きっかけはささやかなことだった。
新たなクラスがスタートする新学期、たまたま隣になった基山君と私は自己紹介をした。それは誰もがやっていることで、これから一年間一緒にやってく仲間たちと景気づけの軽いコミュニケーションを取った、いわば通過儀礼のようなものに過ぎなかった。
だけど、新学期の空気にガチガチに緊張していた私は、名前と言われて咄嗟に「みさこ!」と下の名前しか告げないというヘマをやらかした。
慌ててとってつけたように名字を名乗ったけれど、あの時の基山君の困惑した顔は今でも鮮明に覚えている。結構なインパクトがあったのだと後に基山くんから笑いまじりに聞かされたことは、今となってはいい笑い話になっている。
そんな、ささやかなことがきっかけでよく話すようになり、基山君は私のことを名字ではなく、みさこと呼ぶようになった。
それが繰り返されていくにつれて、いつしか、私の中で基山君が言う「みさこ」という響きが特別なものになっていった。


コール・マイ・ネーム


「みさこ」

変声期を終えた、まだ少しだけ不安定な声が私の名前を呼ぶ。耳に馴染んでしまったけれども特別な響きを持っているその声に、頭よりも先に心臓がどくりと疼いた。パブロフの犬もかくやというほどの反応で、追いついた頭から苦々しさと嬉しさをない交ぜにしたような気持ちがにじみ出てくる。
苦笑をかみ殺して振り返る。教室の扉の前に基山君が立っていた。

「どうして教室に残ってるの?」

部活の途中なのだろう、基山君はポロシャツに短パンといったラフな恰好をしていて、靴下は軽く土で汚れている。髪の毛も風にあおられたのか所々跳ねていた。きっちり制服を着こなしてどこか涼しげにしているいつもの彼と違う姿はどこか新鮮だ。
基山君は後ろ手に扉を閉め、こちらまで歩いてくる。
放課後の教室は閑散としていて、上履きが床をこする音がやけに大きく聞こえた。

「基山君こそどうしたの?いきなり現れるからびっくりしたよ」
「俺は忘れものを取りに来たんだ」

そう言って自分の机まで歩くと、引き出しからクリアファイルを取り出した。挟まれていたのは数学の時間に出された課題で、期限は確か来週までだ。別に明日でもいいだろうに、それを律儀に取りに戻る真面目さはやはり基山君のそれで、今の格好と少しだけちぐはぐだった。そのギャップに小さく笑ってしまう。
すると、基山君は「何で笑ってるの?」と少し憮然とした態度になってしまった。
私はあわてて手を左右に振る。

「あ、ごめん。なんか、制服じゃなかったからいつもと印象違うなって思ったんだけど、律儀なところはやっぱり基山君だなって思ってさ」

決して悪意はないのだと説明した。
基山君も本気で怒っていたのではないようで、「なにそれ」と言うといつもの爽やかな笑みを見せた。それに安堵する。つられてこちらもへらりと笑い返したら、基山君は小さく息を吐いて肩をすくめる仕草をした。

「それより、みさこはなんで教室にいるの?」

そのまま部活に戻ると思いきや、基山君はつかつかと私の席まで歩いてくると、前の席に腰を下ろした。こんなところで油を売ってていいんだろうかという視線を送ると、それに気付いた基山君は「小休止だよ」と爽やかな笑顔を返してきた。椅子の背もたれに肘をつき、体重をかけているさまはリラックスモードに突入していて、しばらくは立つ気がないことをうかがわせた。
小さな喜びを噛みしめながら、一連の流れをぼうっとみていると、先ほどの質問の返事を待ち切れなかったらしい基山君はうーんと視線を宙に彷徨わせる。やや首を傾げているのが子供っぽく、少しだけ可愛らしかった。

「みさこは誰かを待ってる。たぶん、友達?」

心の中でそっと笑っていると、基山君がはっきりとそう言った。虚を突かれたような顔をした私に「違う?」と瞳を丸くしたので、「すごい、当たり」と言うと、嬉しそうに笑う。

「その子とクレープ食べに行く約束してるんだけど、先生に雑用頼まれちゃったみたいでさ。教室で待機中です」
「そっか。それはついてないね」
「ほんとに。お腹すいた。はやくクレープ食べたい!」
「みさこってクレープ好きなんだ」
「うん。駅前のクレープ屋さんがねすごくおいしいんだ。果物一個一個が大きくて具だくさんなんだよ。クリームもたっぷり入ってるから、すごく人気あって、中でもスペシャルクレープのボリュームが本当にすごくて……」

