約束は3つ。彼はそう言った。

ひとつ、彼をグランと呼ぶこと。
ふたつ、最低限彼女のふりをすること。
みっつ、彼を好きにならないこと。

最低限これを守ってくれればいい。そうあいつは言った。


「……ふっざけんな」

むかむかしてイライラして、ぼそりと暴言を吐く。しかし目の前にやつがいるわけでもなく、私の言葉は朝の空気に吸い込まれて消えた。

昨日あれから、私は奴の彼女という肩書きを頂いてしまった。
言いなりになるなんて絶対嫌だったけど、好きな人をバラすなんて脅されたら従う他なかった。
突っぱねるかどうか迷ったけど、やっぱり言われたら困るって思いが勝ってしまった。もし奴が言いふらして気まずくなったら私は生きていけなくなりそうだ。

別に告白しようなんて最初から考えていなかった。そっと、見ているだけで良かった。それだけで満足してしまう静かな秘めたる恋心だったのに、奴に暴かれて晒された。そしてそれをダシにして人を脅す。最低だ。好きだって気持ちを踏みにじるのもいい加減にしてほしい。
ぐつぐつと怒りが増す。
私は自然としかめっ面になっていた。

「おはよう、みさこ」

地面の一点を睨みつけていたら、不意に声を掛けられて驚いた。弾かれたように顔を上げる。

「げ……」

門へ差し掛かる手前に今一番会いたくない人物がいた。今日も見事な仮面をを貼りつけていらっしゃる。
うわ、朝から最悪だ。
露骨に嫌そうな顔をしたら、随分な態度だね、なんて苦笑いされた。当たり前でしょ。あんなことしたんだから。
足を止めないで学校へ向かうと奴は歩調を合わせてきた。やめて欲しい。一緒に登校してるなんて考えるだけで心底不愉快だ。

「寝不足?」
「おかげさまで」
「オレのこと頭から離れなかった?」
「そう。あんたにどう仕返ししてやろうか考えてたらワクワクして寝れなくなっちゃった」
「あはは。新鮮だなあその反応」

私は怒ってるのに、けらけらと笑われた。むかつく。昨日もそうだったけど、人が怒ってるのに何で笑ってんの。
すごい馬鹿にされてる気分なんだけど!
段々いらいらしてきて、自然と歩調が速くなる。もう校庭に入っていて、下駄箱が見えていた。このままあそこまで走って逃げてしまおうか。別に一緒に行くなんて条件は出されていない。
そんなことを思っていると、ひやりとしたものが手に触れた。
げぇっ、て、手握られてる!

「みさこ」
「な、ななな何すんの」
「グラン」
「…はあ?」
「オレのことはグランって呼ぶ約束だろ?」

何言ってるのこの人…。
それよりも繋いだ手を離して欲しい。
やばい。なんか周りからすっごい見られてるんですけど!

突き刺さるような視線を浴びて、私は慌てて振りほどこうと足掻いてみた。けど、何を思ったのか一向に離してくれない。
ぐっと羞恥が込み上げてくる。
こんな奴にときめいているわけじゃない。それは断じてない。

公衆の面前で朝っぱらから手を繋いでるってのが恥ずかしすぎる。
しかも、この人が立ち止まって動かないから必然的に私も動けない。要するに、晒しものってわけだ。

「あんたじゃなくて、グラン」
「わ、わかったから手離して!」
「本当にわかってる?」
「名前で呼べばいいんでしょっ」
「そう。付き合ってるんだし」
「わかったから、だから離してよ」
「呼んでみて」
「はぁぁ!?」

なに、この展開。
痴話喧嘩みたいなわけわかんない会話に激しく狼狽する。ふりはするって思ってたけど、それは付き合ってるって噂を流すだけだと思ってた。そのために多少一緒にいたりするのはわかる。なのに、こんな会話、まるで本当に付き合ってるみたいじゃんか。

ほら、と急かす奴の声に妙に耳をくすぐられる。


「…グ、グラン!」
「そうそう」

…なんか今のですっごいエネルギー使ったかも。

「もういいでしょ…離して!」
「手を繋ぐのが恥ずかしいの?みさこはうぶなんだね」
「あん…グランみたいに遊び歩いてませんから」
「心外だな。遊び歩いてなんかないよ」
「自覚なし?手におえない最低のタラシだね」

