夏は知らぬ間にホグワーツ城の周りに広がっていた。
空も湖も抜けるように明るい青に変わり、キャベツほどもある花々が温室で咲き乱れていた。
しかし、ハグリッドがファングを従えて校庭を大股で歩き回る姿が窓に見えないと、ハリーにとってはどこか気の抜けた風景に見えた。
アスカが姿を消し、ハグリッドとダンブルドアが居なくなったホグワーツは、外も変だったが、中は何もかもが滅茶滅茶におかしいことになっていた。
ハリーとロンはハーマイオニーの見舞いに行こうとしたが、医務室は面会謝絶になっていた。
マダム・ポンフリーは患者の息の根を止めにまた襲ってくる可能性がある、と医務室のドアを少しだけ開けて、2人に厳しく言った。
ダンブルドアという存在が居なくなった事で、城の中の恐怖感がこれまでになく広がり、誰も彼もが心配そうな緊張した顔をしていた。
夏が近付き、どれだけ陽射しが城壁を暖めても、窓の桟が太陽を遮っているかのようで、皆の気持ちは一向に晴れない。
笑い声は、廊下に不自然に甲高く響き渡るので、忽ち押し殺されてしまう。
かくいうハリーも、暗い表情と感情が拭いきれなかった。アスカは、まだ帰ってきていない。
何故、様子のおかしかったアスカの後をすぐに追わなかったのか。
何故、ハーマイオニーが1人で図書室に向かうのを止めなかったのか。
何故、狙われていると知っていたアスカの傍を、拒否されたからと言って離れたりしていたのか。
去年、アスカは、ハリーとロンが拒絶して冷たい態度をとっても、さり気なく気にかけていてくれていたというのに。
一度に親友が2人も居なくなってしまった。
ハリーは、毎日自分の行動を、考えを、後悔していた。
そうして、ハーマイオニーとアスカの事を考えていると、決まってダンブルドアの残した言葉が反芻される。

『わしが本当にこの学校を離れるのは、わしに忠実な者がここに1人も居なくなった時だけじゃ。覚えておくが良い。ホグワーツでは、助けを求める者には必ずそれが与えられる』

しかし、この言葉がどれだけ役に立つのだろう?
皆がハリーやロンと同じ様に混乱して怖がっている時に、一体誰に助けを求めれば良いのだろう?

(今までは、ベルやハーマイオニーが、僕達が知らない知識や魔法で助けてくれていた。けれど、今は2人とも居ないんだ。相談にのってくれる人が居ない。悩みを聞いてくれる人が居ない……)

寂しい、とハリーはポツリと口内で呟く。
パーシーの話がどこからか洩れて、アスカが後継者だったのかもしれない、という噂が密かに流れている。
アスカと親しかった者は、そんな事あるはずがない、と口々に否定したが、余り関わり合いのなかった生徒達からすれば、恐怖で支配された重苦しい空気の蔓延る城の中で、発狂しそうな感情を吐き出す方法の1つとしてアスカの存在は好都合だった。
彼女の養父であるダンブルドアの不在も、噂が蔓延するのを助長していた。
ハリーやロンの耳にも入る程噂が広がり、2人は更に気持ちが沈んでいたが、その噂のお陰でハリーが後継者だと陰で言う生徒が減ったことはハリーにとっては数少ない良いことの1つと辛うじてだが言えた。

(怒った声でもいいから、君の声が聞きたいよハーマイオニー。ベル……どうか、無事でいて…)

ハーマイオニーは、マンドレイク薬が出来上がれば元に戻るのが分かっているので寂しさはあるものの、まだマシだった。
アスカが今何処にいるのか、酷い目にあっていないか、最近の酷い顔色の体調不良な姿を目にしているのも相俟って、ハリーは不安だった。
ロンや双子は、不安と心配が隠せないハリーに、ベルは自分達より優秀だからきっと大丈夫だと言ったが、ハリーの不安を払拭するには足りなかった。

(ベルが優秀なのは分かってる。分かってるけど、スリザリンの継承者に怪物、おまけにハグリッドとダンブルドアを城から追い出したルシウス・マルフォイが相手だ。いくら優秀だってベルは女の子なんだ。僕らと同じ2年生の女の子。怖い思いを…泣いていなければいいけど……)

