部活が終わった後に日誌をつけるのは、もう習慣になっている。サッカー部のマネージャーをやっているみさこは通常業務を終えると一人部室に残りペンを走らせるのだ。乱雑に扱われているためよれた日誌を開くと、流れるような手つきで今日のメニューを記入していった。

外はうっすらと暗くなり始めているようで、部室内は電気をつけないとものがあまり見えなかった。でも今日はやけに暗くなるのが早い。差し込んでくる橙色の光も、いつの間にかなくなっている。そんな疑問を頭に浮かべつつも、すらすらと文字を書く手は休めなかった。初めは丁寧に。だけど次第に刻んでいく字が走るように乱れていく。
おおよそ書き終わったところで、部室のドアが大きな音を立てて開いた。


「…ったくついてねぇ」
「南雲先輩」

乱暴にドアを開けて入ってきたのは南雲だった。みさこの心臓がどくどくと唸りだす。
みさこが部日誌を付けていると、よく南雲が忘れ物だとわめきながら部室までやってくる。初めは嵐のような先輩に辟易していたが、いつしかみさこの中で、彼を待っている自分がいた。
今日は何を忘れたんですか、とからかおうと思ったが南雲の姿を見て、考えを改める。

「先輩何でぬれてるんですか?」
「雨だよ、雨!」
「雨?」
「さっき一気に降ってきたんだよ!ザーザー降りだぜ」

ほれ、と南雲は部室のドアを開けた。扉越しに見える様子に思わず呆然とする。ついさっきまで夕日が覗いてたのに、今はバケツをひっくり返したような雨が降っている。急激な天気の変化は夕立か。まるで映画のワンシーンみたいに雨が地面を容赦なく叩いていた。
じとりと湿った空気が室内に侵入してくる。

ああだから今日はこんなに暗いのか、なんてみさこの中で疑問が一つ解決したが、代わりに厄介な問題が一つ発生した。

「…私傘持ってないです」
「だろうな」

今日の天気予報はどこもかしこも晴れマークだった。そんな日に傘を持ってきている人は少ないはずだ。案の定ここには持っていない二人が集結してしまっている。
絶望感が漂う空気の中にため息が一つ落ちた。南雲のものだ。そして、ったくついてねぇ、なんて来た時と同じ悪態をついていた。
全くもって同感だ。みさこは南雲を見ながら首を縦に振る。もう少しだけ時間がずれていたらよかったのに、下校時に見事に土砂降りに見舞われるなんてついてない。

雨はさっきより強さを増していて、天井から大合唱が聞こえてくる。この様子ではしばらく帰れそうにない。
みさこは先ほどの南雲と同様に大きなため息を漏らした。


雨に打たれた南雲は部室に置いてあるタオルで髪を拭いていた。制服はぐっしょり水分を吸っていて、部屋の湿度を上げるのに一役買っている。傘がない今、外に出たらみさこも間違いなく南雲と同じ運命を辿るだろう。
長椅子に置かれた鞄も同様にぬれていて、濡れ具合から推測するに教科書はご臨終なはずだ。明日になるときっとあの教科書には蛍光ペンがつくる虹のかけ橋がかかることだろう。強行突破で帰れば、間違いなくみさこも同じ運命を辿る。
みさこは自分と南雲の鞄を交互に見つめた後、走って帰る選択肢をゴミ箱へと投げ捨てた。

「雨、すぐに止みますかね」
「さあな」

どうしたものかと思い、南雲に視線をやる。彼はいつの間にかTシャツと短パンに着替えていた。肩にはタオルがかけられている。まるでサッカーをしている時みたいだ。


そこではたと気づく。そういえば今部室には自分達しかいない、と。
いつもは特に気にならなかった。南雲は騒々しくやってきて騒々しく帰っていくからそんな暇なかったと言っていい。

だが今は、しとしとと降る雨の音しか聞こえない。


「お前さ、いつも部日誌書くのに時間かけすぎ」
「…っ」

左後ろに南雲の気配を感じた。空気が身じろぎをして、その距離があまり遠くないことを伝えてきた。後ろから日誌をのぞき込まれているだなのに、みさこは妙な息苦しさに襲われていた。

こんなもん適当に書いとけばいいんだよ。言葉と共に湿ったタオルが頬をかすめる。


みさこはガタリと音を立てて立ち上がった。


「あはは…え、と。置き傘とか、なかったでしたっけ…?」

私物で溢れ返ってるんだから、傘の一本や二本くらい置いてありますよね。あ、律儀な基山先輩あたり、置き傘とかしてないかなあ。口を忙しなく動かしてロッカーの方へ歩いていく。取りあえずとばかりに一番手前のロッカーを開ければガコ、と間抜けな音が響いた。

「今日一日くらいなら拝借しても怒られないですよね?」


同意を求めてみさこは振り返った。

そして驚く。
南雲は突っ立っていた。みさこに視線を向けたまま、狐に摘まれたような顔をして。えっと、何か?思わずそう疑問をぶつけた。

「……別に。傘なんか、勝手に使えばいいんじゃねぇの」

視線を反らされ、手渡された返事は歯切れが悪かった。いつものにぎやかな南雲の印象とはまるで違う。
日誌のことについて投げやりな返事をしたと思ったのだろうか。いや、普段の南雲はそんな小さい事を気にするような質ではない。

え、何。
私、何した?

