月が高く上ったころ、医務室の扉が荒々しく叩かれる。嵐のような喧騒に、床についていたみさこはベッドから身を起こすと、急いで鍵を開けた。
「ちょっとそんなに叩かな――」
 言い終わる前に荒々しく扉が引かれ、ノブごと引っ張られそうになる。慌てて手を離した。なんとかたたらを踏むにとどまったが、危うく転んでしまうところだった。
 あまりの乱暴さに文句を言ってやろうと息を吸う。だが、入ってきた人物の顔色の悪さに思わず閉口してしまう。
 電気の消えた医務室は、月の光が差し込むだけでかなり薄暗い。その暗さでもわかるほどに男の顔色は青く、表情はひどく強張っていた。まるでこちらを睨みつけるようにギラギラした目をして、何かを堪えるように口を一文字に結んでいる。
 みさこは溜息をついた。喉元まで出かかった文句を嚥下し、何も言わず半歩身体をずらして道を開ける。
「ミストレ、帰ってきたんだ」ため息交じりに言う。
 ミストレと呼ばれた青年は、彼女の言葉に返事をしなかった。
 ふらつく足取りで診察台を避けて部屋の奥へ進む。窓際に面した、薬瓶が詰め込まれた棚の横にある洗面台へ向かったかと思えば、腰を折ってシンクに覆いかぶさるようにうずくまった。そして、二、三度咳き込む。白い指が蛇口をひねった。ざあ、と水を流す音が響き、次いで苦しそうな喘ぎ声。丸まった背中が小刻みに震えていた。
 みさこは黙ってその様子を見ていたが、背中をさすってやることはしなかった。それは彼女の本意ではないし、ミストレも望んでいないだろうことがわかっていたからだ。かわりに戸棚からタオルを取り出し、横に置いてやる。その足で部屋の机にあるスタンドライトの電源を入れた。白熱電球のようなぼうっとした光が室内に満ちて、ミストレの姿がぼんやりと浮かび上がった。
 ミストレは、未だに苦しそうに肩を上下させ、髪が濡れるのも厭わずごうごうと唸る滝のように水を大量に流し続けている。みさこは、その後ろ姿をじっと見つめていた。


 みさことミストレは士官学校時代からの友人兼ライバルであり、お互いしのぎを削りながら成長してきた仲だった。主な勝負はテストの成績で、バダップが一位なのは変わらなかったが、二位の座をいつも二人で取り合っていた。
「前から思ってたんだけど、いくら俺が魅力的だからって周りをうろつくのやめてくれないかな。はっきり言って目障りだよ」
「思い上がりもはなはだしくて笑っちゃうんですけど。誰もあんたの周りなんてうろついてません。今回のテストで負けたからって僻むのやめてくれない?」
「……今に見てるといいよ」
「うろつくなだの見ろだの一体どっちなの?面倒くさい男ね」
「ああ、ほんと腹立たしいよ!君って!」
「お褒めの言葉、光栄です」
 士官学校を卒業し晴れて軍人としての門出をむかえても、二人の関係はほとんど変わらなかった。唯一変わったことと言えば、争うものが二位の席から昇進のスピードに変わったくらいだろうか。好敵手として互いに闘志を燃やし、夢を抱き、それぞれの目指すものへと歩んでいく姿勢は健在だった。
 その関係が崩れたのは、任務を与えられて一年ほどたったころだろうか。とある任務で受けた衝撃が、みさこの精神をつき崩してしまった。
「戦場に立つ意義が見いだせないから軍医に転向するだって?それが逃げだってわかってやってるんだろうね。……最低だ。俺はこんな惨めで情けない奴と今まで肩を並べていたなんて、恥ずかしくて涙が出るね」
 俯くみさこにミストレは辛辣な言葉を容赦なくぶつけてきた。だが、いつもみたいに応戦する気力はすでにない。「私は、ミストレみたいに強くないみたい……」そう答えるのがやっとだった。
 みさこはそれまで歩んできた道から外れ、施設にこもる軍医として消極的な日々を過ごすようになった。
 次第に距離が生まれ、交流はなくなった。ミストレを遠くから見かけたり、噂を耳にする程度で、例えばったり出会ったとしても言葉はおろか目線すら交わしてはもらえなかった。
 互いに記憶のふたを閉めて過ごす日々が一年以上も続いた。
 そんなある日の深夜。今日みたいに乱暴に扉が叩かれたかと思ったら、彼女の前にミストレが現れた。驚いたのは言うまでもない。二度と自分の前に姿を見せないであろう人物が、血を流しながら立っていたのだ。
