独善者。
それは、いつ何時でも己が正しいのだと一縷の疑いもなく信じ、独断と偏見を両手にさげて独りよがりの親切を押し付けてくる、極めて身勝手な人間を意味する。
端から見れば、しっかりしているだとか、頼りがいがあるなんていうふうに美化されてしまうこともあるが、周りの人間からすればたまったもんじゃない。独善者はただの自己中心的な迷惑もので、はた迷惑、うんざり、そんな言葉が終始ついて回る。一緒にいれば煮え湯を飲まされるのはこちらと相場が決まっているのだ。
例を挙げるとすると、ピンクがいいと言ってるのに「ピンクは似合わないから青にしてください。はい決定」とこちらの決断を紙きれみたいにくしゃっと握りつぶしたり、ちょっとカッコイイ男の子と話してるだけで「何やってるんですか?いいかげんにしてください」と怒ってきたり。
まるで自分勝手が服を着て歩いてるよう。
そこまで言うなら己はどうなのだと問いの一つもぶつけてみたくなるものだが、独善者様はどうやら己のルールというものをお持ちのようで、人がやるのはいけないが自分がやるのはいいのである!といった具合だから始末が悪い。
こちらが男の子と話していると怒るくせに、自分は可愛い女の子と楽しそうに、それはそれは嬉しそうに、破顔一笑と言えるほどの笑みを浮かべでニコニコニコニコと口が裂けるんじゃないかってくらい優しげな態度で話している。これを理不尽と言わずして、なんと言おうか。
自分のことは棚にあげてとは昔の人もずいぶんうまい事を言ったもんだ。と妙な形で故人の偉大さを理解させられる。
そんな、はるか昔から周囲のものを心底うんざりさせている独善者が、私の身近にも一人いた。


舌足らず 


「みさこ先輩!」

太陽が形を崩しながら沈んでいくのをながめていると、聞き慣れた声が耳朶を打つ。
反射的に振り返れば、部室の窓からちょこんと顔を出している見慣れた姿がそこにはある。四方に跳ねた髪、くるみのような形をした大きな瞳はややつり目がちで、全体的に活発そうな印象を与える男の子。

「部日誌書くのに何時間かけてるんですか。待ちくたびれて来ちゃいましたよ」
「まだ三十分も経ってないけど……」
「も、経ってるんです!いいからさっさと終わらせて下さい」

文句大量生産機のように不満を垂れ流しながらやって来た人物は、名を成神健也という。帝国学園の一年生で、私より一つ年下。
私も成神君も同じサッカー部に所属していて、マネージャーとプレーヤーとして知り合った。そして今は一応、一歩踏み込んで彼氏彼女の関係を築いている。一応、である。
初めはちょっと生意気だとも思ったけど、それは自分の思ったことは例え先輩でも臆することなく言える生意気さであり、反抗心が根底にあるわけじゃない。それを理解してしまえば、こざっぱりとした性格は気さくでで話やすく、愛嬌が可愛らしい後輩だった。サッカーやってるときはかっこよかったし、試合中は凛々しくすら見えたものだ。
彼のそんなところに私は惹かれたんだけれど、付き合ってみたらこれがなんと「我儘」が裸足で逃げ出していくんじゃないかってほどの暴君っぷりをさらけ出してきたから驚いてしまう。
なんというか、唖然。驚くことしかできなかった。
友達に相談したら「甘えてるんだよ〜可愛いもんじゃん」とのお言葉を頂戴したけれど、そんな生易しいものじゃないと私は思っている。
だって、この間は佐久間と買い出しに行っただけで不満タラタラな顔で一日睨まれ続け、話し合いがあるので一緒に帰った日には電話でこんこんとお説教ときた。もしかして成神君は私に積年の恨みでもあるんだろうか。電話口から聞こえる声には、ここで会ったが百年目とまでの不満をあらわにした、いっそ呪詛といっていいような重々しさがこもっていたのだ。そのせいか、今みたく変な方向へ思考が傾くこともしばしばだ。
見本と現物が全然違う悪徳商法に引っ掛かったような心地にさせてくれる恋人の存在に、ときめく暇もなく戸惑い続けているのが今の私の現状である。

「あー、おなかすいた」

間延びした声が室内に木霊する。
私はぴくりと肩を震わせた。
これはもしや遠回しの催促なのだろうか。いつまでもちんたらやってねぇで早く日誌を書きあげなこちとら腹が減って仕方がないんだよ!と言いたいんだろうか。だったらとっとと一人でお帰りいただきたい。なんならドアまでお送りしてもいい。
日ごろ変な想像ばかり働かせているせいか、思考は突飛ながらも暗いほうへ傾いていく。ぽちゃん、と池に石を投げ込むがごとく心の中に波紋が広がった。
押し隠した気持ちを知る由もないだろう人物は、乗り出していた身を引っ込めてドアから部室に入ってくる。鞄を床に置き、私が座っている長机の正面へ腰かけた。運動後なのに汗臭さは感じられず、かっちりと着こなした制服がなんとも様になっていて妙な悔しさがこみあげてきた。きゅっと唇を噛む。

