「こっちに来て」 扉の前で突っ立ったままでは格好がつかないということで、二人は近くのベンチへ移動した。 「座って」 言われたまま、みさこは赤いフェルト張りのベンチへ腰を下ろす。まるで命令を下されなければ動けないロボットのように動作がぎこちない。そんな身体とは対照的に、心は騒がしいほどに荒れていた。ばくばくと胸のあたりで心臓が暴れ、今すぐにこの場を去りたいと叫んでまわっているのだ、性懲りもなく。喉は痛いほど乾いているのに、手はじっとりと汗ばんて気持ちが悪かった。 ミストレの顔を正面から見ることができなくて、自然とうつむき加減になる。 そんなみさこをどう思っているのだろう、ミストレはやはりどこか固い空気をまとったまま、言葉を選ぶように沈黙していた。 それは、時間にしてほんのわずかの間だったのだが、みさこにとっては途轍もなく長く感じた。 ――ミストレ君は私に文句を言いに来たんだろうか。人の好意を踏みにじるなんてお前は失礼な奴だ、って。だって、そうじゃなかったらわざわざこんなところまで待ってるはずがない。私を待っているわけがない。 ともすれば薄暗い心の深淵に溺れてしまいそうになった時、ミストレが口を開いた。 「俺、みさこを怒らせるようなことした?」 「え――」 「避けられるようなこと、みさこにしたかな?」 ミストレの口から出た言葉はみさこの非を並べて責めたてるようなものではなく、それどころか怒っている様子もなかった。どちらかといえば戸惑いだろうか、いつも浮かべている艶っぽい笑みとは違う、少しぎこちない笑顔がそこにはある。 ミストレの言葉に、ばねが飛ぶように顔を上げたみさこは丸くした目をぱちぱちとさせていた。 (避けてたってことは否定できないけど、私を怒らせるようなことって――ミストレ君は私が怒ってると思ってるの?) 心の声が表情にそっくりそのまま出ていたらしい、勘のいいミストレはそれを見て話がかみ合っていない違和感に気づいたようだった。「あれ?」と、口元をひきつらせる。 「あの、私はミストレ君に怒ってなんかいないよ」 しばし続いた沈黙を破ったのはみさこだった。 「私が怒る理由なんて何処にもないよ。ミストレ君が私に腹を立てる理由ならあると思うんだけど……」 「どうして俺がみさこに腹を立てるの?」 窺うように告げた言葉にミストレはついに柳眉を寄せる。心外だといった不本意さがほんのひと握りだけにじみ出ていた。 ミストレに会う前にみさこを苛んでいた不安は、かみ合わない会話や彼の困惑した表情とともに薄れていた。ミストレの言葉が決定打だった。鉛のように心を重くしていたものが、ぽろりと口からこぼれ出る。 「でも、一昨日。一昨日、せっかくミストレ君が親切にしてくれたのに、私、すごく失礼な態度とっちゃった。それを謝りにもいかなかった。そんなときにエスカ君と喧嘩みたいになったって聞いたから、もしかして私のことが原因でミストレ君が怒ってて、喧嘩なんかになったんじゃないかって思ってたの」 一息で言い切ると呼吸が少しだけ乱れた。だが必死さは伝わったようだ。ミストレはたいそう驚いたように目を丸くし「みさこの考えてることは本当に読めないな」とどこか呆れた色すらにじませた声で唸っている。 その様子に、みさこは一昨日のカフェテラスでのやり取りを思い出していた。あの時は、名前を聞かれて答えるのに随分と時間がかかり、彼を呆れさせていた。 今回悩んでいたことも、ふたを開けてみれば随分勝手な早とちりであるらしい。その証拠に、まったくと言っていいほどミストレが気に留めている様子は見られず、見当違いも甚だしい事態に困り果てているようだった。 自分はどこか間が抜けているのだろうか。怖気に代わって今度は羞恥がこみあげてくる。それは安堵と入り交ざって、うれしいやら恥ずかしいやらほっとしたやら、よくわからない感情の塊となった。 