「ミストレ!?どうしたの?って、やだっ、怪我してる!」
 急いで室内へ入れ、手当てを施した。


 それからミストレはみさこの部屋へ訪れるようになった。理由は分からない。ただ、彼がやってくるのは、決まって任務が終わった後で、それもみさこが逃げ出した現状を見せつけるかのように、戦場に立っていた姿のままやってくるのだった。
 今日もそうだ。わずかに開けた窓の隙間から喧騒が聞こえてくる。戦闘機のホバリング、整備師達の走る音、帰って来た人達の声や荷物を運ぶトラックのエンジン音などが入り乱れ、にわかにざわついていた。兵士たちが帰って来たときは、こうして一時騒がしくなる。一体どんな任務だったのだろう、とそこで考えるのをやめた。
 潮騒のようなざわめきにぼうっと耳を傾けていると、ようやく蛇口の水が止まった。途端、静かになる。
 そちらを見れば、ミストレがタオルで顔を拭っているところだった。いつも整えられている髪はほつれ、濃緑色の泥で汚れた隊服をさらに水でぬらしている姿は普段の彼からは想像もつかない程にめちゃくちゃだ。ぐしゃぐしゃ。まさにその言葉が相応しい格好で、みさこはそっと目を伏せた。後ろめたさがひたひたと沁み込んでくるようだった。
「窓閉めてよ。うるさいから」
「え、ああ、うん……」
 言われて、慌てて窓を閉めた。ミストレはタオルに顔面を押しあてたままみさこの近くまで歩いてきた。
「吐き気はおさまった?」
 そう聞くと、タオルから顔をあげた。
 返事はない。
 代わりに舌打ちが飛んできた。
「大丈夫かって聞いてるんだけど」
「大丈夫に決まってるだろ」
「顔面蒼白で思いっきり吐いてた人に大丈夫って言われても説得力ゼロ」
「うるさいよ」
 強がるようにそう呟いて、ミストレはタオルを投げてよこした。なんて横暴な態度だろうか、と思わなくもないのだが言い返すことはしない。正確には言い返せないのだ。
「そんだけ生意気な口叩けるなら大きな怪我はしてないんだね。よかった」
「だからうるさいって言ってるじゃないか。少しは黙れないの?」
「はいはい。検診したら黙るから、ちゃんと診せて。はい、ここ座った」みさこは仕事机に腰をかけると、脇に置いてあった椅子を指差した。普段使っている端末を起動し、報告書作成の準備に入る。
 軍の規則として、任務から帰って来た兵士は必ず医師の診察を受けなければならなかった。そして検診を行った医師は、上に報告書を提出する義務がある。原則、当直の医師が担当するのだが、ミストレは決まってみさこを起こしにくる。もしかすると、当直医に見てもらう順番を待つのが嫌で自分のもとへ来ているだろうか。ミストレの真意が掴めないあまり、そんなことを考えたりもした。
 肝心のミストレはみさこの言うことを聞かずそっぽを向いていた。薦められた椅子を通りすぎ、まだ覚束ない足取りで部屋の隅へ歩いて行った。先にあるのはベッド。みさこが先ほどまで寝ていたところだ。
「ちょっとまだ感染症の検知してないでしょ!っていうかそこは私の寝るところだよ!」
「本当にうるさい。こっちは疲れてるんだよ」
「検診は絶対。兵士の義務だよ。なにかの病原体に感染してたらどうするの?早く終わらせるからここに座って」
「……人に指図するなよ」
 ミストレはあからさまに顔をしかめ、しぶしぶみさこの近くにある簡素な椅子に腰掛ける。部屋の主はみさこであるのに、まるで我がもの顔だ。だが、今に始まったことではないので咎めるようなことなしない。不機嫌そうに黙りこみ、濡れた髪からぽたぽたと雫を垂らすミストレを見て、わずかに溜息を落とすだけだ。
 感染症をチェックする親指サイズの機械を渡す。使い捨てのものだ。ミストレは無言で受け取り、億劫そうにそれを口に含んだ。数十秒経って、自分で取りださないミストレの口から機械を引っこ抜く。唾液の付いたそれを検査機にかけると、青色のランプが点灯した。感染症の疑いはないようだ。
 次に触診に入った。やはりボタンを外そうとしないやつの代わりに、みさこが上を脱がせていく。
 肌があらわになった場所に、機械を取りつけてデータを取った。その間に骨折がないかどうか、所々押してたしかめていく。
腕を取る。泥に汚れた隊服に包まれていたのは、軍人だとは思えない白く滑らかな肌。みさこはその腕を、指先から二の腕辺りまで丁寧に障っていく。右腕が終われば左腕も。そして顔や首筋の辺りも同じように触れて回った。
