「引っ掛かる? 何が?」
酒を飲んだせいか潤んだ瞳とやや紅潮した頬、濡れたぷっくりとした唇できょとんと首を傾げる八千重に一太郎の心の臓がトクリと跳ねた。
「お千重ちゃん、お酒を飲んだのかい?」
「あ、ばれた? えへへ、ちょっとだけね」
おどけたように笑う八千重の吐息は熱い。
一太郎は思わず目を逸らした。
「? 若だんな?」
「何でもないよ、それより―――…ねえ、さっき割れた墨壺を見たと言ったのは、誰だったかね?」
高鳴る鼓動が聞こえまいかと案じながらも平然を装い、一太郎は話をしている妖たちに声をかけた。
(割れた墨壺?)
「あたしですよ」
「我も」
「私が話を始めまして」
八千重が首を傾げるそばから、返事をする声が上がる。
名乗った三人に、一太郎がその墨壺を買った者を見たかと問いた。
「いえ、私が見かけた時は置いてあっただけで」
「我も知りませんが」
一人、鳴家だけが首を縦に振った。
「あたしが墨壺に気が付いたのは、ちょうど客が安さに惹かれてそれを買おうとしていたからで。大工ではないから、道具として使えなくても構わない。飾っておくのにいいからと言って、求めていきました」
「そいつはどういう奴だった? 覚えているかい?」
鳴家はうーんと一度唸り、次いで思い出したのか口を開く。
「年の頃なら三十路の後半から四十路にかかるかというところでしょうか。働き盛りの職人でしたよ」
「大工でないと言ったのなら、その人の生業は何だったのだろうか」
この問いに、鳴家はあっさりと答えた。
客は店主とのおしゃべりの中で、色々なことを言っていたのだ。
「ええと、植木職人じゃぁなかったかと」
大きく息を飲んだのは一太郎だけではなかった。
八千重と手代達も思い当たったに違いない。
手代二人は顔を見合わせている。
「確か柳屋の若だんなを襲ったのは……」
「うん、出入りの植木職人だった」
八千重の言葉に一太郎は頷いた。
偶然だろうか。
一太郎と八千重は、下手人は妖に取り憑かれていたとみている。
最初に殺された棟梁が失くしたのは墨壺。
底の裂けた古い墨壺を買った者は、四人目の下手人を思い起こさせる職人だった。
(何かありそうな)
(真相の糸口が見えてきたような)
一太郎と八千重は顔を見合わせる。
どうやら考えてることは同じらしい。
「ねえ、蛇骨婆に野寺坊。頼みがあるんだけど」
「おや、なんです?」
徳利を抱え込み、良い機嫌の二人が顔を向けてくる。
「それぞれが見かけた店から、底の裂けた墨壺を買ったはずの者を知りたいんだ。調べてくれないか」
そう告げると、まだ飲み足りない様子の妖たちは良い顔をしない。
「今から調べに行っても店は閉まってるし、明日からでいいんじゃないかな。ね、若だんな?」
「勿論。今日はゆっくり飲んで食べておくれ」
その言葉にまた顔を緩ませた妖たちは、「お任せを。必ず探って参ります」と約束して、上機嫌でぐい飲みを傾けた。
妖たちは再び浮かれだして、酒とほら話で盛り上がり始めた場から視線を外し、一太郎は部屋の隅に下がる。
一太郎に八千重も続き、部屋の隅の手代達の元へ行く。
「今の話、どう思う?」
八千重が隣に来たのを確認して、一太郎が口を開く。
「何かを推測する前に、知っておかなくてはならないことがありますよね」
八千重が口を開く前に佐助が己に言い聞かせるように言う。
「殺された棟梁の持っていた墨壺が、その底の裂けたものと同じかどうか、確かめることが先です。こいつは棟梁のおかみさんに聞いてみればすぐ分かることで」
「日限の親分さんに尋ねてもらいましょう。この頃若だんなが店に出ないので、心配なすってちょくちょく寄って下さるんですよ」
「そうだね、話はその後……か」
もし墨壺が棟梁の持ち物だったとしたら。
もい下手人たちが皆、裂けた墨壺を手にしていたとしたら。
話の中心にはその大工道具があることになる。
(裂けた墨壺……か)
妖たちは一段と盛り上がってきている。
普段ならいくらなんでも騒ぎ過ぎだと手代達や一太郎のうちの誰かから一言あるはずだ。
だが今夜は誰も止めはしない。
八千重達は、ただじっと考えに沈み込んでいた。
知りたいことが向こうからやってくるのに、二日とかからなかった。
「若だんな、思ったより元気そうでよかった。お千重ちゃんも…さきが心配していてね」
日限の親分が、薬種問屋の奥座敷に現れて、八千重と一太郎は久しぶりに家族や奉公人達以外の人と会って話をしていた。
「おさきさん、体調はどうですか?」
「体調は相変わらずだな。お千重ちゃんに会いたいって毎日のように言ってるよ」
