「先輩?」

唐突に落ちた涙に面食らって感情が追い付いてこない。予定では、「もう付き合いきれません」そんな言葉を颯爽とした口調で言ってやろうと思っていたのに、なんで泣くなんてことになっているんだろうか。しばし呆然と、自分の涙をみつめるはめになった。

「え……ちょ、ちょっと、どうしたんですか?」

ぼけっとする私とは対照的に成神君はものすごく焦ったといった様子で詰め寄ってきた。叫んだような声は上ずっていて、それに伴ってようやく私の心が動き出す。やばい。今私泣いてる。泣いてるんだ。
はっきりと、そう受け入れた途端、まるで合図を待っていたかのようにぼろぼろとしずくが滑り落ちてくる。止めようと思うのに、そうすればするほど涙が漏れ出てくるばかりで、自分でもどうしたらいいのかわからなくなっていた。
気まずさとか怒りだとか、いろんな感情が徐々に滲み出ててきて、処理しきれなくなった私はとりあえず俯いて顔を隠した。

「先輩」
「ご、ごめん、なんでもない」
「みさこ先輩」
「なんでもないです」
「先輩どうして泣いてるんですか」
「泣いてないです……大丈夫。気にしないで」
「鼻すすりながら泣いてないなんて言われても何の説得力もないですって」

そう言って、成神君は私の肩をゆさゆさと揺すってくる。一体どうしたのかと問い詰めるのも忘れない。だけど、思いがけない涙に私はかなり混乱していて、自分がどうしたいのかが上手く伝えられる状態じゃなかった。「ごめん」と「大丈夫」それを繰り返してなんとか成神君を遠ざけることに努めた。まず落ち着いたほうがいい。心を沈めて、冷静に自分の気持ちを形にしていかなくては。そのためにはとりあえず、目の前でわあわあとわめいている人を黙らせなくてはならないだろう。なおも理由を問いただしてくる成神君に何度目かの「大丈夫」を言って、肩を掴む手を外そうとした。すると、恨めしそうに睨み付けられてしまった。

「ごめんと大丈夫じゃ何もわかんないんですけど」

強い口調だった。そこにはいつものふてぶてしさが戻っていて、耳に入ってきた途端に心を引っかかれるような不快感がこみ上げる。それは、混乱でぼやけていた先程の怒りを呼び起こす起因となった。
――こうなったのは一体誰のせいだと思っているんだ!
私は感情の向くままに、肩をつかむ手を強引に振り払った。

「別に成神君にわかってもらわなくてもいい!ほっといて」
「はあ!?人が心配してるのにそれはないでしょ」私の怒りに触発されたのか、成神君も声を荒げた。
「別に心配してほしいなんて頼んでないんですけど!」
「なんだよそれ。……先輩っていつもそう。こっちの気持ち全部無視してさ!俺がどう思ってるかなんて考えたことないでしょ?」
「なにそれ!私が悪いっていうの!?自分勝手はそっちでしょ!」
人間、怒ると頭が熱くなるらしい。かっとなった私は、何も考えられなくなって思っていることをそのままぶちまけた。
「私、心配してほしいなんて言ってない!待っててくれなんて頼んだ覚えだってない!いつもいつも文句ばっかり言って、そんなに帰りたいならさっさと一人で帰ればいいじゃんか!……それに、そんなに嫌なら、私のこと呆れるくらい幻滅してるなら――さっさと振ればいいじゃん!もう意味わかんない!」

最後の言葉は涙声になっていた。
先ほどのころりと転がり落ちてきた得体のしれない涙ではなく、今度ははっきりとした思いがそこにはあった。怒りと、悲しみだろう。
自分勝手な成神君に対しての怒り、そしてそれをうまく伝えられない自分に対しての怒り。そして、すれ違ってしまうことへのどうしようもない悲しさ。それらがないまぜになって、もう別れることでしかうまくいく道はないのだと思った時、どうしようもなく悲しくなった。
自分勝手なところに心底うんざりしながらも、たぶん自分はまだ、成神君のことが好きなんだろう。だから、別れるのが最善なんだという結論に心が痛んだ。今も、痛い。
唇をきつく噛んで嗚咽が漏れないよう耐える。一体どんな返事が返ってくるだろうかと頭の片隅で考えていると、幾分か落ち着いた声で「みさこ先輩」と呼ばれた。私の体は反射的にこわばる。顔を上げることは出来そうにないので、うつむいたままでいた。
しばらくの沈黙。