「ミストレ痩せた?ちゃんと食べてる?」
「食べてなきゃとっくに死んでる」
「それはそうだけど……」
 ミストレが訪れることによって会話を交わすようになったが、決して友好的なものではなかった。以前ならばいがみ合いながらも親愛のようなものを感じていたのだが、その姿はさっぱり見えない。それどころか、いつもみさこを切りつけようと狙っているかのように、敵意にも似た鋭い感情の切っ先を突きつけられているように思えてならない。
「外傷はないみたいだね。痛いところは?」
「ない」
「気分はどう?」
「いつもと変わらない」
「そう。脈も正常だし、異常ないみたいだね」
「当たり前だろ。俺を誰だと思ってんの?みさことは違うんだよ」
 言葉の刃先が刺さる。心臓がぎゅっと縮まった。頬が引きつるのがわかった。
 恐らく自分は傷ついた顔をしているのだろう――そんな資格もないのに。
「……そうだね」これが精一杯の返答だった。
 彼の行動を言葉で表すならば、自分に対する糾弾なのではないか。最近そんなことを考えるようになった。
 憮然としたミストレから目を逸らした。逃げるように端末に表示されたデータを見る。無機質な光の中にこれまた無機質な数字が羅列されていた。
 自身の心も0と1で構成出来たらいいのに。そうしたら心が折れることもなかったし、ミストレの責めるような態度に心が痛むこともない。なんて、ディスプレイの数値を眺めなていると不毛な考えが頭をよぎった。
 馬鹿馬鹿しい。
 どうしようもない考えを頭から振り払うため、全て正常値を示していたデータは対照的に顔色が優れないミストレの様態を比較する。
「うーん、データを見る限りどこにも異常はないんだけどなあ……だけど吐き気があったよね。いつから?」
「覚えてない」返答はなんとも困るものだった。判断のしようがない。
 気付かれないよう、胸中で溜息を落とす。
「ちょっとごめんね」そう言ってみさこは再びミストレの頬に手をあてる。そのまま下まぶたを引っ張ったり、口の中の炎症がないかを確かめていった。強がっていても体調がよくないのか、ミストレはされるがままになっている。
「風邪の兆候もみられないなぁ。だったら……」みさこは次の可能性を検討しようと、もう一度端末のデータを丹念に見返していく。それと併せて吐き気を催す病気を順に頭に浮かべていく。
「水とか食料って、軍が配給したものしか口にしてないよね。それは徹底されてるから大丈夫だよね。だったら食中毒でもないだろうし、そうだったら数値に出てくるはずだから違うよなあ。腹部に衝撃を受けたような跡もないし」
 もう一度入念に触診し、腹周りの骨が折れていないか確認した。だが、これといって異常は認められない。みさこは首を捻った。そうなると、あとは疲れや精神的なものから来る吐き気としか考えられなかった。それとも、もしかして自分が何かを見落としているだけなのだろうか。そう思うと、自然と顔が険しくなる。やりきれない悔しさが込み上げてきた。
「えーっと、ごめん、もう一回データ取らせて。きちんと調べさせて」
 ミストレを裏切るような形で軍医になったのに、それが真っ当にこなせていないなんて笑い話にもならない。軍医になると告げた時み向けられた軽蔑の眼差しを思い出し、心の底が冷えた。
 急かされるように先程使った機械を手に取ると、不意に白い腕が伸びてきた。手首を掴まれる。
 音を立てて機械が床に落ちた。
「……そんなことしなくてもいい」
 それまで黙りこくっていたミストレが、みさこを見据えていた。不意に触れられたことに驚き、真正面からミストレを見つめてしまった。
 どくんと心臓が跳ねた。鼓動が大きくなる。それに同調するように口元が小刻みに震える。
 再会してからというもの、こうも真正面から彼の瞳と対峙したことがあっただろうか。いや、なかった。はっきりと肯定出来た。ずっと自分はこの視線が向けられることを、そしてそこに侮蔑という感情が広がっていくことを恐れて、まっすぐミストレを見ないようにしていたことに今更ながら気がづいた。
 先にあるのは相変わらず鋭い眼光。だが、その中に浮かぶ暗い光をみさこは見つけた。
「ミストレ?」
