「はあ……」

つい溜息が口からこぼれてしまうのは、仕方のないことだ。
みさこはそう思っている。
人が聞いたらなんて後ろ向きな根暗だと鼻で笑いそうだが、みさことて溜息をつきたくてついているわけではない。数日前までは、一日たてば嫌なことは八割方忘れるという大変におめでたい性格の持ち主だったのだ。清く正しく美しく、とまではいかないものの、毎日のほほんと、それなりに平和な学生生活をおくっていた。それなのに、突如としてその平和は奪われるこになった。
バダップ・スリード。
彼がみさこのすべてを奪った男だ。
なんとも誤解を招きそうな表現であるが「彼は私のすべてを奪っていったの」といった心ときめくラブロマンス的意味合いは全くない。
奪われたのは燃えるような乙女心ではなく、心の平穏と身の安全なのだ。
みさこはがくん、と自室の机に突っ伏した。丸くなった背中からはしおれた草のような哀愁が漂っている。

「最近駄目だ。私は疫病神に取り憑かれてるんだ」

潤いのない声がみさこの部屋に木霊する。疲れをたっぷり含んだ声音は痛々しく、以前の彼女からは考えられないほどに憔悴しきっていた。


ウィリー・ウィリー


すべての発端は、先日の勘違い逃亡劇にある。うっかりバダップの弱点らしきものを知ってしまったみさこは、その後彼によって監視されることになっていた。監視と言っても四六時中見張られているわけではなく、二回ほど「今はなにをしている」といういかにも見張ってるっぽいメールが入った程度だ。
それならばいいじゃないかと思うかもしれないが、みさこにとっては多大なるストレスである。
何しろ相手は学園の王。軍人養成学校が諸手を挙げて褒めそやす神童だ。戦闘能力は折り紙付。まさに平穏の対義語のようなおっかない人物なのである。平和をこよなく愛するみさこにとって、視界に入れるのも恐ろしい。
そんな恐怖の塊に、己の個人情報をあますところなく吐かされて、なおかつ端末の番号もばっちり知られてしまった。
逃がさないと、暗に言っているのだろう。もしもうっかり口を滑らせたものなら、すぐさまかけつてけこの世から葬り去ってやるとにらみを利かせているのだ。後々になってその答えに行き着いたみさこは、三秒ほど意識を手放すことになった。
さらに恐ろしいことに、なぜかみさこの端末にもバダップの番号が登録されている。
なんでも「緊急事態に備える」らしい。
みさことしてはバダップの存在がすでにかなりの緊急事態なので丁重にお断りしたかった。正直こっちは登録しなくても何の支障もないのでは……と思ったのだが、微かにに芽生えた疑問をすぐさま摘み取って捨てた。
バダップの表情がひどく切羽詰まったものだったのだ。そのオーラたるや、首を横に振った瞬間ポキっと折られるのではないかというほどに、筆舌尽くし難い重圧が滲み出ていた。すでに軽く二、三人始末してきたような形相だったのである。

縦は許されても、横は決して許されない。

そんな決意を高々と掲げながら、みさこは首を縦に振ることだけに努めた。
口は災いのもと。余計なことは言わないに限る。

こうしてみさこの端末には、バダップ・スリードの名が刻まれた。
それからというもののみさこは気が気じゃない。何度も言うが、何しろ相手は戦闘の神。血気盛んな軍人の卵を統括する、光り輝く金の卵様なのだ。きっと気の短さも群を抜いて金ぴかに違いない。
バダップにそんな印象を抱いているみさこは、端末が震えるたびに死の宣告が下されるのではないかとハラハラしていた。
今日で五日目だがそろそろ神経がすり切れそうだ。
今は寮の自室で休んでいるものの、心は常にフル稼働。休まることはほとんどない。
こういう時に相談できる級友がいればいいのだが、残念なことに友達はいない。今まで訥々と愚痴をこぼしてきた虫たちもバダップの圧力に怯えているのか、まるでみさこを避けるようにして姿をくらましてしまったのだ。
ああ、無情……。
みさこは今一度大きな溜息をつこうと息を吸う。

すると、突如として机上の端末が震えた。ぎくりと身体が強張る。

(メ、メール……!?)

