授業を終えたみさこは、寮へ帰りながら今日あったことを思い出していた。
 うっかり鉢合わせしたのは、王牙学園の恐怖の象徴であるバダップだった。彼はこの世の名声を欲しいがままにする優等生であると同時に、残忍さにおいでも抜きんでているところがある。一切の感情を殺し、自分にとって最善の手段と判断したのなら、どんなに残忍な方法でも眉ひとつ動かすことなくやってのける人物なのだ。バダップはミストレとの戦いでその恐怖を生徒に焼きつけていた。
 そんな神をも挫きそうな恐ろしい人物に、自分はなんてことをしたんだ。殺される。間違いなく不敬罪で死刑にされる。みさこは恐怖で肩を震わせた。
 学園の帝王にカマキリをけしかけてしまったのだ。彼を慕うどんな美しい女生徒ですら触れさせてもらえなかったであろう、御髪と称しても差し支えのないそれに、手どころかそこら辺をカサカサと這いまわっている昆虫をくっつけてしまったのだ。
 カマキリが勝手に飛んで行ったといえばその通りなのだが、わなわなと震えだしたバダップを見ればそんなの屁理屈だと一蹴せざるを得なかった。怒りの矛先は間違いなくみさこに向いていたのだ。
 その事実がみさこを恐怖のどん底に突き落とし、思考を奪っただけでなく、彼女の防衛本能に逃げろという警笛を、けたたましいくらいに打ち鳴らせた。人間、本能にはあらがえない。特にそれが命の関することならば。
 みさこは気付いたら全力で逃げ出していた。ほぼ無意識に。
 自分が逃げていることに気づいたのは、待て!というバダップの言葉を聞いてからだった。叫ばれた声は有り余るほどの怒りを含んでおり、恐怖が鮮明なまでに上書き保存された。今更止まることも出来なくなってしまったみさこは、半泣きになりながらひたすら逃げ続けたのだ。
 なんとか女子トイレに逃げ込み、偶然居合わせた女の子が叫んでくれたことにより事なきを得たが、授業が終わった今になって自分のしでかしたことの重大さがのしかかってきた。
 赤く世界を色づける夕日が、みさこの不安を代弁するかのように暗く濃い影を落とした。

「まあ、でも、大丈夫か……あんな凄まじい人が、ミジンコみたいな存在の私をいつまでも気にかけると思えないし。そんな暇もないはず、だよね?」

 あの時は怒ったけど、きっとすぐ忘れてくれる。みさこは無理矢理自分にそう言い聞かせた。

(そう言えばバダップ様は虫が嫌いなのかな?ちょっと意外だなー)

平和を愛する彼女にとって『弱み』という概念は薄い。そのため、対極に位置するバダップがそれを知られることに焦りを感じていることをいまいち理解していなかった。


ジーザス!


 翌朝みさこはケロッとした態度で登校した。一晩寝れば嫌なことは八割方忘れるというおめでたい性格が功を奏し、恐怖に怯える事もなくいつもどおりに教室へやってきた。
 だが、少し騒がしいクラスの雰囲気に疑問を持つ。
 
「ねえ、何かあったの?」

 級友はいないが別にいじめを受けているわけでもないため、クラスメイトとは普通に会話をする。みさこは隣の席の少女に騒がしい理由を訊ねた。

「なんか、ミストレ様があるひとりの女の子を探してるみたいなの」
「え、あのプレイボーイで名高いミストレ様が?」
「そう。びっくりでしょ?ミストレ様が自ら女の子を探すなんて異例の行為だからみんなびっくりしてるのよ」
「ミストレ様ならわざわざ女の子を探さなくても勝手に沸いて出てくるもんね」
「そうそう。なのに、女の子の特徴を言って、似てる子がいたら連れて来て欲しいなんて言ってるの。だから取り巻きが怖いのなんのって……」
「わーすごい世界。一体どんな子なんだろうね?」

 みさこは少し心が高揚していた。他人の恋の噂は学生生活において欠かせないもので、彼女が求めていた青春の一ページに限りなく近い。相手は自分とは到底関わりのないであろう人物だが、普段のおっかない話に比べたら数万倍楽しいのだ。
 しかし、クラスメイトの一言でほころんでいた顔が一瞬にして凍りつく。

「なんか、これは確証がないんだけどね。探してるのはミストレ様なんだけど、どうやらバダップ様が探して欲しいって頼んだらしいの」
「え」
「昨日の夜にミストレ様の取り巻きからその子の情報が広まってね、確か身長が推定で――」

 みさこの笑顔が引きつる。
 バダップという言葉にまさかと嫌な予感を覚えていたが、クラスメイトの口から紡がれていく少女の特徴が、自分と酷似していることによって予感が確信に、そして確信から絶望へと塗り替えられた。

「あと、良くわからないんだけど虫が好きな女の子なんだって」
(――絶対私のことじゃん!)

