「お前はおとっつぁんよりしっかりしてるから大丈夫だと思うが、あんまりご迷惑をかけるでないよ?」
「おとっつぁん? あの…意味がわからないんだけど…」
「では若だんな、うちの娘を宜しくお願いしますよ」

開次は八千重の声を聞こえてないふりしてかわし、一太郎に頭を下げると朗らかな笑みを一つ浮かべ…本当に一人で帰って行った。
八千重を長崎屋に残して。

「…………………」

八千重は呆然とその背中を見送った。

(一体全体どういうことなの!?)

八千重は訳がわからずただ混乱していた。

「…お千重ちゃん…」

呆然と立ったままの八千重を、一太郎がゆるゆると呼ぶ。
だが、八千重は理由を考えて混乱中で聞こえていない。
一太郎は自分もわけがよくわかっていないので、八千重を落ち着かせる声をかけることが出来ず、おろおろしだす。
八千重は黙ったままなので、部屋は沈黙に牛耳られた。

「―――…これはお前さん、捨てられたね」
「っ、」
「屏風のぞき! お前、なんてことを言うんだいっ」

沈黙を打ち破ったのは、ニヤリと意地悪く笑む屏風のぞきだった。
いつの間にか屏風から出てきて、一太郎と八千重の間に立っている。

「開次先生は、うちの二親に負けず劣らずの親ばかだよ! そんな筈ないよっ」
「……………」

一太郎が憤慨したように屏風のぞきを窘めるように言うが、八千重は一太郎の言葉にえ、と固まった。

(待ってよ、若だんな。うちのおとっつぁんは、若だんなの両親程じゃぁないよ?)

そう言いかけて思い留まる。

(いや、でも…他人様からみたら、そう見えるってこと?)

八千重は衝撃の事実に、冷静さを取り戻し、頭が冴えていくのを感じた。

「ありがとう、若だんな」

幸か不幸かは置いて、一太郎のおかげなので礼を言うと一太郎はホッとしたようにふんわりと笑んだ。
つられて八千重も微笑めば、柔らかい空気が広がる。

「和んでるとこ悪いんだけどね、お前さんが置いてかれた理由が解明されていないんだけど…いいのかい?」
「「あっ…」」

屏風のぞきの呆れた声に、話が逸れたことに気付いた。
…と、そこで襖の向こうから鈴の鳴るような声がかかった。

「一太郎、お千重ちゃんはいるかい?」
「おっかさん? うん、いるけど…」

一太郎は八千重と顔を見合わせ、互いに首を傾げる。

(おかみさんが私に何の用だろう?)

屏風のぞきが慌てて屏風に戻り、八千重は座り直す。
次いで見計らったかのように襖が開いた。
初めて会う長崎屋おかみ、たえはとても四十近くには見えない綺麗な人だった。
だがそれよりも八千重は懐かしさに胸がきゅっとなる。

(あ、また…)

それは一太郎や、仁吉と佐助に感じた感情と似ていた。

(変なの)

八千重は困惑しながらも、にこにこと笑むたえに頭を下げる。

「お初にお目にかかります。医者、開次が一人娘八千重にございます。先日は、素敵な品を戴き、誠にありがとうございました」
「いいのよ、そんな堅っ苦しい挨拶なんて!」

ゆっくりと頭を上げる前に、八千重は顔をぐいっと両手で挟まれた。

「!??っ」

強引に向き合わされ、状況についていけず戸惑うがたえは気にもしておらず、満足げににこにこと笑う。

「話に聞いた通りね! それに簪も櫛も思った通り似合ってるわ」
「あ、ありがとうございま…「嬉しいわっ ずっと可愛い娘が欲しかったのよ!」…す?」

(娘?)

たえの言葉に首を傾げる…と言っても顔はきっちりと固定されているため、胸中で、である。

「一太郎も勿論可愛いのだけれど、男の子だし…。やっぱり女子は華があっていいわー。さ、お千重ちゃん行きましょ」
「は、はい?」

(どこへ!?)

八千重が目を白黒させる。
顔を解放されて八千重はホッとするが、たえの押しの強さに気圧される。

「ま、待ってよおっかさん」
「一太郎、おっかさんはお千重ちゃんが嫁御に来てくれるんなら大歓迎よ」
「え。ちょ…おっかさん!?」

たえは一太郎の静止も聞かず、楽しそうにうきうきと八千重を引き連れて離れから退出して行った。

「………………」

一太郎の、八千重とたえの後を追って浮いた手が、虚しげに固まっていた。
その顔は、たえの『嫁御』発言で仄かに赤く染まっている。

「猪突猛進だぁねえ」

人の話を聞いちゃいないよ、と屏風のぞきは楽しそうにクスクス笑った。

「笑い事じゃないよ…」

空に浮いていた手を下げて、一太郎は呟く。

(何がどうなってるのか、誰か教えておくれ…)

