黙り込んだまま席についていた。エスカが彼女に視線を向けると、いっそう眉を寄せて睨んでくる。きわめつけにふいっと顔を逸らされた。
 本当に、拗ねた子供のようだ。危うく吹き出しそうになる。

「今日はあっちに座る」
「あっち……?」

 友人の訝しげな視線を振り切ると、エスカはみさこが座る席へ向かった。
 靴を鳴らして近づけば、信じられない――といったような目を向けられるが、かまわず隣の椅子を引く。みさこは相当驚いていたようだ。いまだにエスカを見つめて瞬きを繰り返している。すぐさま悪態をつかれると思っていたのに、予想外の反応だ。

「エスカ君あの……」
「なんだよ」
「えっと……。な、なんでここに座るの?」

 彼女の声はなぜかたどたどしい。言葉を選ぶように、ゆっくりと言った。

「なんとなく――森が面白いから」
「まだ私をからかい足りないっていうの?……言っとくけど、今日はエスカ君の思い通りにはならないからね」
「だから俺を悪者みたいに言うなって」
「私にとっては極悪人だもん」

 どうしてか、今日は彼女にかまいたくなる。
 原色のように鮮やかな感情を見せてくるからだろうか。わからない感情を心の中で転がしながら、エスカは頬杖をつく。

「もう付箋あそびはやめたのか?」
「誰かさんのせいで嫌いになりかけたけど……やめたわけじゃないよ」
「ふうん」
「エスカ君こそ、付箋の魅力に気付いた?なんなら恵んであげようか?意地悪しやすいように!」
「俺が嬉々として人を貶めるみたいなこと言うな」
「ものすごい笑顔で私のこと先生に差し出しておいてよく言うよ」
「俺は言おうとしたぜ。だけどあんまり森が嬉しそうに話すから割り込むのも悪い気がして……」

 これは冗談だ。本当はもっと早く教えてやることもできたが、少し悔しかったからあえて黙っていた。みさこに薄っぺらい嘘は通用しないらしい。「よく言うよ!」一蹴された。
 他愛のない話をしていると、エスカバ、と聞きなれた声に名前を呼ばれた。

「ミストレ?」
「やあ。今日もいい天気だね。俺が頂点に上り詰めるにふさわしい晴天だよ」

 美術品のように整った顔貌の同級生、ミストレが微笑んでいた。麗しげな表情からは想像もつかない、野心あふれる言葉はもう聞き慣れてしまった。ミストレは常に一番を渇望し、それを欲しいがままにしているバダップに対抗心を燃やしているのだ。一度完膚無きままに叩きのめされたはずなのだが懲りていない、どうやら諦めの悪い性格のようだ。
 エスカがミストレに呆れた視線を送っていると、こと女性関係において抜け目がないミストレは、みさこにとろけるような笑みを向けた。蝶のように花から花へ舞い、ところかまわず蜜を吸う悪い癖も、どうやらなおっていない。本当に、懲りないやつだ。エスカは頬杖をついたまま溜息を落とした。

「こんにちは。俺はミストレーネ・カルス。君はエスカバの友達?」
「森みさこ。エスカ君とはただのクラスメイトだよ」

 みさこは先程の不満顔から一変、やわらかくミストレにほほえみ返した。途端に二人の間に清涼な風が流れたかのような雰囲気が広がる。

「……どうやらエスカバはみさこちゃんに嫌われてるみたいだな」
「なんの話をしてんだ、おい」
「こいつのことで困ってるなら、いつでも俺が相談に乗るからね。遠慮なく頼って」
「本当?」
「ああ、俺はいつでもみさこちゃんの味方だよ」
「ありがとう。そうする。ミストレ君って優しいんだね」
「誰にでも、ってわけじゃないさ」
「え……?」
「俺は自分が笑っていてほしいと思う人にしか優しくしな――」
「おいおいおいおい。だからなんの話だよ」