「もうずっと前からおさまらないんだよ」それは絞り出すように小さな声だった。「俺がここに来たときからずっとずっとおさまらない」
 ミストレの瞳に浮かんでいるのは蔑みではないように思えた。どちらかといえば――それは恐れだろうか。
 ミストレがみさこの肩をつかんだ。強い力。思わず顔をしかめてしまうほどだった。そして、首を折って項垂れてしまう。肩が小刻みに震えはじめた。それは発作にも見え、みさこは慌てた。
「ミストレ、大丈夫?どうしたの?また気持ち悪くなった?」
「違う」
「もしかしてどこか痛む?そうならはっきり教えて」
「……違う。違う。違うんだ」
 突然の変化に驚きを隠せないみさこは、痛みに顔を歪めながらもミストレをそっとゆする。服についていた泥がパラパラと音もなくこぼれ落ちていった。
「もしかしたら少し疲れてるのかも。ミストレ、何でも完璧にこなそうと頑張っちゃうところあるから……。少し横になろっか。ベッドまで歩ける?」
 立ち上がろうと足に力を入れようとすると、ミストレが抵抗した。首を振る。それは「歩けない」なのか「その必要はない」と言いたいのかまるでわからないが、何かに必死になっているということだけは痛いほど伝わってきた。
「ミストレ?」耳もとで問いかけた。丸まっている背中を控えめに叩く。
 ――他の医師を呼び出した方がいいだろうか。
 みさこがそう考え始めた時、とん、とミストレの頭が胸にぶつかった。濡れた髪が冷たい。ミストレはそのまま押し付けるようにして体重をかけてくる。急なことに、倒れるまいとして、思わず抱え込むように力を入れてしまった。
「ミスト――」
「もう、どうしたらいいかわからないんだ」
「え?」
 遮った声は、掠れて震え、ぬれていた。ミストレが苦しげに喘ぐ。嗚咽が室内に響いた。
 ミストレは泣いていた。表情こそ窺うことは出来なかったが、触れたところから伝わる震えやすすり泣く声がそれを伝えてくる。
「頭に焼き付いて離れない。あの時のことが。俺が手にかけたあの子供のことが頭に焼き付いて離れない」
「――」
「自分が何をしているのか、何をやらされているのかまるでわからなくなった……。俺が戦場に立つことは、大国のためになると、世界を良くすると信じてたのに」
 戸惑いながらも、とりあえずミストレの背をさすろうと伸ばした手が止まる。みさこは数回瞬いた。そして、目の前で震えている肩に撫でる様に触れた。
 ミストレの口から洩れた言葉は、どこかで聞いたことのあるうわごとだったのだ。どこかと考える。すぐに思いついた。あの時の自分だ。戦場に立つことを拒絶し、逃げる様にして軍医へ転属したあの時の自分と、今のミストレは同じことを言っている。
 濡れた髪から、仄かに火薬の匂いが漂ってきた。それに導かれるようにみさこの頭に過去の記憶がよみがえった。

 前線に立っていた時の任務で、彼女は無抵抗な原住民を手にかけることを強いられた。初めは意味が分からず、上官に聞き返してしまった。だが、上官は再びはっきりとした声でみさこへ命令を下す。
 全てはこの国のためだ。余計なことを知った奴は、誰であろうと総じて悪だと思え。それがこの国の正義に繋がる。
 ――全ては我が大国のためなのだ。
 士官学校で何度も聞かされた言葉が上官の口から紡がれ、その時になって初めて国のためという言葉に空恐ろしさを感じた。成功すれば昇級させてやると言われた時には唇が震えた。
 そこから先は思い出せない。頭が忘れようとして思い出せなくなっているのかもしれない。
 ただ、翌日から世界がひっくり返ってしまったのだけはやけにはっきり覚えている。みさこのことを心が弱いのだと叱咤する上官が恐ろしく、洗脳まがいの教育を平然と行っている軍という組織が化け物に思えてならなかった。
 ミストレも。
 ミストレも、同じような光景を見たのだろうか。
 正義のためと信じて行っていた行為が、政治家の垂らす糸に操られていただけなんだということに絶望したのだろうか。自分の人生に、何の価値もないことに気付いてしまったのだろうか。
「俺は馬鹿だ。何も知らなかった。何も知らないで、本当のことを知ったみさこを糾弾して――とんだ道化じゃないか。惨めで情けないのは俺のほうだ」
「……そんなこと言わないで」
