大理石の床を打つ音がする。
 みさこが慌ただしく廊下を走っていた。
 つき当たりにある階段を勢いに任せて登れば、それに比例して心拍数がぐっと跳ね上がった。しかし、みさこは速度を緩めない。
 はあはあと浅い呼吸をくり返しながらも、また一歩と足を前に出した。

 そうまでしてみさこが慌てている理由とは。
 テラスにうっかり置きっぱなしにしてしまった電子端末にあった。

 この時代、書物なるもののほとんどが電子化の流れに呑まれるようにしてデジタル化され、紙媒体を見かけることは少なくなりつつあった。教育現場も例外なく、その煽りを食らったことにより、生徒に配られるテキストは個人が所有する端末にてデータとして配布される仕組みとなっている。
 電子化の流れはそれだけではない。配布物から質疑応答、レポートに至るまでも、学内のオフライン上でやり取りされるようになった。そこへアクセスする手段として、今や端末は欠かせないものとなりつつある。
 紙に一枚一枚印刷し、一人一人に配っていた昔を思えば、とても便利な機器が登場したものだろう。いい時代になったのだ。常々みさこはそう思っていた。
 だが、いい面ばかりではないことを、今、これでもかというほど痛感させられている。

 ひとつに集約されているということは、裏返せば、端末を無くした場合一瞬にして全てを失うということだ。
 ごっそりとテキストが消えてしまえば、明日からの授業に支障をきたすことは明らかだ。今まで蓄えてきた板書という苦労のたまものは塵になり、せっかく作成したレポートも無に帰す。そうなれば単位を落としかねない。結果、押されるのは「留年」という耐えがたい烙印だ。そんなのは、困る……!
 みさこが焦っているのはそういうわけだ。

「なくなってませんように……」

 一息に階段を登り終えてしまうと、弾む息を整えることもせずに、転がり込むような勢いでテラスに入った。
 夕方なせいか人影はない。がらんとした室内はひっそりと息を潜めていた。
 肩を上下させながらみさこは視線を巡らせる。――端末はあるだろうか。盗られていたらどうしよう。あれ高かったのに……。失くしたって言ったら、お母さん、怒るだろうなぁ。とめまぐるしく頭が回りだす。
 しかし、ある一点を目にした瞬間、視線も思考も縫い止められてしまった。
 誰もいないはずのテラス。机や椅子だけが疲れたように佇み、生徒はとっくに帰宅しているだろうと思っていた。
 だが、奥まった場所にある二人掛けのテーブルに、ぽつりと生徒が一人いた。

 先程までの焦燥感がねこそぎすくい出され、ぽいっと捨てられてしまったかのように、ただただ呆然と立ち尽くしてしまう。そこにいた存在に、とても驚かされたのだ。


爪先立ちの世界


(ミストレーネ・カルスだ……!)

 みさこは胸中で咆哮した。
 優雅に腰をかけていたのは、この学園――いや、この学園の女子という方が正しいだろう――において、絶対的な地位を確立している有名人だった。みさこのような平凡な人間にとっては、一切の接点すら持たぬであろうと確信できる、そんなすごい人物。それがミストレーネ・カルスだった。
 あまりに唐突すぎる出会いに、幻では、とつい疑いをかけてしまう。

「君、もしかして、これを取りにきたのかな?」

 しかし、清涼な声がみさこの疑念を払拭する。
 変な妄想をしてしまった後ろめたさに、思わず姿勢を正してかしこまってしまった。が、すぐにミストレが手にしていた黒く四角い機械に気付く。
 ――電子端末!

