薬種問屋長崎屋で薬師として奉公している八千重は、長崎屋の一粒種の若だんな、一太郎の友である。
また、奉公にあがる前に長崎屋で居候していた事もある八千重は、長崎屋主人夫婦にも可愛がられており、奉公人達からの受けも良い。
そんな八千重は、他の者には見えない人ならざるもの…妖の姿が見えた。
それは少し変わった生い立ち故の事なのだが、長崎屋の若だんなもまた八千重と同じように妖の姿が見えた。
同じ秘密を持つ二人は、時々奇妙な事件に巻き込まれるのだが、今回もまた珍妙な話だった。

「若だんな、入るよー?」

身体が弱い一太郎は、平素のようにこの度三度目の大熱を出し、もう五日も分厚い夜着の下に放り込まれたままだった。
八千重は、一太郎の為に煎じた薬を盆に乗せ、離れの一太郎の寝室の襖の前で声をかけたが返事がないので、寝ているのかと思い、そっと襖を開けたのだが、

「!? 若だんな!?」

布団の中で何やらうんうん唸っている一太郎に熱がまた上がったのかと、八千重は血相を変えてすぐさま一太郎の枕元に駆け寄る。

「うわっ!?」

問答無用で診察しようとしたところで、一太郎が驚いて声を上げ、おや?、と八千重の手が止まった。

「驚いた……お千重ちゃん、どうしたんだい?」

目をまん丸くした一太郎の様子に、八千重はそっと上げていた手を下ろした。

「若だんなが唸っていたから熱が出たのかと思ったんだけれど、違ったみたい……ん? なにか読んでいたの? 文?」

一太郎は、驚いて鼓動の速くなっている心の臓を落ち着かせつつ、八千重の視線が自分が今し方まで読んでいた文にあることに気付くと、八千重に文を差し出した。

「仁吉の袂に入れられた文だよ」

差し出された文に、八千重はきょとんと目を瞬かせたが、仁吉に届いた文だと聞いて、それをそっと受け取る。

「仁吉さんに、文? また懸想文?」
「多分懸想文だと思うけど、読んでみる?」

一太郎に勧められるまま、八千重は文に目を落とし…やがて、首を傾げた。

「…にきちさくしへ、ひとねおみでけしおりよろ、わす…れ………? これは────…仁吉さんって、みみずからも好かれるんですね」
「「「ぶっ!」」」

八千重が至極神妙で真面目な顔で告げた言葉に、吹き出す声が三つ続いた。

「え、どうしたの? 私、何か変な事言った?」

口を押さえ、肩を震わせる一太郎と屏風の中から半分身を乗り出し畳を叩いて大笑いしている付喪神の屏風のぞき、それから可笑しそうに笑っている佐助を見て、八千重は不思議そうにまた首を傾げた。
笑い声が響く離れの部屋の中を見渡し、八千重は目を剣呑に細めて屏風のぞきをただ無言で見つめる仁吉の姿に、皆が笑っている理由も解らないのに、まずいと思った。

「はー…………嬢ちゃん、お前さんあたしを笑い殺す気かい?」

笑い転げた屏風のぞきは、最早身体全体が屏風から出てきていた。
その眦には、笑いすぎたせいか涙が浮かんでいる。
八千重は、微動だにしない仁吉の様子を窺いながら、口を開く。

「私、そんなにおかしいこと言った覚えないけど…」
「みみずがのたくった様な字だとはよく言うけどね、さすがの仁吉でも、みみずから懸想文を貰ったりなんてしないよ」

一太郎が苦笑いで答えれば、八千重は眉を下げる。

「だってみみずの妖が居るのかと思ったのよ」
「あー……妖にも色んなのが居るけど、それはどうかな? みみずの妖なんて居るのかい?」
「あたしは聞いたことないね」
「私もありませんね、残念ながら」

首を左右に振る屏風のぞきに、次いで佐助も首を振る。

「それじゃぁ、この文はやっぱり人からなんだね」
「そ、そうだね…」
「おてのいしたくそうろう……はっきり読めるのは候だけだね」

一太郎は枕元に座った八千重の手元を覗き込むようにして読み上げる。
綴られた文字は、やはり読むのが難しい程のたくっていた。

(確かにみみずからの文ってのがしっくりくるね)
 