「先輩なにか持ってないですか?」
「佐久間からもらったアメなら何個かあ――」
「全部ください。食べるんで」
「ええっ!?」

驚く私をよそに成神君が憮然として手を差し出す。せっかくもらったものなのに全部渡すのは気が引けて「全部?」と聞けば、「全部」と返ってきた。強い口調は、すでにこの案件は採決済みであると言い下す役人のようだった。案の定であるが、私の意思は何一つ取り入れられていない。
いくら付き合っているからといって……いや、付き合っているからこそ、いつまでもそんな我儘を許しておいていいいのだろうか。いや、いいわけがない。なんども繰り返した問答が、ふたたび私の頭に浮上する。
彼氏彼女の関係を維持していくためには相手を想う気持ちや愛しむ心が大切だけれども、それと同じくらい、ある程度の我慢と妥協がつきものだろう。お互いが我慢したうえで思いやれるからこそ、一緒にいられるのだ。それなのに、成神君からは我慢のがの字も見えてこない。なにより、思いやりが足りない。全然足りない。全く足りない!足りなさすぎる!
よし、ここはひとつ年上として、部活の先輩として、そして彼女としてガツンと叱り飛ばしてやる。そうしよう。この小さな暴君を少しは改心させてやろう――。

「先輩。手が止まってます」
「えっ、ああ!ごめん!」弾かれたように肩を震わせると、飴を食べ散らかしている成神君が大げさに肩を落とした。
「このままぼけっとしてたら日が暮れるどころか夜が明けます。頭を動かすのはいいですけど、ちゃんと手も動かしてくださいよ」
「そんな大げさな……」
「大げさに言わないと急がないでしょ。先輩はいつもびっくりするくらいのんびりしてるんですから」
「……お腹すいてるなら先に帰っても――」
「そう言ってる間に三文字は書けます。口の前にまず手を動かす!」
「ご、ごめん」

我ながら情けない声を出してしまったものだ。
私は小さくうなだれた。
ガツンと、それはもう厳しく成神君を叱り飛ばしてやろうと思うのだけれど、なぜだか私は彼の前だと強気な態度が取れなくなってしまう。
それはたぶん、成神君が口達者で反論したくても丸めこまれちゃうからだ。いつもそうだった。私が怒っても結局うまくかわされて、それどころか自分の痛いところを引っ張り出されてつつかれてしまえば、言葉に詰まって押し流されてしまうのだ。いつの間にか立場は逆転し、私が悪いような結論になって話し合いは終わる。結局私が我慢するはめになるのはもうお決まりだ。
だから、私はいつもいつも理不尽な独善者の言葉を甘んじて受けるほかない。
今日だってそうだ。
やることは遅かったかもしれないけど、別に私は遊んでたわけじゃない。みんなが気持ちよく練習できればいいと思って、自分なりに一生懸命仕事をしていた。それなのにかけられた言葉は「お疲れ様」じゃなくて「なにしてるんですか」「さっさと終わらせてください」「日が暮れるどころか夜が明けます」の三連打。
……あの、私なんか悪いことでもしましたか?
段々と頬の筋肉がこわばっていく。今話しかけられてもうまく笑える自信がなかった。
そんな私の態度に気づいているのかいないのか――まあ、たぶん後者なんだろう、成神君は頬づえをつき、監視するかのようにこちらをじっと見つめてくる。まるで罪人を警察が見張っているみたいだ。

……これは、付き合っている状態と言えるんだろうか。これも、何度か繰り返している問答だ。
小石程度の波紋がいつしか岩をぼちゃんと落とされたかのように大きな揺れへと変わっていた。ざわざわと、心臓のあたりが煩くなって、首のあたりが熱を持っているようで気分が悪い。とても居心地が悪くて、私は出来るだけ成神君の視界から逃れるように、また自分の視界から外すようにうつむいた。
かりかりと私が走らせるペンの音だけがやけにむなしく響いている。

「先輩は、丁寧すぎるんですよ」

唇をかんで、部活を見ていて目にとまった選手の様子を書いていると、やや呆れたように成神君が言った。それがやけに勘に障る。私は反射的に顔をあげていた。

「なにが?」
「そんな馬鹿丁寧に書いてるから時間がかかっちゃうって言ってるんです。毎日選手ひとりひとりのことまで書かなくてもいいんじゃないですか?一週間まとめて書くとか。そっちのほうが効率がいいですよ」
「でもみんなの様子はきちんと書いておきたいよ」
「週単位でも日単位でもそんなに変わらないんじゃないですか?大会が近いってわけでもなし。無駄な労力ですよ」
「……無駄じゃないよ」
「いや無駄です。はっきり言って、時間の無駄」

無駄ということばに、熱した部分があおられたような気がした。
がり、と飴玉を噛む音の後、成神君はなおも続ける。

「そうすればこんなにおそくまでかからず終わるじゃないですか」
「マネージャーの仕事って日誌だけじゃないよ。他にも色々大変なんだから……」
「それくらい知ってますよ。だからこうして待ってるんじゃないですか」
「無理して待ってなくても、先に帰ればいいのに」
「そう言ってる暇があったら一文字書く!あーもう、ほらまた手が止まってる」
(はやく帰りたいんじゃなかったの?意味わかんない!)
「早くしないと暗くなっちゃいますって」

静かな部室にうるさい声が響く。たっぷりと呆れを含んだ声だった。嫌味なのか何なのか分からないけど「はあ」なんて盛大に溜息もつかれた。
それがひどく不愉快だった。
溜息をつきたいのはこっちだ馬鹿野郎。帰りたいならさっさと帰れ。溜息つきたいほどにあきれてるなら――もういっそのこと別れてください。
シャープペンの芯がポキリと悲しげに折れる。
まるで今の私の心みたいだ。
頑張って築きあげてきたものも、むなしいほどに呆気なく折れてしまう。いともたやすく崩れてしまう。
そう思ったら、心のなかに抑えていた感情がぽろりと転がり出てくる。
それを代弁したのは涙だった。
ぱたりと落ちたひとしずくが、藁半紙に丸いシミを作った。

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