バダップの姿を認識した瞬間、みさこは引き千切れそうな勢いでカーテンを引いた。
 そして息つく暇もなくベッドに足をかけた。
 凄まじい速さで閉まったカーテンに面食らっていたバダップだが、みさこが逃走を図ろうとしていることに気付くと慌てた。
 またしても女の城(女子トイレ)に逃げ込まれたら手が出せなくなるのだ。

「待て!」
「ぎゃっ!」

 カーテンを開けみさこの服をすんでのところで掴むと、逃げられない様そのままベッドへ引き倒す。少し手荒な行為に鉄製のベッドがギシリと悲鳴を上げたが、それを無視してのしかかるように体重をかけた。肩を押さえつければ、触れた身体がびくんと跳ねる。
 完璧なまでにねじ伏せられ、驚愕しているみさこを見下ろして、バダップは満足そうに口角を上げた。


ジーザス!


「ようやく捕まえたぞ」

 薬品臭い場所には似合わない朗々とした声が響く。
 バダップは、自分の描いていた通りに事が運んだことに大変な満足感を覚えていた。
 みさこの性格を分析した結果、迷うことなく一目散に逃げ出したところから、かなりの小心者であるという推論に至った。気の小さい者は不安な状態に置かれ続けることに耐え切れないという。必ずといっていい程それから逃れようと消極的アクションを起こすのだ。今回もそれと同様である考えたバダップは、ミストレを使って彼の許へ連れて行かれるという恐怖を植え付けた。バダップは自身が畏怖の対象であることをしっかりと自覚している。
 鮮明すぎる手がかりに恐怖したみさこは、案の定いてもたってもいられなくなりすぐに学校を出たいと考えた。しかし小心者が無断で学園を抜け出すとは考えにくい。王牙学園は規律を重んじるのだ。
 そうなると一番確率が高いのは早退だ。この学校のシステムを熟知している彼は、早退までに時間がかかることなどすでに頭に入っている。それを踏まえた上で、みさこが噂を耳にし保健室へ行くであろう時間帯、早退が許可される頃合いを予測し、見事にぴったりと当てて見せたのだった。昨日してやられたお返しを、ようやく成し遂げることができた。
 それゆえに得た満足感は大きかった。

「随分とてこずらせてくれる」

 バダップはベッドに押さえつけているみさこを見下ろしながら呟く。
 そんなバダップの心境を知らないみさこは全身から冷や汗が吹き出すのを感じていた。やばい。笑ってる。なんかすごい楽しそうに笑ってる。も、もしかして私を八つ裂きにする方法を考えて喜んでるんじゃ……!?と被害妄想に取りつかれた。がくがくと体が震え始めた。

 みさこの変化に気づいたバダップは、緋色の瞳で彼女を見下ろす。
 血の気の引いた顔でわたわたと取り乱す様は彼の予想通り小心者のそれで、押さえつけている身体は少し力を加えてしまえば折れてしまいそうに華奢だ。そんな、どこかか弱さすら感じるみさこを見てバダップは口をへの字に曲げた。
 自分はこのような小娘に翻弄されていたのか、と生まれて初めてふて腐れたくなった。

「名を名乗れ」
「ぐ…」
「三つ数えるうちに答えろ。さもなくば――」
「や、山田花子です……」
「首の骨をへし折られたいらしいな」
「ひえっ、森みさこです!」

 みさこのベタすぎる嘘を看破したバダップは、さて、と思考を巡らせる。捕獲作戦は成功した。次はどうやって秘密を守らせるかだった。力で押さえつけ、恐怖をもって屈服させるのは簡単だ。ただ相手に痛みを与えて心を挫けばいいのだから。だが過去にいくつもの恐怖政治が陥落してきたように、恐れによる支配はいずれ痛い形で自身に帰ってくるものだ。それに何より、小娘をいたぶる趣味はない。昨日はみさこに怒りを抱いたりもしたが、瞳に溢れんばかりの涙をためて見上げられたら、怒る気も失せてくるというものだ。今ここは、戦場じゃない。
 だとしたらどうすれば。バダップは考えていた。いたぶりはしないが、口約束などで済ますつもりは毛頭ない。
 さらりと前髪を揺らし、バダップは涙で濡れた黒い瞳を覗きこんだ。

