「別れるか」



唐突に言われたその言葉。それに対して私はやっぱり、という気持ちが湧き上がってきた。大体、一年持ったのが奇跡だったのだ。いや、まずこの人と付き合えた事自体が奇跡だった。薄々は勘付いていた事だ。そう自分に言い聞かせ、私は表情を変える事無く頷いた。


「わかったわ」



想定内の言葉だったのだろう。その言葉を聞くや否や、彼は無言で立ち上がり出口へと歩き出した。ちらり、私を一瞥するも直ぐに視線は前へ。…それでいい。色が変わる程強く握られた手に気付かれたくなくて、必死にポーカーフェイスを保つ。


ーパタン。
乾いた音を立てながら扉が閉まったのを確認した瞬間、爪の痕が残る手をそっと開いた。長く綺麗に手入れされた爪の色は真っ赤。それを見て、私は笑う。


「は…は、はは……」



玄関には高いヒールの靴。化粧鏡の前には真っ赤なルージュ。見えはしないけど、クローゼットの中には胸元が大きく開いた靴。似合わないであろうそれを何とか見える位になり、必死になって身に付け続けた私は何て不様だったのだろうか。…わかっていたのだ、彼がこんなガキを相手になんてしないであろう事なんて。本来その隣には誰もが振り向くような、あの人にお似合いの美女がいるべきなのだから。それこそ、真っ赤なルージュが似合うような大人が。

…でも。段々と滲む視界に、それでも、と否定する自分がいる。頑張ったのに、と泣き叫びたくなっている自分がいる。単なるガキではなく、あの人に見合う女性になれるように。
苦手だった珈琲を飲むようになった。ぺたんとした靴ではなく、ハイヒールを履くようにした。襟ぐりのあいた、セクシー服を何とか着こなせるようにした。髪をくるくると巻いた。濃い化粧をした。あの人が何度違う香水を身に纏っていても、冷静に気付かないふりをした。好き、と軽々しく言わなくなった。好き、を求めなくなった。全ては彼の隣にいれるように。大人の女になる為に。
ひぐ、と変な音を立てた喉に、既に何も見えなくなった視界。ボロボロと落ちる涙に、彼の為に頑張った化粧は無駄になっているだろうとぼんやりと考える。まるで化粧と同じくメッキが剥がれるかのように心も元に戻ってゆく。彼と初めて出会った時の、大人を目指す前の私に。単なるガキでしかない、我が儘で真っ直ぐな面白みのない女に戻ってしまう。…ああ、でももう彼が帰る事も無いのだ、いっそ全て剥ぎ捨てて戻ってしまおうか。


「…ク…ロコダ…イル、さ……」




つっかかりながらも発したその名前の呼び方をしなくなったのはいつからか。これでもう完全に戻ってしまった。今まで我慢していた気持ちが溢れて来る。それは心の中だけには収まらなくて、口から次々と零れる。



「す…き、だいすっ……すき…す……」



「っ、遅ぇ…!」



…突然背後から強引に抱き締められ一瞬息が止まった。無骨な指、太い腕、大きく鍛えられた体。知らないはずが無い、この持ち主は…



「クロっ…ダイル、さっ…」



なんで、と体を必死によじって顔を見れば、いつ振りだろうか、彼は笑っていた。クロコダイルさん、とその名を呼び何度も好きだと告げた、あの時の私に向けたように。仕方ねえな、なんて言いながらもその手で頭を撫でてくれた時のように。



「大人の女を求めてたらお前なんか選ぶ訳がない事をいい加減気付け」



そして唇に降ってきたまるで手加減されているような彼らしくない優しいキスに、私は懐かしさを感じてそっと目を綴じた。少し経てば名残惜しむように唇が離れ、クツクツと笑う声に目を開ける。彼の目の色は、優しい。



「そのままの顔でずっとへらへら笑ってろ」





……その日から、化粧台にはピンクのグロスが置かれた。



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