今、私のクラスではちょっとした”もの”が流行っている。主に女の子がそれを使っているんだけど、男子からはあまり評判がよさそうじゃなかった。いわく、「何でそんな古臭いもんを使ってるんだ」ということらしい。 「でも、楽しいよ」 昼下がりの教室、私は隣に座っているエスカ君に言った。 「どこが楽しいんだ?ただの紙切れじゃねえか。ゴミだろゴミ」 少し抑えられた小さな声で、エスカ君は私たちの間で流行っているものに酷評を下す。今は授業中なのだ。 「ゴミなんてひどいこと言わないでよ」 彼同様、私も声のボリュームを大幅に下げて反論した。不満げに睨み返すと「本当のことだろ」と頬杖をつきながら、片方の口角を吊り上げる。人を小ばかにしたような笑顔がじつに腹立たしい。 今この瞬間、エスカ君は教室中の女子を敵に回したと思う。 私はエスカ君が「ゴミ」と称したそれを机の上に置いた。小指程度の大きさで、長方形に切られた紙の束。綺麗に形が統一され、ピンクや青、緑に黄と綺麗な色が付いている。ぴったりとくっついている束から一枚つまんで引き離せば、紙同士をくっつけていたのりがささやかな抵抗をしてくるが、そのままぺろんと引きはがす。 これは、付箋と言うものだ。まだ紙媒体が中心だったころ、しばしば使われていた文房具。今の時代、紙よりも電子媒体が出張っていて、私にとって付箋とは端末についているしおり的機能の一つでしかないけれど、昔の人はこの、のりが付いた紙をしおりとして使うよりはあらゆることをメモしておいたらしい。 それだけじゃなく、相手に何かを伝えるときにも使っていたらしい。さっと一言メモを書き添え、相手のノートや机に貼れば伝書鳩よろしく機能する。事務連絡でもいいし、ちょっとしたねぎらいの言葉なんかを添えるのも乙なものだ。手書きだからか、どこか温かみがあって、もらうとこれがまたうれしいものだったりする。 最後に、付箋の一番の評価項目は「時間差」から感じられる奥ゆかしさじゃないだろうか。とくに胸に響く言葉が書かれていた場合、はっとしたときにはもう遅く、はやる気持ちを伝えたくても相手はいない。それが少しもどかしく、でも余韻に浸れてどこかくすぐったい。心地よい奥ゆかしさだ。すぐに気付いて即座に返信できるメールとはひと味もふた味も変わってくる。 付箋とは、実に便利かつコミュニケーションも取ることができる、そして心の鐘を鳴らすようなくすぐったい気持ちにさせてくれる偉大な文具なのだ。 女の子ってそういうものに心ひかれるところがあって、今私のクラスでは空前絶後の付箋ブームが巻き起こっていた。 それなのに、エスカ君は私たちお気に入りの付箋を「ただの紙切れ」であるうえに「ゴミ」と称した。これは許しがたい。 「エスカ君にはこの良さがわかんないの?」 「わかんねえ。わかりたくもねえし、女子がなんでそんな古臭いものを所構わず貼りつけてんのかも全然わかんねえ。あんまりぺたぺた貼ってると、いつかこっちまで貼られそで嫌なんだよな……」 最後の被害妄想はなんかよくわからないけど、エスカ君の付箋への不信感がただの偏見であることはわかった。 私は、エスカ君の不安を現実にする。 剥がした付箋を隣の席へ貼りつけてやった。色はピンク。エスカ君には似合いもしない、可愛らしい薄桃色だ。これは、ささやかな嫌がらせ。 私の心づかいを敏感に感じ取ってか、エスカ君はご自慢の三白眼で睨みを利かせてきた。生まれつきだそうだけど、この人は凶悪犯もびっくりなほど目つきが悪い。ああ、そんなに睨まないでよ。 このままだと眼光で焼かれそうだったので、私は話を再開した。 「付箋はね、奥ゆかしい」 「こんなもんに奥ゆかしいもなにもあるかよ」 「そんなことないよ。