その変化にみさこはぐるぐると思考が落ちていく気がした。いつもだったら、あいつのものはオレのものなんて言いながら笑いそうなのに。今はただ地面を睨みつけるような横顔が見えるだけだった。


開きかけのロッカーから、ぱたりとビニール傘が床に姿を現した。





探した結果ビニール傘が一本だけ見つかった。
傘が一本あれば二人で使うことも出来るが、何分みさこと南雲は帰る方向が違う。一緒に傘に入れるのはせいぜい門を出るまでだ。そこからはどちらかが雨に打たれることになるだろう。

みさこはちらりと南雲を見た。
彼女らは会議用の長机を隔てて座っている。この机はミーティング時に使われることが多く、話し合いが出来るようにと向き合うように置かれていた。その構造のせいで二人も向き合うように座っていた。

――やっぱり、私変なこと言った?

机上にはみさこが見つけたビニール傘があり、南雲はそれを睨みつけている。おまけに一言も声を発しないのだ。何でもないと言われてもにわかには信じられない。
広い部室に落ちてきた沈黙はひどく重く感じる。重圧のようにのしかかるそれはどんどんとみさこの心をざわつかせた。
もうだめだ。
沈黙に耐えかねて何か言おうと空気を吸う。

すると南雲が小さく声を漏らした。

「お前使えよ」
「え」
「オレはいらねぇ」
「いらないって…」

みさこの目がぱちくりとまたたく。

「先輩使ってくださいよ」
「オレは、いい」
「何でですか。先輩こそ使うべきですよ。練習で疲れてるじゃないですか」
「いらねぇ。疲れてねぇ」
「さっきあくびしてるの見ました」
「……いらねぇって」


ずい、と傘がみさこの前にやってくる。それは今すごく欲しいものだが、素直に受け取ることが出来なかった。
サッカー部の練習は明日もある。ならば早く家に帰りたくなるものだ。今日一日走りまわっていた南雲と、動いてはいたものの半分くらいは座っていたみさことでは疲れの度合いが違って、どっちが、なんて聞くまでもないだろう。

時計の短針はすでに7を通り過ぎている。

どうせ部日誌をまだ書いてないし、私は先輩みたいに動いてないから疲れもたまってない。だから使ってほしい。みさこは懸命にそう主張した。

しかし南雲はいらない、の一点張りだ。

そんなやり取りを続けたが、お互い譲らず。奇妙な言い合いは終結しそうになかった。

机の真ん中に置かれたビニール傘が、肩身を狭そうにして横たわっている。


「お前が使えよ。遅くなったら親が心配すんだろ」

傘と同じく縮こまって日誌を睨みつけていると、小さくため息を落として南雲がそう言った。

「大丈夫です」
「これ以上遅くなったら危ねえだろ」
「いつも暗くなってから帰ってますよ」
「お前は…聞きわけ悪い奴だな」

はあ。今度は大きなため息を落とす。
疲れとあきれが入り混じったそれに、みさこは泣きたくなった。自分は彼を困らせているのだろうか。駄々をこねているだけなのだろうか。
しかし、そんな罪悪感に反する気持ちも膨れ上がる。
突然機嫌が悪くなるし、聞いてもはぐらかすし。加えてこっちの主張を聞いてくれる様子はまるでない。何なんだよ。わけわかんないよ。一体何がしたいんだよ。もんもんと感情がくすぶる。


「先輩に言われたくないです」
「あ?」
「私からしたら先輩だって聞き分けが悪い人なんですけど」

喧嘩をしたいわけじゃない。なのに出てきた言葉は棘を持っていた。
そこまで言うなら、目の前の傘をひっつかんで帰ってしまおうか。それならついでにこの部日誌も押し付けてやる。もう勝手にするよ。
投げやりな考えが浮かんできた。
それに伴って瞳の水分量が少し増した気がした。


「……お前はやく帰りたいんじゃなかったのかよ」

言い合いになる、というみさこの予想は外れた。うつむいてビニール傘を睨みつけていると穏やかな声が降ってくる。

「はやく帰りたいから、傘探してたんだろ」

南雲の言葉は、予想もしてない上に検討違いだった。みさこは顔をあげた。え?と唇を動かし、目を大きく見開いて二回ほど大きくまばたきをする。


「あー、じゃあ……」

今日の南雲はやはりどこかおかしい。その思いからみさこはもう一度だけまたたく。いつもうるさいくらいはきはきとものを言うのに、今は歯切れが悪い言葉ををもごもごと呟いている。