「結論からいいますけど。別れるつもりはないです」

静寂が痛いと感じ始めたころ、やや憮然としたまま成神君がそう言った。

「別に先輩のこと嫌でも幻滅してるわけでもないし」

その言葉に、私はゆるりと顔を上げた。おそらく涙で目が真っ赤になっているであろう顔で成神君を見る。成神君は向かいの席へ腰を落ち着けていて、目があった瞬間、ばつが悪そうに顔をゆがめられた。叱られた子供のような顔をするなんて思ってもいなかったので少し意外に感じてしまう。

「いつも私のことグズだとかノロマって言っていらいらしてるじゃん」恐る恐る言った。
「俺、グズもノロマも言ったことないですよ。遅いとは言ったかもしれないけど……」強い口調で否定されたので「同じことでしょ?」と聞き返せば、信じられないといった視線を向けられた。空気がすこしだけ剣呑になる。
「全然違います!俺は自分の時間が惜しいから先輩を急かしてるわけじゃないんです!」
「……どういうこと?」

先ほどまでの勢いは今はしぼんでいて、逆に勢いづいている成神君にたじたじとしてしまう。はてなマークを飛ばしてうろたえている私に、成神君は呆れた視線を向けてきた。早くもいつもの構図に戻りつつある。

「本当に先輩って鈍感ですね。俺の言ったことの意味、わからないですか?」
「な、成神君の言ってる意味、は……」

尻すぼみになる言葉は自信のなさの表れと決まっている。歯切れの悪い私の返事に成神君は「もういいですから」とやさぐれ気味に思考をぶった切ってきた。そんなことを言われても、わからないものはわからない。むっとして見返すと、視線をそらされ、大げさにため息をつかれる。「なんでこんなこと俺が言わなきゃいけないんだよ」と独り言までぼやかれてしまった。
これは喧嘩第二幕をふっかけるべきだろうかと思われた時、「俺が!」と成神君が口を開いた。

「俺が、いつも先輩を急かすのは、早く仕事を終えてほしいからです。早く仕事を終えてほしいのは、別に家に帰りたいとかじゃなくて……」

始めは勢いのあった口調が次第に力を無くしていって、ついに途切れてしまった。その代わり、反比例するように成神君の眉間には深いしわが刻まれていく。怒っているように見えるがそうじゃないことは空気越しに伝わってくる。おそらく余裕がないのだ。いつも澄ましている成神君にしてはめずらしく切羽詰っている。
このままでは先が聞けないような気がして「じゃなくて?」と促したら、「ここまで言ってもわからないんですか!?」と裏返りかけている声とともに思いっきり睨み付けられた。積年の憎悪が詰まっていそうなほどの凄みがあって一瞬びくりとなってしまったけれど、いつものようにマイナスな妄想が広がっていかないのは、鬼の形相をしている成神君の顔がとても赤くなっていたからだろう。

「俺は、先輩との時間を増やしたいと思ってるんです!」

耳まで真っ赤にした成神君が怒鳴った。予想だにしなかったその言葉と彼の様子に私は鳩が豆鉄砲を食らったかのごとく驚いてしまい、目をしばたたく。成神君、と名前を呼ぼうとしたのだけれど、被せるようにして再び彼が口を開いた。

「それなのに先輩は全然気づかないし、いつも部活のメンバーのことばっかりで俺のことなんて二の次なんだ。俺は片付けだって早く終わらせるし着替えだって誰よりも急いでるのに、迎えに行けば先輩はのんびり日誌書いてて。それでも一緒に帰りたいから待ってるのに、ほかの奴のことを楽しそうに話されたらそりゃ文句の一つだって言いたくなりますよ!俺一人で必死になってて馬鹿みたいじゃないですか!」

そこまで吐き出すと、成神君は机に突っ伏してしまった。丸まった背中からは甲羅に閉じこもる亀のようなかたくなな気配が立ち上っている。

「成神君」

考えもしなかったことを聞かされてまだひどく混乱しているものの、成神君が私の思いに気づいていなかったように私も成神君の苦悩をわかっていなかったことだけは理解していた。そして彼は彼なりに歩み寄ろうとしていたのだということも。
呼びかけても顔を上げてはもらえなかった。丸まった背中から「なんで俺がこんなこと言わなきゃいけなんですか……キャラじゃないんですよ」とくぐもった声が聞こえてくる。そこにいつもの独善者はおらず、代わりに一生懸命な可愛らしい後輩がいた。