「あ、それ!」
「やっぱり君のなんだ」
「うん。私の。よかった、探してたの!」
「意外だな。てっきりいかつい男が忘れてったのかと思ったよ」
「え?」

 みさこは首を捻った。

 けれども艶やかに笑う少年はそれ以上語らず、緩慢な動作で立ち上がると、みさこのもとへ歩いてくる。流れるような動作に溜息が出そうになった。見目麗しいと評判の彼だが、動作の一つ一つからあふれ出るしなやかさが、清廉さをより確かなものにしているのだろう。まあ、学園の女子の言葉を借りるのなら、「全てが素敵!」と言ったところか。みさこは、気がつけばぼうっと意識を奪われていた。
 地面に足が貼り付いてしまったように動けないでいると、新書ほどのうすっぺらい端末が差し出される。

「はい」
「あ、ど、どうもありがとう……」

 みさこはようやく我に返った。
 とたんに雪崩のような恥ずかしさが襲ってくる。
 慌てて端末を受け取り、胸に抱え込んだ。
 ――じっと見るなんて、すごく失礼だ。それに、拾ってもらったのに一歩も動かずに持ってこさせるなんて、非常識な奴って思われたかもしれない。
 あわあわとみっともなくうろたえてしまった。望んでもいないのに顔に熱が集まって来る。
 謝らなくては……。失礼を詫びて、もう一度改めてお礼を言わなくては。そんな思いから、かくんと頭を垂れた。

「持ってこさせちゃってごめんなさい。あ、あと、拾ってくれてありがとうございました」

 綺麗に磨かれた黒いブーツが目に留まる。なんだかそれすら高貴さをまとっているように見えてしまって、みさこはさらに委縮した。
 どうも、強く輝く人物は苦手だ。
 みさこは心の中でそっと呟いた。平凡に平凡を重ねたような平べったい道を歩み続けてきたみさこにとって、目の前の人物は雲の上の住人である。夜空に輝く星のように、とても遠い存在。それがまさか、急に目の前にぱっと湧いて出てくるなんて。星は遠いから綺麗に見えるのであって、近くに来られると眩しすぎて目がくらむ。
 正直どう接していいのかわからなかった。
 変に緊張しているせいか、手がじっとりと汗ばむ。

「俺は机の上に置いてあったのを持ってただけだから、そんなにかしこまらなくていいよ」

 あはは、と軽快に笑う声が頭上に降ってきて、みさこは違和感を覚える。感情に流されるままそっと顔を上げた。
 今まで遠目から眺めていた、ぞっとするような艶美な微笑みとは違う、溌剌とした笑顔がそこにはあった。つい首をかしげそうになる。なんだか抱いていたイメージと随分違うのだが。
 先ほど失礼だと反省したことを忘れ、しげしげと見つめてしまう。
 彼はみさこの態度に気分を害した様子はないようだ。むしろ、海色の双眸がみさこの瞳を覗き込んできた。

「きみ、名前は?」

 みさこはたっぷり三十秒ほど黙りこくった。

「え……?」
「え?じゃなくて、きみの名前を教えて欲しいんだけどな」

 時間を取った割について出た言葉の何とお粗末なことか。相手もさすがに思うところがあるようで、形のいい唇が不満そうに尖る。

「な、名前……?なんで?」

 失礼を忘れてみさこはなおも問いかける。
 ――どうして彼みたいな人が私の名前なんて知りたがるんだろう。そんな疑問で頭がいっぱいになっていたのだ。
 彼からしてみれば、まさかそんな返答が返って来るとは思ってもみなかったのだろう。困ったように眉を寄せると「知りたいからに決まってるだろ」とにべもない答えが返って来た。それ以外に何があるんだ、と言いたげな視線のおまけ付きだ。
 だがみさこは、知りたいという理由にこそ混乱してしまう。何かお礼をしてもらおうと考えているなら理解できるのだが(実際に見返りを求められても困るのだけれども)ただ「知りたい」とは。
 端的でストレートな言葉ほどいらぬ憶測を招いてしまうものだ。
 みさこはなんだかそわそわと落ちつかない心地になっていた。
 こちらの心境を知ってか知らずか、相手は引くつもりがないらしい。呆れられた手前、そのまま立ち去ってもいいはずなのに、じっと返答を待っている。それがさらにみさこを深い迷宮へ突き落とす。
 特大のはてなマークが頭上に浮かんでいるんじゃないか。そう思えるほどにみさこは混乱した。

 しかし、すぐに一人歩きする思考を抑えにかかる。
 目の前の麗人にとっては、人の名前を聞くことに深い意味はないのだろう。「知りたい」というのも、「ただの気まぐれ」に近いニュアンスを含んでいるに違いない。
 どうもいけない。予想外の登場人物に、頭がおかしくなってしまったらしい。
 みさこは胸中でそう結論付けた。

