空気とはこんなに重かっただろうか。
今みさこはかつてないほどに空気という存在の重みを噛みしめていた。


GASSYUKU! 2


キャラバン内は高揚した空気が漂っている。それもそうだ。晴れてメンバーに選ばれ日本を代表するチームに入れた面々なのだから、自然と空気も弾んでくるものだ。天気でいうなら一点の雲もとどめぬ空。正に日本晴れだ。
しかし、とある席の一角だけ低気圧渦巻く場所があった。言わずもがなみさこと不動の席である。

「……」
「……」

あの後会話が交わされることはなかった。
不動は眉間に深いしわを刻み込んだまま景色を見ている。みさこはというと、後ろの綱海にお菓子をもらったり、前の風丸にさっきの事を気づかってもらったりしていたが、基本的に小さくなっていた。

不動の機嫌をこれ以上損ねないためである。

ばれない程度に見やれば、やっぱり怒っているようだった。

どうしよう。この短時間で何回この言葉を頭に浮かべただろうか。しかしどうする事も出来ないのが現状だ。
からかいの声こそ止んだものの、キャラバン内でさっきの……なんて話声が耳に入ってくるのだ。あることないこと飛び交った噂は全て叩きつぶしたが、相当インパクトが強かったらしく、風化するにはもう少し時間がかかりそうだった。

――だけど、そんなに怒ることないのに。

みさこは胸中で悪態をついた。
あれは不慮の事故と言えなくもない。なのにそこまで目くじらを立てるなんて大人げないじゃないか。もうすこし優しさや人と歩み寄るというものを身につけたらどうだ。キャプテンの爪の垢を煎じて飲ませてやりたい。思考は巡っていく。

(やばい、酔ってきた…)

ぐるぐると考えていると、次第に気分が悪くなってくる。
今まで車酔いとは無縁だった彼女は、酔い止めなんてものは勿論飲んでいない。持ってきてもいない。

(気持ち悪い……)

しばらく耐えていたが、治まるどころか次第に嘔吐感を伴うものになってきた。
秋に相談しようか。一瞬そう考えたが、走行中に席を立つわけにもいかず、そんな元気もなくなり、ただ座席に背をもたせかけて耐えるしかなかった。それから永遠にも感じる十分が経過した頃、キャラバンはパーキングエリアに入った。




みんながキャラバンから一斉に出ていく。トイレに行く者もいれば、食べ物買おうぜと意気揚々と会話を弾ませる者もいる。そんな中、みさこはぐったりとしたままだった。外の風に当たった方がいいんだろうけど、立つ気力もない。気持ち悪いだけじゃなく頭もガンガンと痛むのだ。

「おい、どけよ」
「ご、ごめ……」

目をつぶって吐き気をこらえていると、横から声がかかる。不動の存在を忘れかけていたみさこはそうだった、と心の中でため息をついた。不動が外に出るにはみさこが席を立つ必要がある。今は極力体を動かしたくなかったが、お声がかかった以上動かざるを得ない。
ゆっくりと、お腹を刺激しないように立ち上がる。
そこで再び吐き気の波がやってきた。う、と思わず口に手を当てる。

「どうしたんだ」

驚いた不動の声が聞こえたが、取り繕う余裕はない。引いては押し寄せる波に耐えながら答えた言葉は弱々しかった。

「よ、った…気持ち、悪い」

不動が席から出ると、みさこはよろよろと座席にもたれかかる。
気持ち悪い時は些細な動きでも刺激を受けてしまうものだ。ゆっくりと自分の楽な体勢を探した。そして細く息を吐く。

聞くだけ聞いておきながら、不動はさっさとどこかへ行ってしまったようで、キャラバン内にはみさこしかいない。

生れてはじめての車酔いに正直お手上げ状態だった。どうしたら楽になるかがわからない。周りも知らない人が多い。おまけに隣の住人はものすごく怖い。

――苦行か何かかこれは。

本日何度目かの悪態をつく。早くも全てをほっぽって家に帰りたい衝動がみさこを襲っていた。

加えてみさこに追い打ちをかけるのは、これでまだ半分しか来ていないということだ。気分はどん底。今の状態で一時間持つだろうか。正直言ってあまり自信がない。
秋と春奈が戻ってきたら、席を代わってもらおうかと考える。酔った時は前の席に座ると良いという。しかし、不穏な空気を放つ不動と隣に座らせるのもいかがなものか。彼の機嫌を損ねたのは誰でもなくみさこなのだ。重苦しい空気に身を置かせるだけではなく、もし彼女らが不動のイライラのとばっちりを受けたものなら立つ瀬がない。