一太郎はまた吹き出しそうになるのをこらえて、黙ったままの手代に声をかける。

「ねぇ、仁吉や。この文、お前は読めたのかい?」
「袖に入れられたものを全部読んでいるとは思えませんや。これだけ数があっちゃぁ、目を通すのも煩わしい」

呼ばれた本人でもないのに返事をしたのは、佐助だった。
言われて佐助の視線の先を辿れば、布団の脇に置かれた手代宛ての文は、大人の拳三つ分程の山になっていた。

「すごい……仁吉さん、相変わらずもてますね」
「本当だよ」
「年の暮れの掛け取りに回って、金より多くの付け文を集めて来るんですからね」
「…………………」

仁吉は、無言だった。
八千重は、細まったままの仁吉の瞳に、話を変えた方が良さそうだと文を一太郎に返そうとしたのだが、その文はひょいと後ろから屏風のぞきに取られてしまった。

「あっ…」

八千重が振り仰いで見れば、屏風のぞきは文を訝しげに読んでいる。
屏風のぞきには読めるのだろうかと暫し待つことにした八千重は、やがて口から出た屏風のぞきの言葉に目を丸くした。

「嬢ちゃん、若だんな、この判じ物に限っては今までのものとは違うようだよ。仁吉さん、お前さんきついこと言って女の人を振った事ないかい? 末尾に"しね"と書いてあるじゃないか」
「えぇ?」

驚いてもう一度読もうと文を受け取った八千重の周りを鳴家がきゅいきゅいと囲みだす。

「なんと、確かにそうだ。付け文じゃぁなくて、脅しだったとは恐れ入る」
「それは御難な事で」
「白沢様が大事で。どうなさいまするか」
「身を守るに、仲間を集めまするか」

鳴家達は軋むような声できゅいきゅいと心配気に言葉を発すが、その目にはきらりとした光を宿しており、なんとも嬉しそうな様子だった。

周りできゅいきゅいきゅわきゅわ姦しい鳴家達を物ともせず、八千重はじっと文の末尾を見つめる。
確かに、 屏風のぞきの言ったとおり"しね"という文字にも読みとれた。
仁吉に限って女人にそのような無体をするとは思えなかったが、袖にずっしり重くなるほど付け文を貰う仁吉だから、どこかで知らぬ内に…と言うことも考えられるのではと八千重は眉を顰める。
そんな黙って文を見つめたままの八千重の様子をちろりと見た屏風のぞきは、そりの合わない手代にここぞとばかりに嫌味な言葉を吐き出す。

「仁吉さんも隅に置けないね。若だんなのお守り一筋かと思ったら、そうでもない。陰で女を弄んでいて、恨まれたのかい」
「私がいつ、女にかまけて若だんなのお世話を怠けたって言うんだい? くだらない事を口にしていると、井戸に放り込むよ」

仁吉に凄まれて、紙で出来た屏風の付喪神は寸の間怯んだが、それで引き下がるようなしおらしい性の持ち主ではなかった。

「どこの女なんだい。名は何という?」

たたみかけて聞けば、手代の顔付きは、闇夜に提灯を顎の下から照らしたような物凄いものになってくる。

「もしかして、名前は"くめ"さんと言うのでは?」
「よほど井戸の塵になりたいらしいね」

言葉より早く仁吉の手が伸びた。
畳にのめり込まんばかりに押さえつけられ、屏風のぞきは喉を詰まらせながら必死に喚く。

「あたしじゃ……今のはあたしが言ったんじゃぁない」
「この性悪が。嘘をつくんじゃないよ」

手代が一層のし掛かるようにすると、声もでなくなった妖が畳の上で手足を上に下に必死に振り回す。
仁吉の屏風のぞきを押さえつける手に、白い手がそっと触れる。

「仁吉さん、今言ったのは私です。屏風のぞきが言ったのは嘘じゃぁありませんよ、放してあげてください」

手の主がそう言えば、その顔を見て手代は笑い顔であっさり屏風のぞきを横に放り出した。
「馬鹿な奴」と漏らした佐助を睨み付けながら、屏風のぞきは息を求めて口をぱくつかせている。