昔はね、色んな事に使ってたんだよ。例えば、お礼の言葉」 「お礼の言葉?」 かなりお年を召した教官の声はぼそぼそとしていてよく聞こえない。それをいいことに、私は授業をほっぽり出して、エスカ君に付箋のよさを説き始めた。 「付箋って、相手のものに添えておけば必ず目につくでしょ?しかも相手がメッセージを見るときにはもう自分はそこにいない。それってなんか洒落てない?手書きだから温かみもあるし」 「メールすりゃいい」 私の丁寧な説明を、エスカ君は現実主義という夢のない刀を振り回して一刀両断した。同時に机に貼りつけられた桃色の付箋を指ではじく。……なんか悔しい。 「でも、メールよりも温かみがあるよ。手書きって嬉しいじゃん」 「どっちだって情報量に差はないだろ」 「そんなことない。電子的な文字の羅列は無機質だけど、個人の癖が出る手書きは感情的な情報が加わる。丁寧な字は感謝を心を伝えるのを手伝うし、逆に殴り書き走り書きは、自分への気持ちが薄いことがわかるようになってる。情報量はずっと多いよ」 負けじと反論すれば、エスカ君が言い返してくる。……なんだかディスカッションみたいになってきてないか?エスカ君もそう思っているらしい、討論モードのスイッチが入りかけている。私をまっすぐ見据えながら、どうやって打ち負かしてやろうかとあの手この手を考えている策士の顔だ。 授業中に教室の片隅で付箋について熱烈討論だなんて。教官にばれたときが恥ずかしい。 だけどさんざん馬鹿にされた手前、私も大人しく引き下がるなんてしたくなかった。この学校にいると変にプライドが高くなるというか、負けず嫌いになるというか、とにかく相手に自分の気持ちをわからせたくなる。まあ、それが上に立つ人間を養成するこの学校の教育方針のひとつでもあるんだろうけど。 討論がひと段落ついたところで、件の付箋を取り出した。長方形ではなく、ウサギの顔を象ったを可愛らしいもの。赤い目をした白ウサギが笑っている。 こうなれば実戦あるのみだ。 一枚剥がして、文字を書く。 「例えば、エスカ君が私に授業のデータをくれたとします」 授業はまだ終わりそうにない。相変わらず一定のテンポとトーンを保った教官のぼそぼそ声が聞こえてくる。おまけにかつぜつが悪くてよくわからない。 私たち同様に授業を放棄している生徒もいて、ひそひそ声が聞こえてきた。それをいいことに、私はエスカ君のほうへ身体を向けた。 手を伸ばして机に付箋を貼る。それはさきほどのウサギ型のものだ。笑うウサギに添えられていたメッセージは「助かった!ありがとう 今度お礼するね」 「朝来たときにこの付箋がついてたらちょっと嬉しくならない?なんか贈り物をもらったみたいで、あ、本当に役立ったんだなって思えると思うんだ」 「うーん……まあ、」 エスカ君はそのシチュエーションを想像しているのか、煮え切らない返事をしてうつむいてまじまじと付箋を見ていた。即座に否定してこないところをみると、少しはわかってくれたんだろうか。これはもうひと押しかもしれない。 それに、と私は付け加えた。 「言いにくいこと。これも付箋だと言えたりするんだよ」 「まさか」の否定ではなく「ほんとかよ」とエスカ君が喰いついた。 顔をあげて私を見る。メールでも口頭でも、言いにくいことは言いにくい。人間が関わり合う限り、いつの時代も変わらない。それを叶えてしまえると聞かされればそれは誰でも反応してしまうのだろう。 「メールと口語に共通する物は相手からの返事。だけど付箋は相手に届く時には自分はもう側にいないから、言い方は悪いけど言い逃げみたいに思い切って相手に気持ちをつたえられる」 一気に言い切った私は笑って見せた。 