 しばし、沈黙が流れる。

「……す、すいません!ごめんなさい!昨日は…本当に失礼なことをしてしまって!」

 突如みさこが堰を切ったかのようにしゃべりだした。逃げられないと分かった以上、さっさと白旗を上げようと考えたのだ。
 
「私……わたし、ま、まさかバダップ様が虫嫌いだなんて知らなくて――」
「な、」
「本当にごめんなさい!嫌いな虫を、あの、髪の毛にくっつけてしまって……」
「お前……!」

 バダップはぎょっとした。今はこちらが圧倒的優位に立っている状態だ。それなのに、どこで誰が聞いているか分からない状況で、まさか自分の弱点をみさこがペラペラと話してのけるとは思わなかったのだ。
 寝ても覚めても戦闘のことを考えているせいか、バダップは完全なる軍事脳だった。それゆえみさこが彼の虫嫌いを弱点だと認識していると信じて疑うことはなく、自分が劣勢なのもいとわずバダップにもの申したと思っていた。
 こいつ、侮れない。
 バダップは歯噛みした。
 殊勝な態度を取ってはいるが、オレの弱点をきちんと認識し脅しにかかってきた。危なかった。このまま無害だと判断しておめおめと逃がしていたら何をしでかしていたかわからない。と、なんともはた迷惑な勘違いをしていた。

「お前、オレを脅しているのか」
「へ?」
「いい度胸だ」
「え、え?あの……?」
「お前を屈服させることなど、今のオレにとっていとも容易いいうことをわかっているのか?」
「く、屈服!?」

 みさこは悲鳴にも似た声をあげた。
 ちょ、ちょっと待ってくれ。話の方向がおかしくないか。昨日の非礼を心から詫びていたはずなのに、脅すだとか屈服だとかなんとも物騒な言葉が聞こえてきたような気がする、と青を通り越して画面蒼白になった。しかし思い込みと勘違いで走り出したバダップの勢いは止まらなかった。
 今まで常に人の上に立つという輝かしい人生を歩んできたバダップは、昨日の出来事は人生で五本の指に入るほどの衝撃だった。弱みを握られたうえ逃げられただけでなく、変質者、というとんでもない不名誉な立場に危うく置かれそうになったのだ。その時の光景を思い出すと、今でも肝が冷える。
昨日やり込められた相手に宣戦布告されたという事実(あくまでバダップの視点)は彼の闘争本能に小さな炎をともしていた。

「オレはそんなちゃちな脅迫になど屈しはしない」

 ぐ、とみさこを押さえつける力が強くなった。バダップがのしかかるように圧迫してきたのだ。
 端整な顔が間近に迫ってきて一瞬みさこは頬を染めたが、すぐにときめく乙女心をかなぐり捨てた。今はそんな場合じゃない。

――なんかこの人とんでもない勘違いしてる!だ、誰か!
 
 みさこが声にならない悲鳴をあげた時、保健室の扉が開く音がした。

「バダップ……?」

 透き通るようなボーイソプラノの声。小鳥がさえずるように澄んだ声音の持ち主はミストレだった。
 ミストレは可憐な女生徒を連れていたが、その存在を忘れるほどに驚いていた。目を見開き口をあんぐりと開けているのだ。いつもうるさい程に外見を気にしているミストレにしては珍しい、見事なポカン顔だった。

「えーっと、お取り込み中だったかな?」
「見ればわかるだろう」

 いつも自信に満ち溢れているミストレにしてはどこか戸惑ったような声だった。それを不思議に思いつつも、雪辱を果たさんとしていたバダップは邪魔が入ったことに苛立ちを覚え、険しい視線でミストレを見やる。
 だが、ミストレの言葉を受けてそんな思いは弾け飛ぶ。