「あの日、気付いたらみさこの部屋に来てた。自分の心と向き合えなくて、軍とも向き合えなくて、全てに拒絶されたような気がしてどうしようもなかった時、みさこのことを思い出したんだ。君からしたら、さぞおかしいだろうね。散々自分を罵った相手がある日ひょっこり現れて、こんな情けない姿を見せているんだから」
「そんなこと思ってない」
「無理するなよ。受け入れられない自分の心の弱さををみさこに投影して八つ当たりするような惨めな奴なんだよ、俺は。プライドだけは高いんだ。おかしくなりそうになっても、変な意地だけは残ってる。今だってそうだ。謝罪の言葉より前にこんな言い訳を並べて――」
「私はそんなこと思ってない」
 壊れた機械のように喋り出したミストレの言葉を遮る。
 みさこは、ミストレが来た夜を思い出した。
 身体から血を流し、ひどく険しい顔でこちらを睨みつけていた。あれはてっきり、自分を糾弾する光なのだと思っていたが、そうではなかったのだ。刃物のような瞳の奥には、縋りたい衝動が隠れていた。いつもいつも感じていたものも、つきつめればそこに行きついたのだろう。みさこに辛く合ったのは、縋りたいと切望する心とは裏腹に、まるで小動物のように怯え狂う自分の弱さを受け入れられないミストレの抵抗だったのではないか。だからこそ、心の均衡が崩れる寸前――任務後しか訪れなかった。
 腹の底に、重く暗い感情がうずまく。
 それは怒りだろうか。それとも恐怖?いや、これは――
「本当はこんな醜態晒すつもりはなかった。ただ、この軍の違和感にから逃れられるところにいられれば良かった。誰からも干渉されなくて、踏み込まれないような環境が欲しかった。その点みさこの医務室は都合がいい。嫌いな奴のことなんて放っておくだろうからね。……なのに、なんでそんなに俺のことを気遣ってるの?」
「それは、ミストレが大切な人だからだよ」
「あんなに酷いこと言った上に、その後だって冷たく当たってたのに、馬鹿じゃないの」
「それでも、ミストレは士官学校時代からの大切な友達だもん」
「いつもいがみ合ってたくせに友達だと思ってたわけ?」
「思ってるよ。一緒に頑張ってきた同士だとも思ってる」
「みさこがそんなんだから、縋りたくなったんだ」
 肩を掴んでいた腕が解かれ、そのまま背中に回る。抱きしめられたというよりは、脆くて今にも崩れそうなもの触れられたような気がした。胸にあった頭が同じ高さまで登ってきて、互いの頬が触れた。そこから温かい熱が伝わってくる。心地よいと同時に、心が痛んだ。
「今まで辛く当ってごめん」
「私こそ一人で逃げてごめんね」
「こんな姿見せてごめん」
「ミストレからそんな言葉聞けるなんて思わなかった」
「……うるさいよ」
 それからしばらく、そのままの姿勢で他愛もない会話を交わした。士官学校でのことを中心に、今となっては思い出となっていることをぽつぽつと語りあっていく。
 どちらも、もう先程の事にも触れなかった。
 弱音を吐くこともなければ、互いを慰め合うこともしない。
 希望のある言葉も絶望のある言葉も口にしない。
 ただ思い出を語り合い、伝わる体温を懸命に感じ取っているだけだった。


 それは、お互いわかっているからだ。
 自分たちは自分たちを救うことなどできないと。
 戦場に関わることしか教えられてこなかった彼らは、ここで生きていくことしか知らない。行き場も生き場もここ以外許されない。周りが許さない。幼少から、そう、逃げられないように育てられてきたのだ。
 みさこは軍医として、これからも戦いを続ける兵士を戦場へ送り出し、ミストレはこれまで通り戦場に立ち続ける。
 疑問を持ちつつも、糸に操られるしかない。

 みさこは不意に、先程湧いた感情を理解したような気がした。

 それは、絶望。

 産まれてから戦うことしか教えられてこなかった自分たちに、それ以外の生き方が存在しないということにこの上なく絶望感をなぶられたのだ。
 喉が詰まるような苦しさを感じた。
 けれども逃れるすべはなく。
 許されているのは、目の前の小さなぬくもりに縋りつくことだけだった。
「今度からはもう少し丁寧に入ってきてよね。私、転びそうになったんだから」
 背中に回した腕に力を込め、みさこはミストレの肩に顔をうずめた。



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