 雲行きが怪しくなる会話に茶々を入れる。なんだかものすごく面白くなかった。
 エスカは机に手をつくと、ミストレとみさこを遮るように立ち上がった。

「で、ミストレはなんの用があって来たんだよ。ディベート前に話しかけてくるなんて珍しい」
「あ、そうそう」

 今まですっかり忘れていた、というふうにミストレはぱっと瞳を見開いた。にやりと口角をあげる。

「俺は、エスカバに恩を売りに来たんだ」
「恩……?」
「そう。恩。君は俺に感謝することになる」
「はあ?お前に売られる恩なんてねえよ」

 身に覚えのないことに警戒を覚えた。これが、バダップだったら素直に聞いただろうが、相手は食えない男、ミストレだ。一体何を言い出すのかわかったものじゃない。それにもし借りなんか作ってしまったら、お返しと称して何をせびられるか。つい慎重になってしまうのはしかたない。
 ミストレはやれやれと言った風に息を吐く。

「聞けばわかるさ」
「なんでお前が俺に感謝されるようなことを知ってんだよ」
「なんでって……一目瞭然だからさ」
「は?」

 ますますわからない。エスカは首を傾げる。
 教室のざわめきが静まりはじめる。もうすぐ授業が始まるのだ。訝しむエスカを押し切るようにして、ミストレは口を開いた。

「エスカバ、君の――」

 と、その時。

「エスカ君、教官がくるよ」

 エスカが首をかしげミストレの言葉を待っていると、肩に何かが触れる。みさこの手だ。彼女はエスカの広い肩におかれた華奢な手に力を入れると、エスカを椅子に座らせてしまった。
 エスカは二回ほど瞬く。予想外の出来事に、さすがのミストレも驚いているらしい。海色の双眸を落っことしそうなほどまん丸にしていた。みさこはエスカの肩に手を置いたまま、もう一度「教官が来るよ」と言った。先ほどよりも近くで聞こえる声。手繰り寄せられるかのように見あげれば、すぐ近くに彼女の瞳があった。さらりとひと房、髪がエスカの視界に入りこんできた。かすかに甘い香りがした。
 しばし時間が奪われてしまったかのような沈黙。
 だが彼女の言葉どおり教官が入って来たので、生徒が慌ただしく席に着いた。ミストレも同様に、こちらを気につつも席に戻っていく。
 エスカは席にこそついているものの戸惑っていた。それはもちろんみさこの突発的な行動のせいであるが、疑問よりもよくわからない感情が心の中を慌ただしく転がっている。羞恥、苛立ち、喜び、それとも戸惑いか。よくわからない。
 だから、エスカは気付かなかった。
 彼女が自分を椅子に座らせたとき、ミストレを見つめてうすく笑い、人差し指を立てていたのを。


 悶々とした思いを抱えたまま、ディベートは進んでいった。エスカはいったん感情を押し込めると、いつものように発言をしていく。毅然と立ち上がり、周りの者に視線をおくり、教官へ訴えかけるように持論を展開する。偏ることなく室内を見回すうち、ミストレと目があった。
 彼はなにやらほくそ笑んでいた。彫像のようないつもの澄まし顔はそこにはない。
 意味深な視線がなにを意味しているのかはわからない。それでもエスカは気にすることなく意見を述べていった。