人間、言いにくいのは相手の反応を恐れているからだ。すぐに返ってくる反応に対処しきれないと思うから口が重くなる。だけど付箋で伝えた場合、考える時間を作ることができて、心に余裕が生まれると思う。それに、手で書いた方が真摯さを添えることも出来るはずだ。 絶対、とは言いきれないけど、効果がないとも言いきれない。 そこまで話し終えれば、エスカ君は前に映し出されたスライドを眺めたまま考えるそぶりを見せる。瞼を伏せて、頬杖をついた。手に持っていたシャープペンをかつかつと机に打ちつけている。納得はしてないけど、一理ある。そんなところだろう。 教官が一度、むせるように咳き込んだ後、エスカ君は再び付箋を見て「例えば?」と聞いてくる。 あともうひと押しか。 「例えば……『ごめんね』とか?」 「あー……」 「喧嘩しちゃったときとか、素直に謝れない人におすすめ」 「……もしかして、俺に言ってんのか?」 「なんかエスカ君って意地はって謝れそうにないじゃん」 「偏見だ、そりゃ」 ふん、と鼻を鳴らされた。だけど、そのあと少し間をおいて「たしかに、ちょっとは言いやすいかもな」とのお言葉を賜った。……やっぱり意地っ張りなんだな。彼は。 エスカ君は前を向いていたけど、首を少しだけ捻って私に視線を寄越した。笑っていた。先程のような怒りを覚えるものではなく、面白いものを見つけたように、きらきらとした無邪気な笑顔だった。 こんな顔もするんだ。少し意外に思う。 「森の付箋に対する哲学はわかった。まあ、一理あるかもな。そこらじゅうに貼りまくるのは理解できねーけど」 エスカ君は机に貼られたウサギの付箋を眺めてもう、一度笑った。 そして何を思ったのか、おもむろに桃色の付箋を剥がすと、ペンを取り出しさらさらと何かを書き始める。 もしかして私の力説のかいあって、もう付箋の魅力に気付いたんだろうか? 私の考えは、残念ながら的を射ないものだった。 「言いにくいから書いた」 こっそりと手渡された付箋には、綺麗な文字が並んでいた。粗暴な印象とは違って以外と繊細な字を書くんだ……っていう印象は付箋の文字を認識した瞬間消え去る。 『さっきから教官がにらんでるぞ』 え……? 私は顔をあげた。 いつの間にか平坦な抗議の声は止まり、白髪を頭になびかせる教官が渋い顔をしていた。その目には、授業中に横を向き迷惑も顧みず隣の生徒にちょっかいを出す私と、エスカ君――それも、ペンを持って前を向き、いかにも真面目に授業を受けている風を装っている――の姿が映っているに違いない。その証拠に、教官は私ひとりをにらんでいる。 「確かに口よか言いやすい、いいものかもな」 前を向いたまま、エスカ君は笑った。 「そういうことは、さっさと口で言って……」 その後、私は放課後に教官に呼びだされ、たっぷりと課題を頂戴した。 まんまと自分だけのがれたエスカ君に腹を立て、憤然として教室に戻ってみると、私の机上に正方形のシンプルな付箋が貼られていた。 そこには綺麗な文字で「どんまい」と。そう書かれていた。 「……アイツ!」 ふたつ、訂正しよう。付箋はいい。相手の気持ちがより伝わってくるし、余韻が残る。だけど緊急時には使うべきでない。情報伝達の遅れはとんでもない不幸を巻き起こす。 そして、最高にイライラするメッセージをいただいた場合に関しては、プラス要素が全てマイナスとなって返ってくるから気をつけたほうがいい。 誰にもぶつけることができない鬱憤を抱え込んだ私は、エスカ君の置き土産である付箋をゴミよろしく握りつぶし、せめてもの仕返しとして彼の机に「馬鹿」と書きなぐったどピンクの付箋を貼りつけておいた。 |