そんな心のうちを知らないミストレは、大きく息を吐き出すと、ベンチに片手をついてわずかばかりみさこのほうへ身を寄せた。驚くほど距離が縮まったわけではないのだが、彼の瞳が少しだけいつもの艶やかさを取り戻しているように感じられ、みさこはぎくりと身を固くする。 途端、これまで覆われていた膜が割れたように周囲の様子が気になりだした。耳目を集めるミストレと話している自分は、注目の的となっているのではないだろうか。だが、エントランスホールにはちらほら生徒の姿は見えるものの、こちらを気にしている様子はない。ミストレが女生徒といる場面などこの学園の生徒にとってはあたりまえと化しているのだろう。 「それなら、どうしてみさこはメールを返してくれなかったのかな」 「メール?」 突如降って湧いた覚えのない単語に、今度はみさこが目を丸くする番だった。 一体いつミストレからメールが来たというのだろうか。そもそも、みさこの端末にミストレの番号は登録されていない。自分の番号も教えた覚えがないはずなのだが。誰かに聞いたのだろうか。考えるみさこをよそに、ミストレがさらに続けた。 「それだけじゃない。みさこは俺の番号をブロックしてるよね」 「ええっ!もしかして、あのメールってミストレ君だったの!?」 ブロック、という言葉で不可解な出来事が一本につながった。 みさこは思わず声を上げてしまった。それにつられ、壁際にいた男子生徒が何事かとこちらを向く。あわてて口元を抑えるが遅すぎた。みさこはひきつった愛想笑いを浮かべて、二人の目線を散らしにかかった。 周囲に過敏に反応しているみさことは対照的に、ミストレはまるで気にした様子なくまっすぐにみさこを見据えている。自分の考えが外れていたことに彼も同様に安堵したのか、声をかけられた時のしおらしさはまるで感じない。「それで?」と回答をせかす声も芯のあるものだった。 「ごめん!あのメールがミストレ君からだったなんて気づかなくて。本文に『おはよう』としかなかったから、てっきり新手のスパムメールだと思ってブロックしちゃってた」 「……新手の、スパムメール」その言葉に打ちひしがれるように、ミストレの目がふっと遠いものとなる。またしても悪い意味で虚を突いてしまったようでみさこはあわてて取り繕おうと奮起する。 「私、ミストレ君の番号知らなかったし、ミストレ君が私の番号知ってるなんて思いもしなかったから……。いやな思いさせてごめんなさい」 ごめんなさいに、さまざまな思いを込めてみさこは頭を下げた。そんな彼女の姿にそれまでぼうっとしていたミストレが苦笑いを返してくる。「本当に、みさこの考えてることは読めないなあ。一度頭の中をのぞいてみたいよ」そして、くすりと笑った。 それまでふたりを覆っていたぎこちない空気が緩んでいったような気がして、みさこは内心胸をなでおろす。 ふたを開けてみれば、お互いずれたところに目が留まり、それぞれ的外れな勘違いをしていたのだ。すべては杞憂で、それがわかった今だからこそ、かみ合わない自分たちがどこか滑稽でおかしく思えてきた。 それだけじゃない。みさこは今回のことで、ミストレという人間の見方を少しだけ改めていたのだった。今まで、ミストレーネ・カルスという存在は一枚幕を隔てているように住む世界が違う、自分とはほど遠い存在だと思っていた。到底交わることのない、それこそ寓話の登場人物のような符号化された存在であったのだろう。しかし、ミストレもやはり人間なのだ。どれほど成績が良く容姿が優れ、羨望の眼差しで見つめずにはいられない完璧に近い存在であっても、みさこと同じように思いを巡らせ、悩んでは勘違いもする。 そこは変わらない。 そこは同じなのだ。 いつの間にか人の気配が遠のき、ホールには二人の姿しかなかった。それが緊張を解くことに一役買って、ようやくみさこもぎこちなくではあるが笑い返すことができた。それを受けて、「やっと笑ったね」とミストレは満足そうに嘆息した。 「でもよかった。