もう夜も遅い。まさかこんな時間まで監視の手が伸びるわけもないと思うのだが、油断はできない。世界は無情に出来ていて、人生は何が起こるかわならないのだ。バダップのおかけでみさこにはそんな哲学的思想が芽生えつつあった。
机上で忙しなく身を震わせる物体がパンドラの箱に見えてならないが、ほかっておくわけにもいくまい。みさこは恐る恐る画面を見た。


着信 バダップ・スリード


「ちゃく……し、ん……?」

かすれ切った声はもはや音に近い。みさこはのどの奥でかすかにうめいた。
脳が正しく機能していれば、今起こっているのはメールなどという生優しい事態ではない。着信だ。電話だ。緊急事態だ。遠く離れていても声と声でコミュニケーションを図れてしまう、何とも便利すぎるあの電話がかかってきている。
誰だ電話なんて恐ろしいものをつくったのは!みさこは思いの限り叫んだ。今だけは文明の利器が心底恨めしい。
こうなったらと、意図的な気絶を目論んだがそんな繊細な神経は持ち合わせていなかった。

(どどどどどどようしよう……!!!)

とりあえず部屋を三週ほどしてみたが、机の角に足をぶつけて終わった。痛いだけでなんの解決にもならない。不測の事態に脳が仕事を放棄し始めるが、電話は「早く出ないとどうなるかわかっているのか」と言わんばかりに振動を続けている。

出るのも怖いが、出なかったあとのほうがもっと怖い。

「…………か、神よ」

みさこは都合のいい時にだけ姿を見せる己の主に祈った。それはそれは、一生懸命祈った。そしてなおもしつこく震え続ける端末の通話ボタンをそっと押した。

『……出るのが遅いぞ』

開口一番に飛んできたお叱りにみさこは十字を切る。神様仏様お奉行様どうかお助けくださいと、ところかまわず拝み倒して救いを求めた。

「す、すみませんでした」

心の中で呪文を唱えながら、なんとかそれだけ口にする。
みさこは全身に冷や汗がしたたり、手が小刻みにふるえるのを感じていた。
一体何の用なのか、この身に何が起こるのか。悪い想像ばかりが頭に貼り付いて離れない。
しばし二人の間には重い沈黙がのさばっていたが、やがてバダップが口を開く。
低くなりきっていない青少年特有の声がみさこの耳朶を打った。

『何をしていた』
「えっ、な、何をですか……?」
『ああ。……今は、何をしている』
「え、ええっと」

みさこは言葉に詰まった。
こんな夜遅くに電話をかけてきたと思ったら、何をしていたか、だなんて。
今まで似たようなメールを受けたことはあったが、まさか電話をかけてまで聞かれるとは思ってもみなかった。

「今は、机に向かってました」
『他には』
「え、他ですか?」
『ああ。まさかただ机に向かっているわけでもないだろう』
「いや、あの、その……課題をちょっと」

まさかあなたの存在を憂いてましたなどと言えるはずもなく、課題に取り組んでいた事実を捏造した。課題がでていること事態は間違っていないので、これくらいの嘘は許されるだろう。純然たる正当防衛だ。

『レポートか』
「はい。期限が今週中なので」
『そうか。はかどってるのか?』
「えっと、それなりには……」
『ずいぶん歯切れが悪ようだが』
「あ、えっと、正直ちょっと手間取ってるところもありまして」
『なんの科目だ』
「あ、はい。生物学の人体構造の分野です」
『……どこがわからないか言え。教えてやる』
「えっ!?」

個人情報だけでは飽き足らず、この人は私の学力までをも把握しようとしているのだろうか。
みさこはさらに戸惑い、変な答えに行き着いてしまった。
それもしかたがない。教えてやるだなんて、そんな展開誰が予想しただろうか。
ぽかんと魂を飛ばしていると、催促の声がかかる。
みさこはかなり混乱していたが、実際にわからないところがあったので素直にバダップに質問した。
一瞬考えるような沈黙の後、ギシッと椅子が軋む音が聞こえた。どうやら背もたれに身を預けたらしい。
みさこは奇妙な心地がしていた。
バダップとて人間だ。ご飯も食べれば椅子にも座る。だが、今まで恐怖が服を着て歩いているとしか認識していなかったので、人間臭い仕草はなんだか違和感を持ってしまうのだ。
なんとも失礼な感想を抱いていると、バダップが口を開いた。