「ごめんなさい、屏風のぞき。私のせいで……大丈夫?」

解放された屏風のぞきの背に手を宛て、八千重は申し訳なさそうに眉を下げ屏風のぞきの顔をみる。
屏風のぞきは息を吸い込むのに必死で、返事が出来ない様子だったが、代わりに手代が返事をした。

「構う事はありませんよ。此奴の日頃の行い故です」
「それよりもお千重さん、"くめ"なんて名前をどこから引っ張り出したんです?」

問われ、八千重は先ほどジッと見つめていた文を差し出す。

「これの、最後の文字です。屏風のぞきは先程あのように言いましたが、私、信じられなくって……じっと見ていたら、もしかして、"くめ"と書いてあるのではないかとそう思ったんです」

差し出した文に、四方から視線が集まる。
束の間の静けさの後、寝間に妖達の笑いがはじけた。

「なるほど、なるほど。お千重さんの言った通り、みみずの妖が墨壺に落ちて、悶えたような字ですが、これは"しね"じゃぁない」
「え、ちょっと佐助さん?」
「確かに"くめ"だね。凄いばかりの金釘流だ」
「同じみみずでも、棒を飲まねばこの微妙な感じは出ませんな」

鳴家達は勝手に言い合っておかしそうに笑う。
一太郎は床の中で苦笑していた。

「この文じゃぁなかなか恋しい気分には成れないよね。思う事が…みみずの妖だもの」
「若だんなまで。もう、わざわざ"妖"を強調しなくても良いのに…」

まだ恋というものを知らない一太郎と、その内耐えられなくなってクスクスと笑い出す八千重をそのままに、仁吉は火鉢の側でいそいそと茶を淹れ始めた。
人とは違う妖の手代は、懸想文が若だんなの暇潰しになればいいとだけ願っていて、その先がない。
あったとしても、長年拗らせた想いが胸の内の片隅にあるのみだ。
思いの丈を込めたはずの手紙の主らには、何とも当て外れな事であった。

「いったいどんな女が書いたんだか」
「文を書いたのは、いい年をした娘っ子のはずだろ? どこで習ったのやら、こんな悪筆のまま放っておく師匠がお江戸に居るのかね。その寺子屋は寂れることうけあいだよ」

いつの間にやら立ち直ったらしい屏風のぞきが、布団の傍らに来てまた話に混じってきた。
若だんなは小首を傾げて手代と八千重に問う。

「寂れちゃぁやっぱりまずいのかね」
「ごめん、読み書きは私はおとっつぁんに習っただけだから、よく分からないや」
「お千重さんは、寺子屋で学んだのではなかったのですね。──そうですね、寂れてしまえば、そりゃぁ銭が懐に入って来ませんからまずいでしょうね」

商人の心得が染みついた佐助が頷き、茶をのせた盆を若だんなの傍らに置く。

「寺子屋には普通、五節句や席書きという習字の発表の時に、謝礼を納めるんです。額は所によりまちまちで、二百文から金一分くらいまででしょうかね」
「他にも、畳料だの炭料だの取る所もあります。力量のない師匠と烙印を押されちゃぁ謝礼は親の懐から出てきてはくれません」

そのまま盆にのった内の一つの湯呑みを八千重の前に置きながら続けた佐助に、仁吉が話を引き取った。

「世の中、銭の事には厳しゅうございまするからね」

手代は茶の横におやつの小振りな饅頭を盛った小鉢を置いて、「食べられますか?」と一太郎の顔色を心配気に伺う。
八千重も、周りにいた妖達も一太郎の具合はいかがかと、一太郎に視線が集まる。
もっとも妖達に関しては、饅頭を口にする事が出来るなら、気の良い一太郎が分けてくれるに違いなく、自分達もお相伴に預かれるからという理由が大部分であった。