と、ここまで一気にまくしたてたところで、我に返る。熱弁をふるう私に基山君は笑って聞いてくれてるけど、内心呆れられてはいないだろうか。なんだか食い意地をはっていることを笑われているような気分になって、肥満街道をまっしぐらな自分が情けなくなると同時に妙な恥ずかしさが込み上げてくる。いつも甘いものばっかり食べてるわけじゃないよ、今日はちょっとしたご褒美で……とフォローのようなものを試みるも、含み笑いが返ってくるだけだった。
なんだかいたたまれなくなってきて、もう早く友達が来てくれないかな、と扉をちらちらとのぞき見ているけど生憎開く気配は感じられない。

「いいな、そういうの。俺は部活ばっかりだから帰りに何処か寄ることってあまりないんだよな」

私の心情を察知してくれたんだろうか、基山君が話題を少しだけを反らしてくれたので、遠慮なく乗らせてもらうことにする。

「そっか。基山君はいつも遅くまで練習してるもんね」
「終わると七時まわってるからなあ、遅いと九時を過ぎる時もあるから、大概のお店って閉まってるんだよね。だから、放課後に何処か寄るのって少し憧れる」
「部活が休みの時に行けばいいんじゃない?」
「そうなんだけどさ、いざ休みになると何していいのかわからなくなるんだ」
「ええ?」
「遊び慣れてないんだよ」

いいな、と基山君はもう一度だけ言って、手に持ったままのクリアファイルをくるっと丸めたり伸ばしたりして弄んでいた。部活へ戻る気配はなくて、私の友達がやってくる様子もなかった。
吹奏楽部がチューニングをしている音がかすかに聞こえてくる。初めはばらばらの音が聞こえてくるだけだったけど、次第に調和が生まれ、規則正しい音に変わっていく。
そんなゆったりとした空間で、私の頭が忙しく回転しはじめていることを、基山君は知る由もないだろう。
もし基山君さえよければ私の知ってるお店に連れていこうか、なんて、そんなことを言ったらどんな反応をするんだろうって。
一人歩きを始めた思考につられるように、心臓も勝手に高鳴りはじめる。
一体何を考えてるんだろうか。そんなこといきなり言われたって基山君は戸惑うだけなのに。きっと、初めて対面した時のように困惑させてしまうに違いない。そう自分に言い聞かせるのが大変で、無駄にまばたきの回数が多くなってしまった。少しだけ挙動不審になっているかもしれない。
変に思われるのが嫌で、私はそっと目を伏せた。

「そういえばさ、前から気になってたんだけど」

唐突に、基山君が口を開いた。「え?」という言葉と共に顔をあげると、いつの間にか弄んでいたファイルはひとつ前の席に置かれ、基山君はまっすぐにこちらを見ていた。
目線が合う。
どきりとした。
私の馬鹿げた考えを見透かされそうな気がして、ひとり固くなる。「なに?」と返した声がわずかに震えてしまった。
基山君はそんな私の窮状を知ってか知らずか、椅子の背もたれに乗せている肘に顎を置いて頬杖をついた。自然と距離が縮まって、じっと私の目を覗きこんでいる翡翠のような瞳も近くなる。痛いまでの視線の意味が分からず、ますます私は委縮した。つい、先程のようにぱちぱちと瞬きを繰り返してしまった。
宥めたはずの浮足立った感情がどっとあふれ出して、頬が熱を持つのが分かった。
このままだとまずい、いっそのこと席を立って逃亡しようか。と逡巡していた時、基山君がおもむろに口を開いた。

「みさこ」
「は、はい」
「ねえ、みさこ」
「なに、基山君」

名前が呼ばれる度に反射的に私の心臓がびくりと震え、その場に縫い付けられたように動けなくなった。そしてじわりと上がる体温。さらに加速する心音。
ああ。と溜息をつきたくなった。
基山君と話すだけでも心臓がどきどきと高鳴るのに、それ以上に私を落ち着かなくさせるのは、基山君から名字ではなく名前で呼ばれるときだ。私の中で、積もり積もって特別になっている響きを聞ける嬉しさ、もっと聞きたいっていう我が儘な思いが溢れそうになってどうしようもなく心を乱される。
なんておこがましいというか、おめでたいのだろうか。
基山君が私を名前で呼ぶのは、偶然に偶然が重なっただけであって、やはり他意はない。もし自己紹介に失敗した相手が私じゃなく他の女の子だったとしたら、基山君はその子のことを名前で呼んでいただろう。ただの戯れ。クラスメイトとしての好意。基山君は気さくなのだ。
それなのに、変に理由を模索して一人迷走するのはいかがなものだろうか。少し考えればわかることだ。何度もそういい聞かせるのだが、呼ばれるたびに滑稽な思いはしっかりと根を張っていくからどうしようもない。
吹奏楽部の音はいつの間にか止んでいて、教室は妙な静けさに包まれている。私の心音が聞こえてはいないだろうかと、本気で心配になってくる。
いたたまれなくなった私は、空気を求めて喘ぐ魚のように口を開いた。