からかうようなグランの笑い声が鼓膜を刺激する。私これ嫌いだ。むかつく。
いい加減にしないとぶん殴ってやるから、そう言ってやろうと息を大きく吸うと、うそーっ!嬌声が上がった。
私は声が聞こえた方へ振り向く。
それは登校している女の子たちのものだった。
どうやら私たちは生徒の耳目を集めているらしい。視線の多さに驚いた。好奇、驚愕、嫉妬、呆れ。いろんな視線が私たちに突き刺さってる。そして声を上げた女の子たちはまるで異物を見るような目でこっちを見ている。その視線は好奇と同時に刺々しい憎悪のような負の感情が紛れ込んでいて、私は思わず身体を強張らせる。周りに意識を向けてみたら、至る所でささやく声が聞こえた。

グランがどういう人物なのか忘れてた。私は自分を呪いたくなった。

こいつは全校生徒に一目置かれるような存在なんだ。そのなかでも特に女子からは絶大な人気を誇っている。妄信的にグランを祭り上げる女の子も少なくないはずだ。そんな人に新しい彼女が出来たら、どんだけこっちがそのつもりがなくても女の子にとって疎ましい対象になるのは避けられない。

「は、放して」

急に怖くなった。
自分に負の感情が向くことが恐ろしい。

「手、放して。みんな見てるから」
「付き合ってるんだから問題ないよ」
「いやだ。お願い、放して」
「駄目」

有無を言わせない声音にたじろく。
このまま見せものになれっていうのか。

「みんなに見てもらわなきゃ、意味ないだろ?」

優しい声音で呟かれた言葉にはっとする。
成る程ね。
わかった。
こいつが、グランがなんでいきなり手なんか握ってきたのか。そんでなかなか離そうとしないのか。
周りに見せてるんだ。新しい彼女が出来たって。
ぐずぐずと甘い会話を聞かせて牽制してるんだ。
女の子にかかったら噂なんてあっという間に広がるから、グランは恐らくそれを狙ってる。
だからこんな猿芝居を打ったわけか。

「…そんなに誇示しなくても噂なんてすぐ広まるから安心したら?」
「あ、わかってたんだ」

小声でグランに言うと、ぴくりと眉が上がった。そして音もなく双眸が細められる。

今ここでグランの頬を殴り飛ばせたらどんなに気持ちいいか。
きっと五月晴れの空みたいに清々しい気持ちに慣れるに違いない。

見せびらかすことに満足したのか、グランに手を引かれて下駄箱まで連れて行かれた。思いのほか時間が経っていたようで、下駄箱にはもう人がいなかった。きっともうチャイムが鳴るんだろう。

「みさこって察しがいいよね。説明の手間がはぶけていい」
「あっそ」
「もう少し女の子らしくしてくれたら文句ないんだけどな」
「なんで大嫌いな人のためにしおらしくしなきゃいけないの?」
「ひどい言われようだな、オレって」

おどけるように笑っているグランにつかみかかってやろうか真剣に悩んでいると、ふと視線を感じた。振り返ると、少し離れた渡り廊下に小柄な女の子がいた。ふわふわとした栗色の髪が楽しそうに揺れている。
可愛い女の子。そう思うと、彼女の顔が悲しみに染まる。
何かに付き刺されたような悲痛な顔をしている。
もしかして、昨日グランと別れた子?

「おはよう。昨日はちゃんと帰れた?」

私の視線を追ってきたみたいで、グランも彼女を見ていた。そして親しげに声をかける。
その瞬間、遠目でもわかるくらいに彼女の顔が歪んだ。見る見るうちに涙があふれてこぼれる。原色みたいな強い感情にふれて戦慄した。間違いない。昨日グランにひどいことを言われた子だ。
頭の中でうるさい程に警笛が鳴り響いていた。危険だ。今すぐ逃げろと。だけどグランはやっぱり手を離してくれない。逃がさないと言わんばかりに強く握りしめている。

「その子……」

消え入りそうな弱々しい声が聞こえた。

「ああ――この子は、みさこはオレの彼女だよ」

そしてグランは残酷なまでに優しく微笑んで、女の子の心を手折った。



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