一太郎が困った顔をしてる横で、屏風のぞきと鳴家が菓子鉢の菓子を分け合って食べていた。
誰かに聞きに行きたくても、薬種屋が襲われる物騒な事件が三件起きている。
その内一件は一太郎が被害者である。
例によって一太郎を心配した主人夫婦並びに兄やたちに、離れから出る事を禁じられている一太郎は、部屋にいるしかなかった。
店に顔を出すのも駄目だと言われているのだ。
それには昨日の仕置きも少なからず入っているように思えてならなかった。

「若だんな、入りますよ」
「うん? 佐助かい? いいよ、どうしたんだい?」

ス、と開かれた襖の先には、佐助だけではなく、仁吉の姿もあった。

「おや、仁吉もいるのかい」

季節の変わり目は風邪が流行る。
寄って、薬種問屋は最近忙しくなってきた。
薬種問屋の手代であり、薬を調剤する事の多い仁吉が店から離れるとは…何かあったのだろうか?
パタン、と襖を閉め、二人並んで一太郎の向かいに座る。

「少し、お話がありまして」

仁吉と佐助は、どこか困惑しているようだった。
そんな二人の様子が先程の自分と同じように思えて、一太郎は自然と口が開いていた。

「話? それは、もしかしてお千重ちゃんのこと?」

二人はチラリと目を合わせ、仁吉が肯定した。
それからきょろきょろと部屋を見渡す。

「そういえば、お千重さんの姿が見えませんね。…厠ですか?」
「さっきおっかさんが連れて行ったよ」
「おかみさんが?」

苦笑いして言った一太郎の言葉に佐助が目を丸くして問い返す。

「それは―――…何の用事でしょう? 聞きましたか?」
「聞く間もなく引きずるようにして出て行ったからねぇ。…おかみさんの事だから、着せ替え人形にでもしてるんじゃないかい? あの子は綺麗な子だからね、そりゃぁ飾り甲斐があるだろうよ」

一太郎が答えるより早く、屏風のぞきが桜餅片手に言う。
一太郎は、たえの性格に、充分ありえそうだと思った。

「…おかみさんならやりかねないね」
「きゅわきゅわ、我見たい!」
「我も我もっ」
「我も見てみたい」

屏風のぞきの言葉に、嬉々として鳴家が飛び付き、何匹か饅頭や桜餅片手に影に消えた。

「あっ……」

消えた鳴家を目で追った一太郎が思わず声を漏らす。

「何だい。若だんなも見たいのかい?」

おやおやと言いながらにやにやと若だんなを見る屏風のぞき。
一太郎は図星なのか、顔をサッと赤く染めた。
その様子に更に口を開こうとしたのだが、睨む手代二人に気付くとさっさと屏風に戻って行った。

「お前たち、いつまで食べてるんだい」

八千重が来たためいつもよりも多い菓子鉢の中身に喜んでがっついていた鳴家たちは、佐助の低い声に蜘蛛の子を散らすように影に消えた。

「やれ、やっと静かになったね」

仁吉が息を吐き、一太郎に向き直る。
佐助が一太郎と八千重の湯呑みに気付き、サッと盆に乗せると一太郎に新しい茶を淹れ始めた。

「若だんな、昨日下っぴきの正吾さんが言ってた事を覚えてますか?」

仁吉の問いに一太郎は頷く。
昨日、一太郎が仁吉に見つかり、帰った長崎屋で説教を受けた後、店に慌てて下っぴきの正吾が現れたのだ。
正吾は、西村屋に続き、また薬種屋が殺されたと話したのだ。
しかも、その下手人はまだ捕まっていない。

「薬種屋がまた殺されたって話でしょう? しかも、下手人は違うのに皆同じような事を言ってたって…おかしな事件だよね」

佐助が淹れた茶を受け取りながら、一太郎は答える。
仁吉は頷き、言葉を続ける。

「では、先程、開次先生がだんな様とお話をしたのは知っていますか?」
「知っているよ。お千重ちゃんから聞いたもの」

一太郎は素直に頷き 、答える。

「お千重さんは、話の内容について知ってましたか?」
「ううん。知らないと言っていたよ。後で問い質すと言っていたし……ねえ、二人はどうして開次先生がお千重ちゃんを残して行ったのか知っているんだろう? 教えておくれよ」

佐助と仁吉が神妙な顔をみせる。
その様子に、何か悪い事があったのかと不安になった。

「私はだんな様から聞いたのですが、開次先生が仰るには、昨日―――…」

仁吉から聞かされた話に一太郎は顔を歪めた。





「ああっ、本当に似合うわね! 簪はどれにしましょうか?」

どこぞの部屋に連れて来られた八千重は、いつの間に用意したのか、たえが持ってきた着物や振袖を次から次へと着せ替えさせられ、その度にその着物に合う簪やら櫛やら帯留めやらを飾られ、軽く目を回していた。