「起きるよ」

そんな期待のこもった視線を感じたのであろう一太郎は、笑いを浮かべて久し振りに寝床の上に身を起こした。
八千重が起き上がるのを手伝い、仁吉が機嫌良く菓子を小皿に取り分けようとした、その時だった。
不意に、じゃんじゃん、と冬の空を短く固い音が渡っていく。
前置きもなく訪れる不吉な事触れ。
半鐘を続けて衝くその音は、大火の恐れ有りという知らせであり、これが鳴ると火消人足が出る。
手代達は言葉より先に、まず動いた。

「ちょいと、何するんだい!」
「え、ちょ…仁吉さん!? きゃぁ!」

抗議の声を上げるよりも早く、一太郎は掻い巻きの中にくるりと巻き込まれ、八千重は仁吉に抱き上げられる。

「そんな事しなくても、歩けるよ」
「仁吉さん、私、自分で歩けます!」

一太郎と八千重が文句を言う声が急に聞こえなくなったとでも言わんばかりに反応など一切せず、佐助は一太郎の海苔巻を肩にひょいと担ぎ、仁吉は腕から抜け出そうともがく八千重を物ともせず、菓子鉢も茶も蹴散らかして縁側から外に飛び出る。
長崎屋から目と鼻の先、京橋沿いの堀に浮かべてある船でまず一太郎と八千重を火から逃がすつもりなのだ。

「お前達も饅頭に構ってないで、早く土蔵に逃げるんだよ」

佐助の後に続く仁吉に怒鳴られて、転がった菓子に飛びついていた鳴家達は、次々に姿を消した。
屏風のぞきは、まさかお天道様の下を歩いて逃れる訳にもいかず、こういう時の為にと一太郎が離れに用意しておいてくれた地下の穴に、己の本体…古い古い屏風を落とし込んで上を塞いでいる。
そうしている間に、二つずつ聞こえていた半鐘の音が中からかき回すように打つ音に変わった。
近火の証拠で、長崎屋の裏庭を出入りの左官が半纏を翻し、土蔵の目塗りの為に走っていく。
きな臭い風が吹いてくる中、一太郎と八千重は茶船と言われる廻船問屋長崎屋の商売用の小舟で、いち早く岸を離れていた。
八千重も一太郎ももう文句など言っていない。
ただ八千重は立ち上る煙と見え隠れする炎の色を見つめ、ぎゅっと手を胸の前で握り締めた。
きな臭い匂いに混じり、あの時嗅いだ薬の匂いと死臭が蘇ったようで、今にも震えだしてしまいそうになるのを必死でこらえた。

「お千重ちゃん…」
「───大丈夫、分かってる。分かってるから……」

心配気にかけられた声に、無理矢理笑顔を作って返したが、一太郎の目にはあまり大丈夫そうには映っていなかった。

「お千重さん、体が冷えてしまいます」

寒いからと、小舟にあった半纏を肩から掛けられ、八千重は仁吉を見る。

「…ありがとうございます」

やはり無理矢理作っているような顔で微笑む八千重に仁吉はその柳眉を顰める。

「……………」

仁吉は胸の前で握られた八千重の手にそっと触れ、やんわりと解きそのまま握る。

「に、仁吉さん……?」
「──やはりまだ寒いのでしょう? 震えています…手も冷たい。暫くこうしていてください」

驚いたように目を見瞠った八千重に、有無を言わせないとばかりに仁吉が諭すように言えば、八千重は寸の間目をぱちくりと瞬かせたが、やがて安堵したかのようにふんわりと微笑んだ。
それは作った笑顔ではなかった。

「ありがとうございます……とても暖かいです。すみません…暫く、お言葉に甘えます…」
「はい」

そんな一部始終を見ていた一太郎は、海苔巻になってさえいなければ、己が仁吉のように震えるその白い手を握り、抱きしめて、安心させてあげられたのに……そんな事を考えて、やがてそんな思考が浮かんだことに気付くとそれに驚き、戸惑った。
もやもやと煙のように渦巻く己の胸の中に困惑しつつも、一太郎は火事の様子を見つめる八千重を見つめたのだった。