リュウジは周りが見えてない。彼女が彼に告げたのは、そんな一言だった。


きみを見つけた日


「はあ?」

ムッとしたような声が医務室に響いた。口をヘの字に曲げながら不機嫌そうにしている声の主は、緑川リュウジ。日本代表メンバーとして戦う選手の一人だ。そのリュウジを見据えていたのがみさこ。彼女はこのチームに所属するマネージャーである。
今二人がいるのは寮にある医務室。夜であるせいか室内は静かで、二人以外に利用者はいなかった。そのため、リュウジの声はよくとおった。

「どういう意味だよ」

不満をあらわにして、やや攻撃的な視線を送った。

「そのままの意味」
「そのまま?」

リュウジがこの部屋に来た理由は、昼間の練習で足に疲労感がたまっていたからだ。厳しい練習をすれば、疲労がたまることはよくあるものだ。普段ならばさして気にすることもないのだが、明日はカタール代表との試合が控えている。大事を取って今日は湿布を貼っておこうと医務室へ向かった。
その途中で偶然廊下にいたみさこと出くわした。ちょうどいい所に、とリュウジが彼女を引っ張ってきたのがつい先刻。
そして救急箱を取りだしたと思ったら、彼女はリュウジに向かって「周りが見えていない」なんて言ったのだ。

ペリ、と湿布のシートが剥がされると独特の臭いが鼻を突く。

「自分しか見えてない。リュウジは」

そしてひんやりと冷たい熱がふくらはぎに伝わった。

「……喧嘩売ってんの?」

再び不機嫌な声が室内に響く。
リュウジはイライラしていた。彼女はサッカーをする自分を見てそう言っているのだろうか、と思えてきたからだ。言われたことに思い当たる節はあった。自分でも理解しているが、感情が昂るとどうしても一人で突っ走ってしまうことがある。今日もその悪い癖が出て、決められたランニング時間より一人だけ多く走った。独りよがりなプレーもなかったとは言えない。
だがそれは全て、試合に出たい上手くなりたいという願望から出た努力だ。空回りしたことについては反省するところもあるが、努力をやめては退化していくだけだ。失敗しても手探りでも続けなくてはいけない。なので、もし勝手なことをするなと咎められているのなら、この文句は聞かないことしようとリュウジは思った。

リュウジの言葉を受けてみさこは少しだけ悲しそうに表情を曇らせる。
それが何故だかリュウジの神経を撫でつけた。

「そういうの、余計なお世話なんだよ」

明日はカタール戦だ。自己中心的だと思われようとも、時間はないのだ。

「マネージャーが口出しすんなよな」

みさこの手から湿布を乱暴に奪い取る。そしてシートを剥がすと足に貼りつけた。足に伝わる冷たい熱が、悲しそうに瞳を揺らすみさこと一瞬重なって、苦いものが心に広がる。思わず視線を反らした。
無性に気持ちが粟立って、じっとしていられない。リュウジは椅子から立ち上がると彼女に目を向けることなく部屋を後にした。





翌日、結論から言うとリュウジは途中で交代をした。過度のトレーニングで疲労しきった筋肉が悲鳴を上げたためだ。

応急処置をするために会場に備え付けてある医務室に運ばれた。ドアを閉めてしまえばそこはとても静かで、さっきまで聞こえていた歓声が一切遮断される。空気もどこかひんやりと落ち着いていて、それが少しだけ居心地が悪い。
痛む足を引きずって白いシーツに横たわる。

天井を仰げば、悔しさが込み上げてきた。

同時に昨日みさこに言われた言葉がふっと頭をよぎった。
周りが見えていない。自分しか見えていないのだと。

彼女が言いたかったことはこういうことだったのか、とそう思った。身勝手な行動を咎められているとばかり思っていたが、それよりも括りの大きい、チームに属する選手の一人である自分を見れていなかったのだ。そのせいで今現在迷惑をかけている。スターティングメンバーに選ばれた以上、それなりに戦力として期待されていると思ってもいいだろう。なのにこのざまだ。急な交代で代わったメンバーはアップが不足しているだろうし、それまで出来あがっていた試合の流れにも水を差すことになる。

本当に自分は周りが見えていなかった。リュウジは自嘲気味に笑った。


「リュウジ!」

焦った声と共にみさこが飛び込んできた。室内のしんとした空気が乱れ、少しだけホッとする。
ゆっくりと起き上がると、肩を上下させたみさこが立っていた。

「大丈夫?」
「ああ、大丈夫だ」

彼女はやはり悲しそうな顔をしていて、なおさら昨日の出来事がよみがえる。思わず笑いが漏れた。自分に対する嘲笑である。
それをどう取ったのかはわからなかったが、みさこはほっと表情をゆるめた。そして先生はもうすぐ来るみたいだから、と言う。

「大げさだな」
「駄目だよ、ちゃんと診てもらわないと」
「平気だって」

駄目、と有無を言わせない口調でそう言うと、みさこはリュウジに靴下を脱げと催促してきた。一瞬戸惑うが、どうやら足を伸ばすのを手伝ってくれるらしい。応急処置くらいにはなるからと。

「アイシングいる?」
「いいや」

言われた通り靴下を脱ぐ。すね当てをまくらの横に置くと、みさこがのそりとベッドに上がってきた。

「寝転がって」
「え」
「はやく伸ばさないと筋肉固まっちゃうから」

さあ、と促され、とぎまぎしながら仰向けに寝転んだ。そんな彼に対してみさこは落ち着き払っていて、立ち上がるとリュウジの足に手を置く。ひんやりと冷たい感触に、なんだか昨日の湿布を思い出してしまった。

