可もなく不可もなく。 みさこの人生を言葉にするのならば、まさにそれが相応しい。 幼い頃から勉強だの習い事だの様々なことをさせられてきたが、なにをやっても平凡の一言に尽き、才能を突出させたものは見つからなかった。かといって、落ちこぼれているかと言えばそうでもなく、至って普通といった具合ではあるが何ごともそつなくこなしていた。秀でていもいないが劣ってもいないのだ。エリートの卵が集まる士官学校へ入学してもそれは変わらず、成績は中の中、良くても上の下あたりをうろうろし、赤点を取ったことは一度もないが、成績優秀者として名前を公表されたこともまたなかった。それでいて容姿がいいわけでもなく、かといって悪いわけでもないのだ。プラスでなければマイナスでもない。実に平凡で、大衆にうもれているような存在。自分はそんな人間だと、みさこは常々思っている。 それに不満を抱いたことはなかった。 確かに、なんでも完璧にこなしてしまう人に情景の念を抱かないとは言わない。すごいなあ、うらやましいなあ、なんて、人並みに憧れたりうらやんだりもする。だが、自分がそうなろうとは思っていないし、なれるとも思っていなかった。 なにをしようと、敵わないものは敵わないのだ。 だから望むだけ無駄だし、今となっては望もうとも思わない。初めからあきらめきっているのだ。それに、平凡という湯水はいったん浸かってしまうと抜け出すのが困難になるほど心地よかった。 無難なところで折り合いをつけて努力を投げ出し、それを仕方ないと割り切る自慰的な言い訳。そして、みんなそうじゃないかというあきらめの意識。これらは傷つかないため、自尊心を保つにはうってつけなのだ。 いつしかみさこは平凡を望むようになっていた。それは成績だけにとどまらず、彼女の私生活にも反映されている。 可もなく不可もない、そんな位置を保つことが、今の彼女にとって最も優先されるべき事柄であったのだ。 爪先立ちの世界 翌朝、みさこは寝覚めが悪かった。言うまでもなく、原因は昨日のことだろう。 (失礼な態度とっちゃったかな……) みさこは布団にくるまったまま、起きぬけの頭を回転させて己の行動を思い返した。 昨日は、ミストレの態度に気が動転して逃げるようにテラスをあとにしてしまった。ただミストレから離れたくて、いつもの空気がひどく恋しくて、考えなしで一心不乱に走り去った。が、落ち着いて思い返してみると、あまりにも一方的な別れかたじゃあないだろうか。相手が何かしたかと問われれば、何もしていない。むしろ親切にしてもらったくらいだ。それなのにあの態度はないだろう。恩を仇で返すとまではいかないものの、それに近い行いをしてしまったことは確かだ。もしもミストレが気分を害していたらと思うと立つ瀬がなかった。 寝ぼけた頭でも薄れることのない罪悪感は、一晩経って薄れるどころかむしろ二倍ほどに膨らんでみさこに襲い掛かっていた。 重たい身を引きずるようにして起き上がる。カーテンの隙間から差し込む朝日はどこまでも清々しかったが、みさこの心はどんよりとした曇天が広がっていた。 「はあ」彼女の溜息と同時だった。 枕元に置いてある端末が震えた。くぐもった振動音が響く。 「こんな朝っぱらからなんだろう……」 カーテンと窓を手早く開けると、みさこは端末を手に取った。 画面を見て、首をかしげる。 みさこは画面を見つめたままベッドへ腰を下ろした。 ディスプレイに表示されていたのは良く目にする新規のメールを受信したお知らせだったのだが、どうしてか見覚えのない番号が差出人になっていた。通常、友人は端末に情報を登録していて、メールや電話を受け取った際はそこから情報を引き出して登録した名前が表示される仕組みになっている。ということは、登録されていない番号。それはつまり、親しくない、もしくは知らない人だろうか。 みさこは本文を表示させた。 思わず眉間にしわを寄せた。 「『おはよう』って、なにこれいたずら?」 本文に書かれていたのはたった四文字、「おはよう」という言葉だけだった。相手がだれなのかも、何を言いたいのかもてんでわからない。友達とすら交わしたことのない、あまりにも中身のないメールにみさこは不可解さが湧きあがってくるのを感じていた。 