やっぱり駄目だ。私が我慢しないと。
お腹を刺激しないように、再びゆっくりと息を吐く。目をつぶって出来るだけ外部からの刺激を遮断した。

するとひた、と冷たいものが頬に当たる。

「…っ!」

驚いて飛び上がる。目を開けた途端に景色がどっと流れ込んできて、軽いめまいがした。
暗くなる視界で目の前の人物を必死に捉る。

そこにいたのは、仏頂面をぶらさげた不動だった。


「……つめた」
「飲め」
「…水?」
「酔い止めもだ」

頬に当たっていたのは、汗をかいているペットボトル。次いで差し出されたのは丸い錠剤だった。
一瞬気分が悪いことを忘れて、ぱちくりとみさこはまばたきをした。そのままぽかんと見つめてしまう。
協調性がなく、思いやりもない、自分至上主義だと位置づけたのがつい先刻。隣の席に座るなんてこの世の終わりだと嘆いていたが、その不動がみさこを気づかうような行動を取ったのだ。
冷たい水と酔い止め。
車酔いをしている者にとってこれほどありがたいものはない。

不動は彼女の反応が気に食わなったのか、眉間にしわを寄せる。はやくしろ、とペットボトルをぐいぐいみさこの頬に食い込ませた。

「い、いた…」
「はやく奥いけ」
「おく?」
「窓際のほうがいいだろ!」

ひえ、と胸中で小さく悲鳴をあげる。押し付けられるペットボトルを受取ると、言われるがままにいそいそと座席の奥へ移動した。すると今度ははやく薬を飲めという命令が下る。戸惑うみさこの心情おかまいなしに不動は容赦なく注文をつけてくる。言い方は傍若無人で病人に対する態度ではない。しかし行動は――

「窓開けるぞ」

ふ、と吹き込んできた風がみさこの頬をなでる。山に向かっているおかげて、吹く風は気持ちいい。冷たい水と澄んだ空気で少しだが楽になる。相変わらず頭は痛いし気分も良くない。だが押し寄せてきた吐き気は治まりつつあった。

ほっと小さく息をつく。するとがやがやメンバーが喧騒を連れて戻ってきた。
むわっと広がった油もののにおいに慌てて窓から顔を出す。誰だ揚げ物なんて買ったのは、なんて怒りがわいてきた。

再び戻ってきた嘔吐感と戦っていると、キャラバンはゆっくりと発進した。


しばらくして。
再び背もたれにもたれかかったみさこはそっと隣を見る。
不動は退屈そうにぼうっと天井を見つめている。みさこが窓際を取ってしまったので手持無沙汰のようだった。

不動は、怖い人だと思っていた。意地悪で理不尽で、どうしようもない人だと。
しかし人はやはり見た目によらないのかもしれない。みさこはそう思った。今目の前で水滴をつけるペットボトルは恐らくわざわざ買ってきてくれたのだろう。そして薬も、みさこのために持ってきてくれたのだ。窓際の席を譲ってくれたのも、窓を開けてくれたのも。全部彼女のためにしてくれた。

気付けば車に酔った時の最良の環境にいることにみさこは気付いた。

「あの、不動君」
「ああ?」
「ありがと」
「……別に」
「気分、少し良くなった」

おずおずと不動を見上げる。
隣の住人は鬱陶しそうな視線を寄すし、返事もそっけない。だけどみさこはそれでも満足だった。

「ありがとね」

もう一度繰り返す。強張っていた顔が自然と緩んでいた。

「っ――」

不動が瞠目した。
それにみさこは首をかしげた。

「不動く…」
「いいか、」

不動の反応を怪訝に思い、問いかけようと体の向きを変えた。するといきなりぐっと距離を縮められ、思わず息を呑む。いつの間にか張り付いているのは不機嫌そうな顔。怒っているのかみさこにはわからなかったが、語調がさっきよりも荒い。

「オレがここまでしてやったんだ。絶対吐くなよ」
「え」
「もし吐いたら――通路に叩き出すからな!」

覚えとけ、と不動は偉そうにふんぞり返った。そしてそっぽを向いてしまう。
さっきまでの優しさの行方を探す旅へ出たくなるような変わりっぷりに、みさこはしばらく放心状態だった。

「こっち見てんじゃねぇよ」


みさこはゆっくり心のメモ帳を開く。そして不動は優しいかもしれないというメモに太く濃い二重線を入れた。



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