 発言を終え一息つくと、隣から衣ずれの音が聞こえた。みさこだ。
 不意にさきほどの甘い香りが漂ってきた気がして、エスカは身体を固くした。誰かが発言をしているのに、言葉は頭に入ってこない。椀の底が抜けているように、思考が流れ出ていってしまう。
 エスカが居心地悪く思っていると、ふいに、見覚えのあるウサギが机に貼りつけられた。赤い目をした白ウサギ――みさこが持っている付箋だ。みさことエスカの睨みあいの原因でもある、昔の文具。そこには淡白な文字が並んでいた『エスカ君の説明わかりやすかった』
 エスカは顔をあげた。教官の視線がこちらに向いていないことを確かめると、首を少し捻ってみさこを視界にとらえる。
 彼女はにっこりと笑っていた。
 エスカの心音がわずかに速くなる。
 いや、今はみさこの変化を訝しむべきだろう!エスカは一人歩きを始めた自分に慌てて言い聞かせる。
 先程まで怒っていたのに、今はとても機嫌がいいようだ。その理由がわからない。怒っているのが馬鹿らしくなったのだろうか。それともミストレの軽口で気分を良くした?
 心にもやがかかっていく。ディベートで自分の考えを出し切りすっきりしたはずなのに、その清涼感は瞬く間に消えて行った。
 バダップがいつものごとく、誰も看破できないほどに美しい論理を披露している。エスカがそれを聞きいることはなかった。目の前で愛らしく笑う少女に気を取られてそれどころではなかったのだ。
 エスカは机に貼り付いていた付箋をもう一度眺めた。

 「ん……?」

 よく見ると、貼りつけられた付箋は一枚ではなかった。ぴったりと重なるようになっていて分かりにくいが、もう一枚下に紙がある。エスカはそっと上の付箋をめくった。

『でも気になることがひとつ』

 そこにはまたしてもすらっとした文字がある。
 さらによく見ると、もう一枚、下に紙がある。これは、三重構造だったのだ。
 紙媒体に疎く、薄っぺらいせいで気がつかなかった。エスカはさらにもう一枚の紙をめくった。

「…………!?」

 机上に、ウサギが三匹並んでいる。
 一匹目には『エスカ君の説明わかりやすかった』
 二匹目には『でも気になることがひとつ』

 そして問題の三枚目には――

『ズボンのチャック全開だよ』

 エスカの声にならない悲鳴は、のどに詰まって奇妙なうめき声となった。冷たい霜に降られたように、顔が引きつって上手く表情が作れない。
 とりあえず事の真相を確かめてみれば、彼女の言うとおりズボンのチャックが開いていた。

(今日一日、俺はこんな姿で過ごしてたのか……!?っていうかこれでディベートを……)

 エスカは先程のディベートの光景を思い出した。発言する者は席を立ち、聴衆は一人立ち上がった生徒に注目することが暗黙のルールとなっている。
 ということは、ズボンのチャックが開いているとも気付かずに生徒の耳目を集め、得意げに論を語っている自分――とそこまで考えてやめた。いたたまれなかった。ここにきてミストレの態度に合点がいく。恐らく、これをエスカに教えようとしていたのだろう。こんなことで貸し借り云々言ってくる現金なミストレについて思うところがあるけれど、今は置いておく。そこはさしたる問題ではないだろう。
 首筋から頬にかけて、のぼせるほどの熱が込み上げる。肩が小刻みに震えた。目の奥につんと痛みが走っていく。
 今度の感情は、はっきりしている。”羞恥”。

「大変だと思って、ディベートが始まる前に言おうとしてたんだけど、私、女の子だからどうしても恥ずかしくて……直接言いにくかったから、書いてみました」

 エスカの傷口に塩をぬるように、みさこが小声で語りかけてきた。
 そう、みさこはディベートの前からエスカのズボンの状態を知っていたのだ。だが、あえて教えなかった。
 それだけでなく、奇妙な行動を取ってミストレの忠告を遮った。エスカは知らないことだが、わざわざミストレに”内緒”を伝えるべく、人差し指を口元で立ててまで。

 まんまと報復を果たし、至極すっきりした笑顔を浮かべている彼女を、エスカはご自慢の三白眼でねめつけた。いつもより迫力に欠けるそれは、しっとりと潤んでいた。報復されただけでなく、なぜか純情までをも弄ばれたような気がしてならなかったのだ。

「こういうことは、早く言えよっ……!」


 その後、三日ほど密やかにエスカの醜態がささやかれ、彼が悩まされることになるのだが、それはもう少し先の話。


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