「そんな風に思ってくれてたなんて、私全然気が付かなかった……。気づいてなくてごめんね」
「先輩は鈍すぎです」
「でも、私べつに成神君のこと二の次にしてるつもりなんてないよ。そんな風に思ってないよ」
「俺との時間を作ろうとも思わなかったくせによく言いますね」
「それは……成神君が私のことどう思ってるのかわからなくなってたから」
「どうでもいい人と一緒に帰るために辛抱強く待つ人なんているわけないです」

そう言うと成神君がゆっくりと顔を上げる。まだほんのりと色づいている頬は少しだけひきつっていて、不満があるのだと言っている。それはこちらも同じで、先ほどの激しい炎のような怒りは消えていたが、日ごろ思っていたことはまだ残っている。この際だから、心に溜まったものはすべて吐き出してしまったほうがいいだろう。

「だって成神君、わがままなんだもん。私が佐久間とかと仲良くしてると怒るくせに、自分はかわいい子と楽しそうに話してるじゃん。傍若無人。独善者。そんな人が自分のことを好きかどうかなんてわからない」
「そう思ってるなら嫌だって怒ってくださいよ。俺はそうしてるのに、先輩が無反応だから悪いんです」
「もしかして当てつけでやってたの?そんなことしなくても、今日みたいに言ってくれればいいじゃん」
「自分だって俺に聞かなかったじゃないですか」
「……だって、聞いて、肯定されたらって思ったらそんなこと聞けない」

少しだけ声のトーンを落としてつぶやくように言ったら、同様に落ち着いた声で「俺だって同じです」と返ってくる。
胸につっかえていたわだかまりを吐き出していくうちに自分の心の中にあったとげとげしい気持ちが氷解し、今は澄んだ思いだけが残っていた。
室内に充満していた重苦しい空気もいつの間にかなくなっていて、夕日が差し込むまばゆさで満たされているように感じる。

「明日からは、もっと仕事が早く終わるように考えるね」
「もういいです。先輩が適当に仕事を切り上げるでことができないってのは身にしみてわかってますから」
「そんなことないよ!何とか時間作って――」
「いいですって。慣れないことしないでください」
「せっかく譲歩してるのに」
「それはこっちが言いたいですよ」
「やっぱ成神君ってずごく自分勝手だよ」
「先輩がそうさせてるんです」
「意味わかんない!」

私が叫ぶと、成神君が「じゃあ、そう思うならさっさと終わらせてくださいよ」と不貞腐れた態度を取ってくる。私も「はいはい。口よりも手を動かせばいいんでしょ」と言い返して、ペンを取り、机にかじりつく勢いで日誌を書き始めた。
せっかくの雰囲気もつかの間で、結局いつものやり取りになってしまった。それが何とも悲しいところではあるけれど、重苦しい空気が無くなっただけましなのかもしれない。
夕暮れの部室に再びペンを走らせるかりかりとした音が響く。
私にとって成神が独善者であったように、成神ぬんにとって私は気持ちを無視する独善者だったんだろう。きちんと話せばよかったんだけど、お互いが舌足らずで気持ちがすれちがってしまった。だから、これからはそんなことがないように、出来るだけ思ったことを言葉にしていこうと思う。そんなことを考えていると、とても小さな声がぽつりと聞こえてきた。

「仕事しててもいいですから、これからはちゃんと俺のことも考えてくださいね」

思わず顔をあげた。案の定手は止まってしまい、また怒られるかな、なんて思ったけど、叱責の言葉は飛んでこなかった。それは成神君があさっての方向を見ていたからで、たぶん、キャラじゃないことを言って照れているからなんだろう。
不機嫌そうな顔を張り付けたままそっぽを向く姿はなんだか可愛らしかった。
本当はまじまじと見つめたかったけど、きっと怒られる。口に出したらそれこそ積年の恨みがこもった視線で睨み付けられるんだろう。
それに、成神君を見ていたら、私も妙に気恥ずかしくなってきた。
そっと顔を伏せると、聞こえるか聞こえないかの声で「うん」と頷いて、私は日誌を書く作業を再開した。


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