 極めつけのこの言葉に、みさこはガタリと椅子を蹴倒すほど動揺した。
 捜されている。
 間違いなく自分は、捜索されている。
 指名手配犯になっている。

「そう言えば、森さんって特徴に当てはま――」
「ま、ままさか!バダップ様とかミストレ様が私なんかを……教室の隅で空気と同化してる根暗なんかを探すわけないじゃん!!や、やだなーはははは」

 心臓が狂ったように鼓動を打ち始めるのを感じながら、みさこは倒れた椅子をぎこちない動作で元に戻した。不審がられないようにと頑張って笑ってみるものの、相変わらず笑顔は引きつったままだ。そんなみさこの挙動不審な行動にクラスメイトは奇異の目を向けたが、教官がやってくるといつものようにきりっとした戦闘員の表情へ戻っていった。
 ざわついていた教室もぴりりとした空気に一変し、教室はいつもの雰囲気を取り戻していった。

(ど、どどどうしよう!?)

 だがしかし、みさこはそういうわけにはいかない。
 自分が捜索されているということは、バダップが昨日のことを未だに怒っているのだろうという考えに至っていた。女子の情報網を掌握しているといっていいミストレを使ってきたところから彼の本気が窺える。何としてもみさこをとっ捕まえて断罪したいのだと、そう思えてならなかった。

――捕まったら終わる。人生が。
 
 言い表せない恐怖がみさこを支配していった。
 寒い季節なのにも関わらず大量の汗が吹き出してくる。
 みさこは必死に考えた。どうしたらこの状況を乗り切れるのだろうかと、平和ボケした頭をフル回転させる。

 噂として広まっている特徴は正に彼女を捉えており、ほくろの位置やスカートの丈までぴたりと言い当てられる様だ。なんでそんなところまで、とバダップの記憶力にうすら寒いものを感じながら、とりあえずスカートを二回ほど折り曲げておいた。そして、今日は体調不良を起こして学校を早退し、その足で美容室へ駆けこもうという算段を立てる。
 有難いことに王牙学園はかなりの規模を誇るマンモス校だ。生徒数は軽く千を超える。外見を頼りに捜索しているということは、名前や学年は知られていないということで、それならば少し特徴から外れてしまえば捜索対象から除外され、探し出すのはかなり困難を極めるだろう。そうなればみさこの勝ちだ。
 これしかない。
 みさこは額に浮かんだ汗を拭うと、早退の言い訳を考え始めた。







「君が探してる女の子、なかなか見つからないね」

 バダップは目の前で涼しそうに笑うミストレを見やった。女子を虜にして止まない双眸には溢れんばかりの興味の色が浮かんでいた。そんなミストレに対してバダップは至って冷静にああ、とだけ返す。
 昨夜バダップはミストレにみさこの捜索を願い出ていた。外観は鮮明に覚えているもののそれだけでは手掛かりとして心許なく、生徒数を踏まえると自分の力だけで見つけ出すことは困難だと判断したためだ。周囲に秘密を知られてはまずいが、みさこの存在自体を隠す必要はないだろう。
 バダップの考えは正しかった。ミストレの力は素晴らしく、翌日の昼休みを迎える現在、学校中にみさこの捜索情報が行きわたっていた。わずか半日とたたずにバダップが考えている捕獲作戦の基盤が出来上がったのだ。
 話を聞きつけて、これまで何人か自分が探している人物だと名乗り出る者がやってきたが、バダップは一瞥もすることなく彼女たちを帰していた。逃亡を図ったみさこが自ら出頭してくることはまずないと踏んでいるのだ。

「でも一体どんな子なんだろ、気になるな。君がオレに頼んでまで見つけ出したいなんて、相当忘れられないんだね」
「勘違いしないでくれ。ただ聞きたいことがあるだけだ」
「バダップ、恋ってね、ほんのささやかなきっかけから始まるものなんだよ」

 恋、と言われてバダップは顔をしかめた。恋だと?誰があんな虫女なんかに恋心を抱くか、と胸中で吐き捨てる。うっかり間近で見たカマキリの複眼を思い出しかけて、慌てて掻き消した。