ゆっくり足を持ち上げると、足の裏の部分を腹にあてがった。そして圧迫するように少し体勢を傾ける。片手で膝を抑えられれば、筋肉が伸びる鈍い痛みが走った。思わず眉をしかめてしまい、かかっていた力が緩んだ。
ごめんと小さく謝ると再びゆっくりと足が伸ばされる。その手つきがものすごく慎重で、少し心がざわつく。

「痛かったら言ってね」
「痛い」
「……伸ばしてる時の痛みは我慢して」

昨日リュウジは彼女にひどいことを言った。マネージャーが口出しするなと。しかし選手の暴走を気遣うのは彼女たちの役目でもあるから、彼女に言われたことは正しかった。それなのに、自分の事で精いっぱいだったリュウジは、突っぱねる様なことをして毒を吐きだした。
八つ当たりをしただけでなく傷つけもした。
それなのに今のみさこは昨日の事に文句を言うでもなく、走ってここまで駆けつけ、すぐに応急処置を施してくれている。申し訳ない思いと、自分の愚かさを恥じる気持ちがじわじわと広がっていった。

「あのさ」

反対側の足を持ち上げたみさこにリュウジはためらいがちに声をかけた。どうかした?そう笑顔で返されれば言葉に詰まる。

「昨日はごめん」

筋肉がぐっと伸びる。ふくらはぎに心地いい痛みが広がった。

「口出しすんな、なんて言ってさ」

みさこの言うとおり、何にも見えてなかったよ。
蒸し返さない方がいいかとも考えたが、それはなんだか釈然としない。だから思い切ってそう言った。

ぎし、とベッドが軋む。それと同時に足にかかっていた力が抜けて、ゆっくりと降ろされた。

「…みさこ?」

リュウジが起き上がると、みさこはベッドにへたりと座り込んだ。
不可解な行動に眉間にしわが寄る。俯いているので表情をうかがうことは出来ず、言葉も発しないものだから一体どうしたのかを知るすべはなかった。
少しの間、どうしたらいいのかと考えを巡らせる。
すると彼女の肩が小刻みに震えているのがわかった。もしかして、泣いているのか。

「お、おいみさこ――」
「本当だよ、馬鹿!」

リュウジは焦ってとっさに肩を掴むと、がばっと彼女は顔をあげた。そして暴言が叩きつけられる。
彼女の瞳は確かに涙が溜まっていたが、顔はどちらかと言うと怒っているようだった。その矛盾したような感情入り乱れる様子に、きょとんとしてしまう。
えっと、と状況を把握しようとも上手くいかなかった。

「この大馬鹿野郎」
「あー…ごめん」
「そうやって無理ばっかして…」
「反省してるよ」
「ほんとに自分しか見えてない」
「ああ、身にしみてわかった」

容赦なく叩きつけられる言葉を甘んじて受けとめた。みさこは怒っていたのだ。初めは怪我をした彼に気を使って隠していたが、恐らくこんな事態を招いてチームに迷惑をかけたリュウジに腹を立てていたのだろう。そして昨日の話をしたことによって気持ちが爆発してしまったに違いない。リュウジは内心でそう納得した。

窓は閉まっているため、外の音が入ってくることはない。静かすぎる室内にみさこの涙声はよく響いた。それがリュウジの心に重い一粒として落ちてくる。やっぱり静かなところは居心地が悪い。リュウジは目の前ですすり泣くみさこを前にどうしたらいいのかわからずにいた。
頭を撫でて励ますことなら出来る。だが、それを出来る立場にいるのだろうか。リュウジにはどうもそう思えなかった。チームに迷惑をかけて彼女を悲しませているのは、全て自分に原因があるのだ。

上がりかけた手を元の位置に戻す。リュウジは、困ったようにただ見つめることしか許されないような気がしていた。


「リュウジが運ばれてきた時、私がどんな気持ちになったかわかる?」

しかし、みさこから出てきた言葉に思わす目を丸くした。

「心臓止まるかと思ったよ」

みさこは手の甲で涙をぬぐう。そして強い視線を向けてきた。

「あんまり心配させないで」

その言葉にはやはり怒りの色がにじんでいた。しかし、それはリュウジが考えていた種類とは少し違う。
チームに迷惑をかけた独りよがりを怒っているのだと思っていた。自分勝手だと咎められているのだと。だから罪悪感で慰めることすら出来なかったし、触れてはいけないような気がしていたのだ。

「もっと周りを…心配してる人がいるってことに気付いてよ」

しかしどうやらそれは違うようだ。
胸が痛くなるような顔をしたみさこから再び涙が一筋落ちる。

やっぱり何一つ見えてなかった。自分しか見えてなかったのだ。
リュウジは今日の中で一番彼女の言葉の意味を痛感していた。

「ごめん」

そう呟くと、馬鹿という言葉が投げられる。ついでに腕をばしりと叩かれた。彼が怪我人だということはどうやら忘れられているようで、あまり容赦がない。どうせなら暴言と攻撃が入り混じる怒りよりも、昨日みたいに悲しそうにうるうると見つめてくれた方がいい、とそこまで考えたところで思考を切り捨てる。
今はそれよりも優先すべきことがある。

恐る恐る、と言ったように手を伸ばす。くしゃりと撫でればみさこが目を細める。自然と頬が緩むのがわかった。

「心配してくれてありがと」

これからは気をつけるから。誓うように紡がれた言葉に、みさこは小さく頷いた。

(20100314)


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