得体のしれなさは、次第に気味悪さへ変わっていく。 「それとも新手のスパムメール?セキュリティソフト、インストール直した方がいいのかな」 ただでさえ気分が落ち込んでいるのにそれを助長するような出来ごとに微かな怒りすら覚え始め、みさこは表示されている識別番号に問答無用でブロックをかけた。ついでにメールも削除する。そして、学校へ向かう準備を整え始めたのだった。 ◇ 電子的なベルの音が室内にこだました。授業を終える合図だ。それまで弁論をふるっていた教官は「今日はここまで」といって、スイッチを切るようにして授業を切り上げると、お決まりの台詞を残して姿を消した。 午前の授業をすべて終えた教室は、水をまいた花のように生気を取り戻していった。これからお昼休みだからだろう、学校全体がじんわりと浮かれた空気で満たされていった。 みさこも例にもれず、友人と昼食の算段を立て始める。テラスへランチに行く人もいれば、売店でなにかを買って教室や外で食べる者もいる。とくに決められた規定はないため、生徒たちは各々散っていった。 「今日はどうする?」 ひとつ前の席に座っている友人がこり固まった体をぐっと伸ばしなからこちらを向いた。お昼休みが嬉しいのか、満面の笑みを浮かべている。 「うーん、そうだなあ。今日は売店にしない?天気いいし外で食べようよ」 しばし考えた末、みさこはそう告げた。 理由はある。テラスへいけばミストレと出くわしてしまうかもしれないからだ。一言謝るつもりならばテラスへ出向いたほうがいいのだろうが、それはどうも気が進まなかった。ミストレは目立つ。特に女子の間で莫大な人気を得ていて、多くの女生徒が彼の挙動に注意を向ているといっていいだろう。それは親衛隊なるものを結成する程度にすさまじい。ミストレとはそんな渦中の人なのであって、もしも彼に話しかけたりしたら、否応なしに女の子の視線を集めてしまうのだ。特定の女の子と付き合っていない今はミストレの親衛隊に怨まれたりすることはないだろうが、目立つことはどうあっても避けられない。 それは嫌だった。 絶対に避けたかった。 誠に失礼で不誠実極まりなかったが、それならばもう出逢わずにこちらのことを忘れて欲しいと思ってしまうのだ。 「売店もいいけど、今日のカフェテラスのランチおいしそうだったんだよねー。ランチも捨て難いよみさこ!」 しかし、昨日の出来事を知らない友人は食い下がった。何事にも全力なこの友人は、食べ物においてもいかんなくそれを発揮する。いつもならばみさこが折れて決まるのだが、今日だけはと反論した。 「うーん、私は売店がいいな」 「意見が割れた!どうしよ!」 心底困ったように友人が頭をかかえる。いつになく真剣だ。思わずみさこは笑った。 いちいちリアクションの大きいこの友達は、なかなかどうして面白い。真剣に考え出した友人を微笑ましく思いながらも、みさこは心の中でそっと詫びた。今日はどうしてもカフェに行きたくないのだ。 みさこの頑なな様子に観念したようで、友人は肩をすくめておおきく息をつく。どこか芝居がかった仕草が愛らしい。 「わかった。じゃあ今日は売店にしよ」 「ありがと」みさこが笑うと、友人も「次はカフェテリア行こうね!」と笑った。 そうと決まれば早く行かなければと、ふたりは席を立つ。財布を片手に、机のあいだを縫って教室を後にした。 「やけに売店行きたがってたけどさ、なにか新商品でてるの?」 「そうじゃなくて、なんとなく外で食べたい気分なんだ」 「ふーん」 「天気もいいし、ピクニックみたいで気持ちよさそうじゃん」 「確かにそうかも。じゃあさ、中庭行こうよ。あそこあったかいしテーブルがいくつかあったよね」 そんな会話を交わしつつ売店行き、みさこは和風テイストのパスタ、友人はシーフードドリアを選んだ。新商品のデザートを買うのも忘れない。そしてそれを片手に先ほど話していた中庭へ向かった。 「あれ、エスカ君?」 だが、ふたりが向かった中庭のテーブルにはすでに先客がいた。クラスメイトのエスカ・バメルとその取り巻きたちだ。むくつけき男ばかり六人ほどで二つの机を囲み、そこはかとなくむさ苦しげな雰囲気を醸し出している。エスカはみさこに気付くと、「おー」と手をあげた。