「基山君、そろそろ部活に戻らなくてもいいの?」

私の言葉に、虚を突かれたように驚いた基山君だったけど、困ったように眉を下げて、「用事がすんだらね」と苦笑した。えっと、私、なにか変なことでも言っただろうか。
先程とは違う意味の焦りに包まれていると、基山君は大きく息を吐いた。特大のため息だ。不満や疲れ、呆れなんかがいっぱいまで詰まっていそうなそれに、ふわふわと宙を舞っていた私の心はどん底まで突き落とされていく。
私は一体どんな失言をしたんだ、と思わず眉を寄せてしまった時、基山君が身じろぎをした。

「ひとつ聞いてもいい?」

椅子に付いていた肩手を持ちあげる。それを、今度は私の机に置くと、ぐっと体重を乗せて身を乗り出す。
さらに距離が縮まる。
ふ、と基山君の影が私に落ちてきて、頷こうとした私は、目を真ん丸にして制止していた。
翡翠の瞳が近い。
目があったというよりは、視線がぶつかった。
その視線をそらすことなく、基山君が言う。

「みさこは、いつになったら俺のこと名前で呼んでくれる?」
「え――」

いつも私を呼ぶ、耳ざわりの良い声が耳をくすぐる。

「俺、ずっと待ってたんだけど」

間近で聞くそれはいつもより優しく、だけど少し刺々しくて、嫌というほど私の心に深々と沁み入ってきた。
否応なしに言葉の意味を考えさせられる。もしも普段通りに言われたら、自己紹介の時からそう呼んでるから今更変えるのも恥ずかしいよなんて当たり障りなく流していただろう。
だけど、今はそういう雰囲気ではなくて。
信じられない思いが体中を駆け巡って、喉がつっかえる。どうしての四文字を呟くのがやけに大変だった。

「どうしてだと思う?」

だけど、力を振り絞った返事は再び返された質問で意味をなさなくなってしまった。自覚があるのだろう、基山君がいたずらっぽい笑みを見せた。それが更に私を混乱の渦に突き落として、落ち着かせなくする。やがて観念したのか基山君が囁くように「呼んでほしいから」と言った。告げられた一言が、長々と思いのたけを語られるよりもはるかに雄弁に情感を伝えてくる。きゅっと心臓を握られた心地になった。

「突然私が基山君のこと下の名前で呼んだら、クラスの子が変に勘違いしちゃうよ……」

どう答えたらいいのかわからなくて、呻くようにそれだけ言う。基山君はまっすぐこちらへ向けていた視線をやや逸らして、うーんと唸った。程なくして、うん、と一人頷くと、再び視線が戻ってきた。

「勘違いじゃなかったら問題ない?」

吹奏楽部はミーティングでも始めてしまったのか教室は依然として静かなままで、基山君の声と私の心臓の音が嫌というほどはっきり聞こえてきた。

「彼氏になったら、みさこは俺のこと、名前で呼んでくれる?」

まっすぐ見つめる視線のなかに少しだけ熱っぽさが混じって、私はこの上ないほどまっ赤になってまばたきを繰り返してしまった。あ、だとか、う、だとか、言葉にならない文字ばかりが口から飛び出して、いっこうに返事が返せない。
だって、信じられない。
私にとってみさこは特別な響きだったけれど、あくまで自分だけのもので、私が一人で舞い上がっているとばかり思っていた。それなのに、基山君も他とは違う響きを私に求めてくれていたのだろうか。
基山君は私が慌てふためく間も、辛抱強く返事を待ってくれていた。でも逆に言えば、それは言うまで放してくれないということだ。
友達がくる気配はまだなくて、基山君が部活へ戻る様子もうかがえない。
やがて白旗を上げた私が、小さく一度、こくりと頷くと基山君の双眸が弓なりになって、照れくさそうにはにかんだ。

「じゃあ、これからよろしく。みさこ」

今まで私をざわつかせていた声が今はどこかくすぐったくて、私もつられて笑った。

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