「……バダップ、恋は素敵なものだと思うよ。恋なくして人類の繁栄はなかったからね。人生の醍醐味だといっていい。でも、いくら忘れられないほど焦がれた相手だからといって、いきなり襲いかかるのは男としてどうなのかな」
「な――」
「物事には順序ってものがある」

 ミストレの後ろにいた女生徒が恥ずかしそうに頬を染める。
 それが決定打となった。
 バダップはうろたえた。四六時中軍事のことしか考えていなかったので、ターゲット捕獲成功、ミッション完了だ、としか思っていなかったが、傍から見ればバダップがいたいけな女生徒を組み敷いているのだ。しかも場所は保健室。更に言えばベッドの上だ。そしてみさこは半泣き。健全な要素がなにひとつとして見当たらなかった。
 彼の下でぐすっと鼻を鳴らす音が、その事実を突き付けてきた。バダップは慌ててみさこの上から飛び退く。危うくベッドから落ちかけた。
 これはただの尋問だと弁明することも出来るが、この状況では口を開けば開くほど、言い逃れをするのかこの男は、と顰蹙を買うだけだろう。現にミストレは呆れたような視線を寄こしていた。だがしかし、バダップはそこまで頭が回っていなかった。
 軍事的方面において誰をも圧倒する不世出の鬼才だが、色恋沙汰についてはからっきしだった。
 生まれてこの方、戦闘だ戦術だという世界で生きてきた彼もまた、重度の軍事オタクと言って差し支えない。完璧なまでの戦術フォーメーションに血沸き肉躍ることはあっても、異性との恋の駆け引きに心ときめく経験は無いといっていい。
 バダップは嫌な汗が浮かぶのを感じた。熱がじわりと身体を煽る。
 
「君は見かけによらず、積極的なんだね。突っ走ってるって言った方がいいかな」
「ミストレ、冷静になれ」
「その言葉、そっくりそのまま君に返すよ」
「ご、誤解だ!これは……」

 コイツが、とバダップはみさこを指差した。が、彼が指した先には誰もいない。
 バダップは本日何度目か分からない驚愕の表情を見せる。
 あまりの展開に情報が処理しきれずしばしフリーズしていると、何かが倒れる派手な音がした。弾かれた様に視線をむける。それはみさこが躓いて椅子を蹴倒した音だった。
 いつの間にかベッドからいなくなっていたみさこは保健室の奥へと移動していた。何をしているのかと思えば――

「なっ……待て!」
「ひえ!お、お許しを!お命だけは……!」

 がらりと。窓を開けた。
 そしてそこから飛び出すように逃げ出したのだ。やはり泥棒もびっくりするほどの逃げ足の速さだった。

「逃がすかっ!」

 彼にしては珍しく咆哮した。
 今まで彼を支配していた羞恥が一気に霧散する。バダップは悔しさに顔を歪めた。昨日からの失態の数々に加え、ミストレの言葉に動揺しすぎてせっかく捕まえたみさこを逃がしてしまった。そんな自分の不甲斐なさに苛立ちすら覚えていた。
 大きく舌打ちをすると、呼びとめるミストレの言葉を無視し、バダップは全力でみさこを追った。
 
 昨日から調子を狂わされてばかりだ、とバダップは胸中で毒づいた。かつて教官に鋼の精神と評されたことがあったが、今はそれが見る影もない。うろたえ、悔しさに歯噛みし、全力で一人の少女を追いかけている。
 そういえばこんなにも本気で何かを追いかけるのは初めてだとバダップは思った。何をするにもトップだったことから、今まで彼の前を走る人物などいなかったのだ。

 目の前を走るみさこを見て、バダップの中に悔しさ以外の別の感情が小さく小さく息づいていた。



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