「ちょっと、汗くさいんだけど」

 聞き慣れた声と共に、横っ腹に軽い衝撃が加わった。
 夢の中にいた不動は一瞬何が起こったのかわからず、まばたきを繰り返す。やがて開けてきた視界に、見慣れた人物が浮かび上がってくる。先程得た情報と照合すれば、今自分がどんな状況におかれていたのかを理解し、小さく舌打ちした。

「人を蹴るんじゃねーよブス」
「人様の家で勝手に寝てる奴が悪い。それに一言余計なんですけど!」
「うるせぇよ。ほんとのことだろ」

 悪態をつく不動をじろりと見遣るのは、幼なじみのみさこだ。どうやら彼女に、寝ていたところを起こされたらしい。
 機嫌が悪いみさこを見て察するに、どうやら部活の練習から帰って来てそのまま寝てしまったらしい。ユニフォームを着たまま、靴下すら脱いでいなかった。一体いつのまに寝たのだろう。寝汗をかいたせいかじっとりとぬれて気持ち悪い首筋を撫でながら、不動はそんな疑問を抱く。
 覚醒しきらぬ頭でゆるりと起き上がると、みさこが不動へタオルと着替えを投げて寄こす。

「寝るならお風呂入ってからにしてって言ってるでしょ」
「ったくめんどくせーな」
「そのまま寝られると居間に臭いが移るの」
「お前ほどじゃねーよ」
「はいはい、とにかく早くお風呂」

 もう不動の口の悪さには慣れきった様子でみさこは軽くあしらい、きしりと床を鳴らして台所へいってしまった。
 不動もその淡泊な返しに慣れているようで、汗をぬぐうとゆっくりした動作で浴室へと歩いていった。


そしてやさしく降りしきる


 不動とみさこは俗に言う幼なじみだった。高校へ上がった今は互いに学校は違うが、幼いころから頻繁に家を訪ねるような仲だったことは変わっておらず、不動はもうこの家に入ることを躊躇わない。冷蔵庫や風呂を我が物顔で使うこともしばしばだ。
 そんな少し奇妙な関係が出来た要因はふたつある。
 一つは、みさこの両親が家を空けることが多いこと。仕事が忙しいようで、みさこは幼少からほぼ毎日留守番をしていた。
 無駄に、とは失礼だが、みさこの家は平家の一戸建てだった。足音が響く日本家屋には子供一人には広すぎる。いつしか不動がみさこの家を訪ねることが日課になっていた。
 そしてもう一つは、不動の家庭にあった。

 風呂を出ると台所からサクリと涼しげな音が聞こえる。釣られるようにそちらへ向かうと、みさこが真っ赤に熟れた大きなスイカを切っていた。包丁を入れる度、甘い香りが強くなる。

「みさこみたいなスイカじゃねえか」
「言うと思った」
「自覚あんだな」
「明王の戯言は真に受けないことにしてるの」

 それよりお皿取って。
 やはりするりと流すみさこ。対し不動もそれ以上はつっこまない。これが昔からの二人のパターンだった。汚れた着替えを隅っこに置くと、言われた通り食器棚から大きめの皿を取り出した。
 皿に並べられた一つを食べれば、甘く冷たいしびれが口内に広がった。どこか懐かしさを覚えさせるスイカを頬張っていると、みさこが不動を見る。

「これ半分は明王ん家で食べなよ。おばさんに持ってってあげて」
「二人でこんなに食えねぇよ」
「あー、そっか」

 先程掴んだ一切れを食べ終わると、用意された袋へ捨てた。
 確かにスイカは甘くて美味しかったが、二人で大玉の半分を食べるのは少しキツイだろう。不動がぼんやりそう考えていると、みさこが悲しそうな表情でこちらを見ていることに気づいた。
 いつまで気に病んでんだこいつは。
 不動はなんだか可笑しく思った。
 彼の親は現在母親のみ。数年前、父親は借金を抱えたまま蒸発してしまったのだ。なすりつけられた借金だが、それを証明する術もなかったため、容赦なく借金取りが家に来ていた。そんな父親を見たくなくて、やつれきった母親を見たくなくて、不動は学校が終わると、みさこの家に逃げるように来ていたのだ。
 互いに需要と供給が噛みあっていたおかげで、二人は一緒に過ごす事が多かった。

「もう半分に切ってくれ」
「そうだね。そうする」

 ふと、このまま放っておいたら泣き出すんじゃないかと不動は思った。
 全ての事情を知っているみさこは家の話題に触れると、当人の不動より悲しそうな顔をする。もうこっちは吹っ切れていると言うのに。しかしそれを欝陶しいとは思わなかった。なんだか笑えてしまうのだ。なんで当の本人より悲しそうな顔をしているんだと。
 このときばかりはみさこがしおらしく見える、などと失礼なことを思い浮かべながら、切られたスイカを居間へ運んだ。