とっつきにくいが慣れると気さくに話せるのが彼のいいところだった。 「エスカ君たちが中庭で食べてるなんて珍しいね」挨拶を返し、みさこは言った。友人が「いつもカフェテリアにいるのになんで今日は中庭?」と続ける。 クラスメイトのよしみでエスカとは割と気さくに話す間柄だった。彼もとても目立つ人なのだが、サバサバしていて誰とでも気軽に話すことと、取り巻きも男ばっかりだから女のようにねっとりした視線に晒されることもないせいか、ミストレのように彼を避けたいとは思わなかった。 彼女らの疑問にエスカが顔を苦々しげに歪める。小さく舌打ちしたのを、みさこは聞き逃さなかった。 「今日のカフェテリアはすっげぇ空気が悪ぃんだよ。あんなところで食べてたら飯がまずくなる」ざく、と手に持っていたフォークを肉に突き刺した。 「え、なにそれ」 「言葉の通りだ。お前等も行かなくて正解だったんじゃねえの」 ふん、と鼻を鳴らすと、周囲の取り巻きがしきりに首を縦に振る。いやに統率のとれた動きで、一種の感動すら覚える。しかし、エスカの言っていることはよくわからず、ふたりは感心するよりもまず顔を見合わせてしまうのだった。 その流れで彼らが使っていた机にお邪魔することとなった。長椅子だったこともあり、多少の窮屈さを我慢し詰めて座れば、女子ふたりぶんのスペースをつくることはできるのだ。外見とは裏腹にせっせと場所をつくってくれた心優しい男集団に感心しつつ、エスカの向かいに腰をかけたみさこたちはお昼ご飯を食べ始めた。 「それで、なんでカフェテリアの空気が悪くなったの?」場が一旦落ちつくと、友人が堪え切れないと言った風に身を乗り出して問いかけた。 「まだその話すんのかよ」 「だって気になるんだもん。教えてよ」 「めんどくせぇな」 「いいじゃん、減るもんじゃなし。みさこも気になるよね。ね?」 「え、まあ……確かに気になるかな」 「森、そこは否定しとけよな」 エスカは思い出したくもないといった風だったが、いつでも全力で進んでいく友人はそれを見て見ぬふりをしていた。彼女にとって、エスカの不快指数よりも己の好奇心を満たすほうが大切なのだ。互いが渋り合う姿に苦笑しつつ、みさこも理由を考えてみた。 ――喧嘩でもあったのだろうか。そんな考えが頭をよぎる。 空気が悪くなると言って思いつくのはやはりこれだろう。自己抑制を叩きこまれる王牙学園であるが、自分たちはまだまだ青二才。未熟で不安定な年頃では、いくら自制を教えようとも喧嘩はしばしば起こるものだ。 だが、エスカの口から返ってきた言葉は彼女の予想をはるかに超えるものだった。 「あいつの、ミストレの機嫌が悪いせいだ」 「え……?」 「あいつがやけにイラついて突っかかってくるから、揉めかけたんだよ。まあ他の奴に止められたからおおごとにはならなかったけどな」 エスカの言葉に、みさこ目をしばたたいた。 思わぬところで彼の名を耳にしたことに対する驚きと、彼の振舞いがエスカを怒らせたという戸惑いだ。 パスタを絡めた手を宙にさ迷わせ、なおも事態を掘り下げようとしている友人に心底うんざりしているエスカを見つめてしまう。 昨日彼が見せたいくつかの顔にみさこはたいそう驚かされたが、それでも不快な思いはしなかった。端末を渡してくれた仕草はどこまでも優しく、軍事心理学の話をしていた時は無邪気ささえ覗かせていた。 そんな彼の気分が荒れている。 エスカを怒らせるほど、彼の中にも不満が溜まっていたという事なのだろう。 それまつまり―― 「森?なんだよ人の顔じっと見て」 「あ、ああ!ごめん!」 みさこは我に帰る。慌ててエスカから目を反らし、パスタを口に押し込んだ。彼女の態度にエスカが首を捻ったが、「こんなにケチなエスカバなんかみてるよりも、そこらへんの木とか見てた方がずっといいよ」と、自身の好奇心が満たされなかった友人が茶々を入れたので、話がそれていく。いつしか取り巻きたちも口論に加わって、わあわあと騒がしさが膨れていくばかりだった。 だが、みさこは氷のつぶてが落とされたように胸の底がつんと冷えていくのを感じていた。 自分の態度が、ミストレを怒らせたのだという事実が、重い鉛のように心に落ちてきた。 |