「森みさこ、だけど……」
「みさこか。可愛い名前だね」
「どうも……」
「俺はミストレーネ・カルスっていうんだけど、知ってるかな?」
「知ってるよ。有名人だから。カルス君、確かC組だよね」
「名字で呼ばれるのはあまり好きじゃないんだ。ミストレって呼んで欲しい」
「ミ、ミストレ君?」
「そうそう。ミストレでもいいんだけど」
「いや、ミストレ君にする」
「そう?俺はみさこって呼ぶよ」
「はあ……」

 なんだろう。この会話。
 みさこはとんとんと進んでいくやり取りに驚いていた。
 学園の女の子達を虜にして止まない、麗しの好青年が、どうして自分とこんな会話を繰り広げているんだろう、と今の状況にものすごい違和感を覚えずにはいられなかった。
 気まぐれから、ただ、からかわれているのかもしれない。それとも、もしかしたら女の子の名前は一人残らず頭に入れておきたいタチなんだろうか。
 ミストレはくっきりとした海色の瞳を細めて、ぼけっと立ち尽くしているみさこをどこか楽しそうに見た。
 ほの青い海にはみさこの姿が頼りなく映り込んでいる。

「みさこは軍事心理学好きなの?」
「は……?」

 みさこの瞳が満月よりも丸くなる。

「面白い顔するね」

 ククッと笑われてはっとする。悪意はないんだろうが、なかなか失礼だ。羞恥から顔が熱くなった。

「軍事心理学は、好きだけど……それが何?」

 少し刺の生えた物言いだった。それはミストレに「面白い顔」と言われたからだったが、もうひとつ理由がある。
 ――軍事心理学。
 みさこは確かにその科目が好きだった。授業とは別に書籍を紐解いて読むくらいには興味を持っている分野である。だが、どうしてそれをミストレが知ってるのだろうか。
 しかし、そんなみさこの疑問は、なんともあっさり解決することになる。

「端末に読みかけの本があったから、少し読ませてもらってたんだ」
「……あ」
「ごめんね。興味深い内容だったからつい。実を言うと軍事心理学にはあまり興味ないんだけど、その本は面白そうだった。けっこうどぎつい内容だったけど」

 呆気ない事実にみさこは脱力する。そういえば、本を読みかけのまま置いていった気がする。と今さらながらに思い出す。さらに記憶を整理すれば、テラスに足を踏み入れた時、ミストレは彼女の端末を手にしていた。それに、きちんとヒントになる言葉も投げかけられていたではないか。「いかつい男が忘れていった思った」と。それは恐らくどぎついと評した、みさこが読みかけていた本を目にしたからなのだろう。
 何で気付かないんだ自分。
 みさこは無性に項垂れたくなった。

「ねえ。その本俺も読んでみたい」
「えっ、これを?」
「ああ。書誌情報教えてよ。みさこが来てすぐに返しちゃったから控えてないんだ」

 ミストレがせっつくようにポケットサイズのタブレットを取りだす。
 まるでおもちゃを買ってもらってはしゃぐ子供のような幼さがあった。
 実に楽しそうな表情に、みさこは再び驚かされた。彼女の中のミストレーネ・カルスという男は、蝶のように舞い蜂のように刺す、妖美な雰囲気をまとった優等生なのだ。
 頭の中の印象と目の前で楽しそうにはしゃいでいるギャップに、今度こそ首をひねってしまう。
 しかしそれとは別に少し嬉しくなった。
 誰でも自分の好きなことに興味を持ってもらえると喜びたくなるものだ。自然とみさこも笑顔になる。

「この本、おすすめだよ。ドキュメンタリーだから、ちょっと生々しいけど、それでも面白い」
「講義で習う内容とは違った切り口だったよね。理論ばっかり習ってたから実体験ってのは新鮮だった」
「そうなの!少し昔の本だけど、実際に戦地に赴いたことのある軍医の体験がつまってて、授業で習うものとは全然違うんだよね!読むと、臨場感っていうか、場の空気がひしひしと伝わってくるんだよ」