 夏になると、二人で並んでスイカを食べることが多くなる。
 居間は扇風機がからからと回るだけのため、涼を取るために冷たいスイカを食べるのだ。開け放たれた縁側から生温い風が通り抜ける。

「なあ、居間にエアコンつけよーぜ。暑い…」
「寝室にあれば充分だよ。ここにつけてもあんまり使わないから却下」
「オレが使うんだよ」
「じゃあお母さんに明王が言ってよね」

 いつものように、だらだらととりとめの無いことを話す。午後はいつもそうだった。それから、互いの高校のこと、昔の思い出話、不動のサッカーのことと話は続いていく。不思議と話題は尽きなかった。
 狂ったように泣く蝉の声と、からから回る扇風機。そして目の前のみさこ。これらが不動の当たり前の景色になっている。もう少し経てば扇風機は片付けられ、冬になればこたつが顔を出す。
 不動がみさこの家を訪れるのをやめないように、また彼女も拒む気配は全くなかった。
 この脆い当たり前はいつまで続くのか。目の前でスイカの種をせっせと取り除いているみさこを見ながら、不動は考えていた。

「昔から変わんねえな」
「ん?」
「みさこの家でスイカ食うの」
「そうだね。小学生からずっとだね」
「冬になるとみかんだろ」
「そうそう。そういえば明王みかん剥くの下手だよね」
「うるせえよ」
「そのうえ白いすじは取りたがるから、机の上が散らかる散らかる」

 みさこが懐かしむように笑った。不動は頬をつまんでやりたい衝動に駆られたが、机が邪魔をしたため舌打ちで我慢することにした。

 話していると、いつの間にか空はうっすら紅く染まり始める。電気を付けていない部屋は少し薄暗かった。みさこが網戸を閉め電気をつける。

「そうだ、今日ご飯食べてく?」
「いや、帰る」
「おばさんがご飯作ってるよね」
「みさこに迷惑かけんなってうるせぇんだよ。迷惑じゃねーって言ってんのに」
「あのさ、後半って私のセリフじゃない?」

 いつもなら晩御飯まで一緒に食べていたのだが、不動は最近家へ帰るようにしていた。母親のためだとは口が裂けても言えないため、この間言われた小言を口実にした。
 みさこはそうなると少しだけ寂しそうな表情を浮かべる。こういうところも昔と全然変わらなかった。留守番を強いられていたため自分の感情を抑えることに慣れてしまっているのだろう。しかし、口には出さないものの、残念なことに顔からだだもれになっているのだ。
 橙色に染まる瞳は揺れているように見えた。
 
 不動はみさこのこの表情が昔から好きだった。彼女にこうして見つめられることが、彼がこの家へ通う理由でもあるのだ。

「なんだよ、寂しいのかよ」
「…はあ?何言ってんの」
「そういえば昔は俺が帰ろうとすると、明王くんといっしょー!って泣いてたな」
「そっ…そんな幼稚園の頃の話持ち出さないでよ!今は違いますー」
「そんなに帰ってほしくないならここにいてやってもいいぜ」
「とっとと帰れ!」

 言われたことが恥ずかしかったようで、みさこはすごい勢いで怒りながら食器を片付けに行ってしまう。そして冷蔵庫から切られたスイカを押し付けると、不動を玄関へ追いやった。

「おばさんによろしく」
「やっぱでかいな。まあスイカ好きだから喜ぶんじゃねえか」
「ならやっぱもう半分持ってったら?どうせうちにあっても私しか食べないし」
「いや、いい」
「明王も食べたらすぐ無くなっちゃうよ」
「オレはお前ん家で食べるからいいの」
「あ、そう」

 ガラガラと引き戸を空ける。
 むわっと湿気が体を包み不快感がやってきたが、空にはオレンジ色の入道雲がまばらに浮かぶだけだった。これは明日も晴れるだろう。片手を傘にして空を見上げると、みさこが落とさないように気をつけてよと声を尖らせた。
 振り返れば、ちょこんと玄関に佇むみさこが目に映る。

「みさこじゃねえから大丈夫だよ」
「はいはい。そうですね」
「じゃあな」
「あ、うん」

 軋む門を開けると、再びみさこから声がかかった。

「また明日ね」

 不動は思わず笑いそうになる。確かめるようなその声音はやはり小さいころとあまり変わっていない。寂しそうにまた明日と約束をする。
 昔からみさこのこの言葉を聞くと、誰かに、少なくともみさこには必要とされている存在なのだと感じる事が出来ていた。それは幼いころの支えであり、今はどこか心地良い気持ちになるような、そんな言葉だった。だからなんだろうか。不動はまた明日もみさこの家へと足を運んでしまうのだった。

「ああ、また明日な」

そう言うと、みさこは笑った。不動もまた同じように笑い、そして帰路に着いた。

(20100829)

title:まばたき


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