「なら、」

先輩今日はどうしたんですか。せっかく頭の中で練り上げた言葉は、次の言葉によって押し流されてしまった。

「…やむまで雨宿りしてくか」

ここで。一緒に。

南雲の声がかすかに震えていた。目尻のしたがほんのりと上気しているのは、自分が見せる都合のいい錯覚なのだろうか。
返事をすることも忘れ、みさこは彼を注視した。
金の瞳と交わる。炎よりも鮮やかな、太陽の色。いつもそこには情熱という名の炎が灯っている。だが今は、それとは違う。とろりとした熱そのもののになったかのように、悩ましげな艶があった。
心臓が、ゆっくりと速度をあげる。

目の奥がつんと痛んだ。
みさこは一度まばたきをした。喉はからからに乾いているのに、目は涙が出そうなくらい潤んでいて、目の前の金をにじませてしまいそうだ。
先ほどまで南雲の眉間に深く刻み込まれていたしわは消えていた。すぼめられていた金色も今は複雑そうに揺れていて、みさこの瞳を覗き込む。まるで引力があるかのように、ぐっと視線がもっていかれた。
それと引き換えに頭の中にあった疑問がすみっこへと追いやられる。

喉が震えた。

「そうしま――」

みさこが口を開いた時、不意に大きな音がした。どさりと何かが落ちた音だ。
驚いて音のした方へ視線を辿っていくと、そこには地面に横たわる鞄。南雲の鞄だった。雨をたっぷり吸って重くなったのか、バランスを崩して椅子から落ちたらしい。チャックを閉めていないものだから中身がいくらか散らばっていた。

「あ」

みさこの視線が一点に縫いつけられた。横から南雲が息をのむのが聞こえる。

「折りたたみ…」

床に転がっていたのは、緑色のコンパクトな折りたたみ傘だった。


「先輩、傘持ってたんですね」

ああ、だとかわあ、なんて感嘆符を発するのと同じ気持ちでするりと言葉が出る。だから嫌みとかからかいなんていう複雑な意味はこもってない。ただ驚いただけだった。

「傘、二本ありますね」

南雲はみさこの言葉に頬を紅潮させた。焦っているのか、呻き声を漏らしながら頭をがしがしとかく。

ええと。
なんで傘があるのにわざわざ帰らずに部室に来たのか。
あたかも持っていないかのようにふるまったのか。
そして雨宿りをしていこうなんて言い出したのか。
そんなことして何のメリットがあるのか。
みさこは聞きたいことがたくさんあった。聞いてみようと思った。

だけど、くすぶり始めた心は正常な判断を出来なくしてしまうようだ。
耳まで赤に染まる南雲の姿に、はやる気持ちがこぼれた。


「私だって」

喉があつい。熱を飲み込んでる気分だ。

「どうでもいい人なら遠慮なく傘借りて今ごろ帰ってます」

急いで部日誌を書いていたのは確かにはやく家に帰りたかったからだ。にもかかわらず残るのを選んだのは、相手が南雲だからだ。もし他の人とあれだけのやり取りをしたなら、厚意に甘えて今頃はもう家にいる。しかし、彼となれば話は180度変わってくるのだ。

「先輩だから、どうでもよくない人だから、使ってほしいって思ったんです」

南雲だから。
みさこが胸を跳ねさせたのも、不意に居てもたってもいられなくなったのも、先に帰ってほしいと頑なに思ったのも。雨宿りをしていこうと思ったのも。
全ては彼だからだ。
彼に密かにおもいを寄せているからゆえ。

南雲はひどく驚いた顔をしていた。そして再び、みるみるうちに顔を染める。
それに伴い、じわりと心を侵食される音をみさこは聞いた。
顔が熱い。

「…先輩は何で傘持ってないふりなんてしたですか?」

案外声は震えていなかった。
その事実に安堵していると、南雲の顔が更にぱっと赤くなった。真ん丸だった金の光彩が瞼で平らになって、お前な、なんて悔しそうにみさこを睨みつける。

言わなくとも、伝わるものはある。だけど、口で、言葉で聞きたいという欲望もまた存在するのだ。人間は言語を持っているのだから、それはやっぱり活用すべきである。

わかってんだろ、と口を尖らせてそっぽ向く南雲に頬が緩んだ。体重を前にかけて少しだけ身を乗り出す。


わかりません。だから、先輩も言ってください。

邪魔だとばかりにビニール傘が机上から追い出されるのと彼の舌打ちは同時で。
こっちを向いたかと思ったら、南雲に襟を荒々しく掴まれる。胸倉を掴んでるともとれるその行為は、女子に対して取る行動ではない。

しかしそんな文句を言う時間は与えてもらえず――

「いちいち言わせんな」

言葉の代わりに彼女がもらったのは、意外にもそっと触れた彼の唇だった。


(20100218)

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