電話口から返ってきたのは、丁寧で噛み砕いた回答だった。みさこは舌を巻く。頭が良いとはわかっていたが、こうもすぐわかりやすい説明ができるには知識を超えた相当の理解が必要だ。
あまりに的確な教え方に、ついもう二つほど質問してしまった。バダップは気分を害する様子もなく、むしろどこか乗り気な様子でみさこの質問に答えてくれる。
下手をしたら教官よりもわかりやすいのではないか。さすがは神童、と始めてバダップに良い印象を抱いた。
ゆっくりと話してくれている間に、いそいそと筆を走らせた。

「ありがとうございます。助かりました」
『…………別に、いい』

気にするな。
威張るでも何かを催促するでもなく。バダップは静かにそう言った。
緩やかに流れていく会話にみさこは少しだけ肩の力を抜いていた。意図は全くもって不明だが、もしかしたらバダップは怖いだけの人物ではないのかむしれない。そんな思いが小さく芽吹く。

「すごくわかりやすかったです。本当に助かりました」

お礼の言葉は心からでたもので、穏やかな声音がやわらかい色を帯びて電波に乗っていく。角を一切感じられないないまん丸な響きに、電話の向こうからはっと息を呑むようなかすかな息づかいが感じられた。直後、ガタンと大きな音が聞こえてた。明らかに何かに衝突した音である。
派手にやらかしたであろう音に、さすがのみさこも心配になった。

「大丈夫で――」
『――あ、明日の連絡をする。一度しか言わないから忘れるな』

だが、突如話し始めたバダップに遮られてしまった。ついでに思考もぶった切られる。明日?連絡?忘れるな?頭に浮かぶワードがうまく結びつかない。
なんだか話の方向が怪しいことだけは理解したが、みさこに遮る権限はなかった。

『明日の昼は……空けておけ。いいな』
「……え?」
『え、じゃない。そういうことだ』

どういうことだ。
話の流れが全くつかめない。いつからそんな会話になっていたのだろうと首をひねってみた。しかし謎は深まるばかりだ。控えめに説明を求めてみるも、補足されることはなかった。手元にあるのはようやく組み立て終わった事実のみ。明日バダップと昼に落ちあわなくてはならないという、末恐ろしい現実だけだ。
悪い夢なら覚めてくれ。
いくらなんでも突然すぎる命令に、バダップを心配していた気持ちが何処かへ飛んでいく。見直したことも、もしかしたら怖いだけでは以下略な思いも、全てが儚い夢のように消えていく。それに代わって成りを潜めていた恐怖と焦りが戻ってきて、みさこは再び震えあがった。

『授業が終わったらそっちに行く。わかったな』
「えええっ!?あ、あの、待ってください」
『なんだ』
「急にどうなさったんですか?」
『…………』
「い、いえっ!お昼、と申しますと、普段私は昼食を食べる時間に当てておりましてございましてですね、おっ、お察しするにバダップ様も同様にお昼御飯なるものをお召しあそばされているのではと存じ上げるのですが、そんな時間に……い、一体、何をなさるのでございましょうかなんて気になったりならなかったりしている所存にございまして……!」

みさこはおかしな過剰敬語でひたすらまくし立てた。
沈黙とは偉大なもので、怒るよりもはるかに恐怖心をあおられる。今ごろ電話の向うでは、阿修羅の如く怒りに打ち震えたバダップがいるのだろうという想像もいたずらに膨らんでいく。
くどいようだが、相手は金の卵様。気の短さも、きんきら輝いているに違いない。
みさこは肝が冷えるどころか瞬間冷凍された心地になった。背筋に大量の汗をほとばしらせながらバダップのお言葉を待っていると、なんともドスの利いた声で返事が帰ってきた。

『……作戦会議だ』
「作戦会議!?」

この人は一体何のミッションをやろうとしているのだろう。第一に浮かんでくるのはそんな疑問だが、端末越しに聞こえる声はなぜだか思い詰めたように切迫していた。そんな雰囲気を敏感に感じ取った小心者のみさこに、これ以上口を挟むことなど到底できるるわけがない。それこそ命の保証がない。
結局、わけのわからないまま、蚊の鳴くような声で「はい……」と返事をすることだけで精いっぱいだった。

電話が切れたのち、雪崩のように疲れが襲ってきてみさこは初めと同様にそれはそれは大きなため息をついた。
干からびた切ない響きをもったそれは、月夜に吸い込まれて消えていく。

失われた平和は、当分返ってきそうにない。



バダップが言いたかったこと:明日のお昼は一緒に食べよう

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