みさこに嫌われてなくて」 「そ、そんなとんでもない!」 「実を言うと、帰ってからずっと考えてたんだ。自分の何がいけなかったんだろうって。ずっとそのことばっかり考えてたんだよ」 「もしかして、今日のディベートで発言しなかったのもそのせい……?」 「それもあるけど、一番の理由はみさこを観察するのに忙しかったからかな」 「ええっ!私のこと見てたの!?」 「見てたよ。みさこは一度も顔を上げてくれなかったけれど」 「ひ、必死でノート取ってて……」 「うん。随分熱心だったね」 「恥ずかしい……」 「そう?ものすごく必死でなかなか可愛らしかったけど」 皆まで言われ、羞恥で頬がカッと熱くなる。これほど可愛らしいという言葉が嘘くさく聞こえたのは初めてだ。 あの時は、ミストレを見ないようにと必死になっていた。おそらく、周囲が見たらやや引いてしまう程度には切羽詰った形相だったのではないだろうか。そう思えてならない。まさかそんな姿をつぶさに観察されていたなんて、恥ずかしさのあまり心の中の自分が悲鳴を上げてのた打ち回っている。 押し寄せる感情に耐え兼ねて頬を両手でつつみ俯いていると、ミストレが吹き出した。どうやらからかわれていたらしい。 信じられない思いでミストレを見やると、「面白い顔」と余計に彼の笑いを誘ってしまい、みさこはますます顔を赤くした。そういえば、一昨日も同じように失礼なこと言われて笑われた気がする。みさこはつい渋面になった。 「ごめん、ごめん。悪意はないから怒らないで」 ミストレは笑いをかみ殺しながら、誠意のあまり感じられない謝罪をした。みさこも本気で腹を立てたわけではないのでそれ以上怒ることはしない。 「さて」 ひとしきり笑った後、ミストレはそういった。そしておもむろに「はい」と手のひらを差し出してくるものだから、みさこはまたしても目を丸くしてしまった。首をかしげる。 答えを求めてミストレを見ると、二重の瞳を細めて笑っていた。それは艶とあどけなさが入り混じる形容しがたい笑みだった。 恋愛に長けた人ならば、ここで視線が含むものを感じ取ることもできるのだろう。目は口ほどにものを語るのだ。現にミストレもそれを意図してすぐには答えをくれないのかもしれない。だが、残念ながらみさこにそんな手練れが持ち合わせる勘などあるわけもなく、狼狽するのがせいぜいだ。 一瞬手を差し出せばいいのかと考えたがそれでは犬にするお手ではないかと踏みとどまり、素直に聞き返すことにした。 「えっと、なに?」 「端末」 「端末?」 「みさこの端末、かして」 言われるがままに身体の後ろ側に置かれていた端末を差出すと、なにやら操作している。画面をタッチする様子は軽快で、一昨日見せた無邪気な姿を思い起こさせた。 「はい。これでよし」満足そうにうなずいたかと思ったら、端末が返ってきた。ミストレから視線を外し、吸い寄せられるように渡された端末を覗き込むと、画面には彼の名前と端末の番号が登録されていた。 「昨日書誌情報もらった時、俺はみさこの番号を登録したのに、みさこは俺の教えた番号を登録してくれなかったんだね。それどころか迷惑メールと勘違いするなんて。ショックを通り越してよくわらない感動を覚えたよ」 だから、強硬手段に出ることにした。 ミストレは恥ずかしげもなくそう言って席を立った。対してみさこは置いてけぼりだ。彼が面白いと称した顔をまたもやさらけ出して、手中の端末を落としかけている。 「ロックも解除しておいて」 ミストレはみさこに端末を握りなおさせると、秘密の話でもするように耳元で囁いた。そして、「じゃあね」という言葉を残してホールを後にする。 取り残されてしまったみさこは、彼の態度をどう受け止めればいいのか、皆目見当がつかず途方に暮れていた。 ざわざわと背中を這いまわる感情をもてあまし、みさこは手の中にある端末を見つめる。そこには、情けない顔の自分がぼんやりと写っていた。 |