 熱弁をふるってしまうのは、軍人気質からくるものだろう。
 まるでディスカッションをしている時のように息を弾ませていた自分に気付き、みさこは慌てた。今日は一体何回顔を赤くしているのだろうか。つい馬鹿げた疑問が浮かんだ。

「ご、ごめん!書誌情報だったよね――」
「どうして謝るの?嬉しそうに話してるみさこを見てると、俺は楽しいよ」

 みさこは驚きのあまり、表情をつくろうとして失敗した。どういう顔をすればよいのか、よくわからなかったのだ。
 答えを得られるわけがないのだがついミストレを仰ぎ見てしまう。
 そこには、一瞬にして女子の心をとろけさせてしまう、華やかな笑みがあった。

「……えっと、書誌情報だよね」

 ともすれば勘違いをしてしまいそうな発言に内心かなり戸惑ったが、みさこは何も考えないことにした。
 ――この人は自分とは住む世界が違うのだから、おそらく文化も違うのだろう。そんな強引とも思える結論を出す。もしかしたらイタリアあたりの血が混じっていて、女の子を喜ばせるのは当たり前、声をかけなきゃ失礼に値するじゃないか!といった性格をしているのかもしれない。きっとそうだ。だから学園の女の子が伝染病にかかったみたいに熱を上げているに違いない。
 みさこはそこで思考を終わらせた。
 ミストレは一瞬肩すかしをくらったように目を見開いたが、すぐ苦笑に変わる。

「タイトルと著者名、あと出版社を教えればいいかな?」
「出来ればデータで欲しいな。入力する手間が省ける」
「あ、ああ……そっか。わかった。データ送るよ」
「ありがとう」
 
 みさこはミストレのタブレットの識別子を聞いて早々に作業を終わらせた。
 画面に送信完了の文字が浮かび上がる。

「ありがとう」

 ミストレは得意げに端末を何回か振って、もう一度礼を述べる。やはりそこには溌剌とした笑顔があった。みさこの中の人物像とはちょっと違う、子供っぽいものだ。
 
 夕闇が迫ってくる。
 じきに夜の帳が降りるだろう。
 暗くなる前に帰らないと寮母さんの小言が飛んでくる。それを考えると、そろそろここを出るべきだ。
 みさこはミストレに頭を下げた。

「端末、見つけてくれてありがとう。私そろそろ帰るね」

 ぱっと頭を上げた。
 反動で髪が元気に揺れる。跳ね損なったひと房がたらりと頬にかかって視界を阻んだ。少し欝陶しい。
 そろそろ髪を切ろうか。そう思っていると――
 かつ、と石床が鳴る。
 少し間をおいて、伸びてきた白い指が、みさこの流れ落ちたひと房をからめ取った。そのまま優しく耳をなぞるようにして髪をかけられる。

「本、読み終わったら、感想送ってもいいかな?」

 テラスが陽光を受けて、幻想的な朱色の世界を作り上げていた。
 みさこは夢を見ているのだと思った。
 だって、信じられない。あまりに非現実的すぎる。
 頭がぼうっと霞がかる中、夢見心地で目の前の人物を見上げた。
 海色の瞳があった。深い深い水底まで引きずり込まれそうな青い色だ。今はその双眸が緩やかな孤を描いている。
 笑っているのだ。
 ミストレが、どこか熱っぽさを感じさせる笑みを浮かべていたのだ。
 不意に、ぞわりと背筋が粟立った。感情の泉に手を突っ込まれたみたいに心臓が早鐘を打つ。
 ――居心地が、悪い。
 唐突にそんな感情が芽生える。
 目の前にいる人物も、今の状況も、橙色のペンキで塗られたようなこのテラスも、何もかもがみさこの現実と遠い気がして、落ち着かない。心がざわざわと震えた。やっぱり彼は空に輝く星だ。近すぎると眩しすぎて落ち着かない。地上から眺めるのが適度な距離なのだ。
 はやく帰ろう。
 いつもの世界へ戻っていこう。
 そう、強く思った。

「わ、私はこれで」

 みさこは逃げるようにテラスから走り去った。
 名前を呼ばれたような気がするが、振り返ることはしない。
 ただどくどくと唸っている心臓に呼応するように、ひたすら寮まで走った。


title:ジャベリン

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