「そんなものじゃない」

 バダップの苦々しそうな顔を照れ隠しと取ったのか、ミストレは薄く笑う。

「じゃあそういうことにしとくよ」

 全く信じてないというもの言いは不本意だったが、これ以上会話を続けたところで得るものはないと判断したバダップは思考を打ち切った。みさこのことを考えるとどうも冷静さを失ってしまいそうになる。思わぬところでぼろが出ては元も子もない。
 黙してしまったバダップに飽きたのか、ミストレは何か分かったら報告すると言い残して女子の許へと去って行った。

 なんでもかんでも恋に結び付けようとするな、と典型的な恋愛脳であるミストレに呆れた視線をおくると、バダップはみさこへ思考を傾けた。
 接したのは短い間だったが、それなりの特徴は掴んでいた。戦場ではいかに素早く相手を見極めるかが勝利への第一歩目になる。そこから相手の性格や心理状態を算出するのだ。

「……ミストレの情報にはあまり期待していない」

 バダップは、頬杖をつくと不敵な笑みを浮かべた。

「オレは他人の力に任せるという曖昧な作戦は立てない。相手の性格から行動パターンを分析し、それをもとに駒を配置し周りを固めて確実に獲物を追いこんでいく。ミストレに協力を仰いだのはひとつの過程に過ぎない」

 バダップの目がギラリと獰猛な光を帯びた。それは得物を追いこむ肉食獣の瞳だった。
 彼が神童と謳われるまで極めた相手を追い込むための隙のない戦術は、蟻一匹すら逃がさない程の綿密さと正確性を持つ。バダップはその全てを以ってしてみさこを追いこもうとしていたのだ。昨日味わった雪辱が起爆剤となり、授業で行うディベート以上に神経を研ぎ澄ませて練った渾身の戦略を使って。
 失敗はない。バダップは自信に満ち溢れた顔をしていた。

「待っていろ、虫女」

 そしておもむろに立ちあがると、実に愉快そうな笑みを湛えたまま、汚れひとつない革靴を鳴らして教室を後にした。
 彼の大きすぎる独り言を聞いていた生徒が、変なものを見るような眼差しを向けているとも知らずに。





「森さん、具合はどう?」

 壮年の女性独特の柔らかく間延びした声が響いた。漂白されたように白い清潔感のある白衣をまとっている彼女は保険医だ。流れるような動作でベッドの周囲を囲むカーテンを開く。

「やっぱり頭が痛くて、吐き気も少し……」

 そこには横になったみさこがいた。

「うーん、熱はないんだけどね。寝冷えでもしたのかしら」
「そうかもしれません」

 みさこは二時限目の授業が終わった後、早退するべく保健室へ来ていた。この学園では早退するまでにいくつかの手順を踏む必要がある。まず体調不良を起こし、保健室で休む。その間に熱を測ったり顔色を見たりと軽い診察を受け、保健室で休んでも直らない場合にようやく早退が認められるのだ。一刻も早く早退したかったが勝手に帰る事も許されないので、みさこは体調が悪いように振舞い続け、昼休みになった今ようやく早退の許可が出た。

「これから熱が上がってくるかもしれないから、帰ったらあったかくして寝るのよ」
「わかりました」

 ようやく帰れることにみさこは安堵した。
 本気で心配してくれている保険医には悪いが、今日はどうしても帰らなければならなかったのだ。バダップの手から逃れるために。みさこ心の中でそっとごめんなさい、と謝っておいた。

「気分が良くなったら帰っていいわよ」
「わかりました、ありがとうございます」
「じゃあ私は職員室に行くわね」
「はい」

 柔らかく微笑むと保健医は出ていった。
 室内に静寂が訪れる。
 みさこは脱力した。ようやく早退までこぎつける事ができた安堵からくるものだ。大きく溜息をつくと、ぐっと身体を伸ばす。そしていそいそと布団から這い出た。
 早退が許された今、みさこの勝算はぐっと上がっただろう。もう逃げ切ったも同然だ。髪型さえ変えれば、見た目だけの拙い情報網がみさこを捉えることはないだろう。あとは鉢合わせしないように気を付けてひっそりとほとぼりが冷めるのを待てば時効成立だ。
みさこは嬉々として上履きに足を突っ込んだ。さあ教室へ荷物を取りに行ってさっさと帰ってしまおう。そう意気込んで軽やかにカーテンを開いた。
 
「見つけたぞ」

 みさこは目を見張った。

「やはりここか」

 ふ、と笑って見せたのは、みさこが逃げている原因となる人物だった。
 この学園で最も畏怖と尊敬を集める、そして昨日粗相をやらかしてしまった、バダップ・スリードが、目の前に立っていたのだ。


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