苦笑いする親分に、八千重と一太郎は笑む。
「それよりも、どうして墨壺のことなぞ気にかかったんで?」
日限の親分が言うには、棟梁の墨壺は大きな左手が彫り込まれたものであったという。
「若だんなとお千重さんと最近の殺しのことを話していたんですよ。たまたま棟梁のところから盗まれたという道具のことが話題にのぼったもので。すみませんねぇ、下らないことを親分さんにお聞きしてしまって」
言い訳をしながら、仁吉が大きな菓子鉢を運んできた。
菓子屋は気が早いのか、今日の練り菓子は、四角に切ったキラキラとした寒天で飾られた、花の形のものだった。
「おや、これは紫陽花かね。いいねえ、しっとりとした気分になるよ」
「本当。かわいい」
八千重が見てにっこりと顔を綻ばせているのを尻目に、日限の親分は、風情を感じている風な割りには、最初の一つを二口ばかりで飲み込んでしまった。
さらに幾つか口にしながら、親分はさりげなく若だんなと八千重に注意をした。
「二人は襲われた口だから、昨今の殺しが気になるのは分かるがね、あまり考えなさんなよ。体に障る」
そうですね、と大人しく答える若だんなと八千重に、日限の親分は笑って請け合った。
「嫌な殺しが続いているが、下手人は捕まっている。凶事は続くもんじゃないよ。お千重ちゃんも、すぐに家に戻れるだろうさ」
お決まりの金と甘いものの包みを抱えて、親分が帰っていった後には八千重達は離れに引っ込み、徳利と焼いた干物が用意された。
「あたしの調べた店の墨壺は、売れていました。買ったのはまだ若い男です。半纏を着ていて、大工か左官のようだったが、はっきりしないと古道具屋に言われました」
蛇骨婆の報告に、八千重は息を飲む。
もうすっかり治った腕の傷が疼いた気がした。
続いて、早く酒を飲みたそうにしている野寺坊が口を開いた。
「我が訪ねた店で墨壺を買ったのは、胡麻塩頭のじいさんだったとか。伊勢町に小体な店を出している小間物問屋の隠居だそうで。あまり高くない古道具を、時々買っていくと申しておりました」
「そう……左官と胡麻塩頭のじいさん、か」
思っていた通り、と言うべきだろうか…一太郎が八千重を見ると、八千重は一つ頷く。
やはり、壊れてしまった墨壺は、突然人を殺してしまった三人の手に渡っていた。
元々が殺された大工の持ち物だったことを考えると、短い間に四人もの殺しに関わっていたことになる。
「偶然とは思えないよ」
「私も」
手代たちもこれには頷いている。
二人の妖は、褒美を貰い、たいそう喜んで消えた。
「この墨壺が、人に憑いて人を殺していた張本人だと思う。どうだい?」
「私も若だんなと同じ意見」
八千重は力強く頷いたが、仁吉は素直に頷かない。
顔つきが、中々噛み砕けない湿気た煎餅でも口にしている様子に似ていた。
「確かにこいつは怪しいですがね。ただ、妖たちは壊れた墨壺が付喪神になっているとは言わなかった。将来なれたかもしれないのにと惜しんでいたんです。妖でないのなら、どうやって人に憑くんです?」
「あ、確かに」
「これは私が考えた話だから、裏打ちがあるわけじゃないけど……今集まっている皆の話から考えたんだ。ちょっと聞いて欲しい」
そう言って一太郎が始めたのは、この件の初手からの話だった。
「始まりは、やはりぼてふりの親心からだと思うんだよ」
ぼてふりの長五郎は、息子にだけはもう少しましな暮らしをさせたかった。
思いついて大工の棟梁のところに頼み込んでみるが、人手は足りているからとあっさり断られる。
「思うに、ここで長五郎は墨壺を盗んだんじゃないかな。棟梁が気に入っている古い大工道具。軽くあしらわれたと恨んで、意趣返しのつもりで持ち出したのさ。その後うっかり壊してしまったか、己の手でわざと傷つけたか。まあ、修理も出来ないくらいに裂かれていたのだから、多分故意にやったんだろう」
棟梁は道具が失くなったことと、ぼてふりが来ていたことを繋いで、返すように言ったのかもしれない。
だが怒りに任せて、ぼてふりは墨壺を壊してしまっている。
ただ返す訳にはいかなくなって、人気のない聖堂の塀脇に大工を呼び出したのだ。
八千重は一太郎の話を聞いて、甚く感心していたが、手代たちは違ったようで、首を傾げている。
「何故そんな手間をかけたんですかね。家を訪ねて、悪かったと謝ればいい話で」
佐助の疑問に、若だんなは溜め息を吐いた。
(栄吉は、私が世間知らずだって言うけど、手代たちよりはましだと思うよ)
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