ハリーの脳裏に、去年の末にハグリッドから貰ったアルバムの写真の一枚を見せた時に、ポロポロと静かに涙を零したアスカの姿が浮かんだ。
ロンは、アスカが泣いている姿を見たことがない、想像も出来ない、なんて以前に言っていたけれど、ハリーは声を殺して静かに涙を落とすアスカの姿を実際に見ている。
あの時、ロンはハーマイオニーと話をしていて、2人とも気付いていなかった。

(そういえば、あれは…どういった涙だったんだろう? あの時は、今まで母親の顔を見たことがなくて初めて見て感極まったのかと思っていたけど……今思い出してみるとなんだかちょっと違うような気が……)

ハリーは、ふと記憶を辿って首を傾げる。
あの時、アスカが泣いてしまったのは、リリーとジェームズとの幸せな思い出が蘇ったからなのだが、ハリーはそんな事を知る由もない。
若干の違和感を感じながらも、ハリーは気のせいだろう、と考えることを止めた。
そうして、またダンブルドアの言葉が頭を過る。
だがやはり、ダンブルドアの言葉よりもハグリッドの残してくれたヒントの方がずっと分かりやすかった。
蜘蛛の跡を追えばいい。
だが問題は、跡をつけようにも城には一匹も蜘蛛が残っていなかった。
ハリーは嫌がるロンを説き伏せて手伝ってもらい、行く先々で隈無く探したのだが、今のホグワーツは自分勝手に歩き回る事は許されず、他のグリフィンドール生と一緒に行動しなければならない為、とても面倒な作業だった。
他の生徒達は、先生に引率されての教室移動を喜んでいたが、ハリーはいい加減うんざりだった。
そんな中、たった1人だけ、恐怖と猜疑心を思い切り楽しんでいる者がいた。
ルシウス・マルフォイの息子、ドラコ・マルフォイだ。
まるで首席になったかのように、肩を聳やかして学校中を歩いていた。
一体ドラコは何がそんなに楽しいのか、ダンブルドアとハグリッド、アスカが居なくなってから2週間程経った後の魔法薬の授業で、ハリーは初めて分かった。
ドラコのすぐ後ろに座っていたので、クラッブとゴイルに満足気に話すのが聞こえてきたのだ。

「しかし、ベル・ダンブルドアは本当に愚かな奴だ。せっかくの父上の厚意を無碍にしたから、報いを受けたんだろう。今頃きっと秘密の部屋の怪物に睨まれて後悔しているだろうさ。今更ダンブルドアを選んだことを後悔しても遅いのにな。父上こそがダンブルドアを追い出す人だろうと、僕はずっとそう思っていた」

ドラコは声を潜めようともせず、堂々と話す。
ハリーは、ドラコの言葉に目を見開いた。
腹の底が熱く滾るような怒りで目の前が真っ赤に染まった気がした。
ハリーは椅子から勢いよく立ち上がってドラコの喉元に杖を突きつけてやろうとしたが、立ち上がる寸前で左右から伸びてきたロンとディーンの手に腕を掴まれた。

「お前達に言って聞かせたろう。父上は、ダンブルドアがこの学校始まって以来の最悪の校長だと思ってるって。多分今度は適切な校長が来るだろう。『秘密の部屋』を閉じたりすることを望まない誰かが。マクゴナガルは長くは続かない。単なる穴埋めなのだから……」

アスカがルシウス・マルフォイから贈られた何かをドラコに突っ返した事は知っている。
ドラコはあの時の事をネチネチと根に持っていたようだ。
ハリーが、ドラコを睨み付けたままなんとか2人の手を離そうとしていると、セブルスがハリーの側をサッと通り過ぎた。
ギクリ、とハリーの動きが止まり、ロンとディーンは小さく息を吐く。
セブルスは、ハーマイオニーの席も、アスカの席も、大鍋も、空っぽなのに何も言わず、見もしなかった。

「先生」

ドラコが、大声でそんなセブルスを呼び止める。

「先生が校長職に志願なさってはいかがですか?」
「…これこれ、マルフォイ。ダンブルドア先生は理事達に停職させられただけだ。我輩は、間もなく復職なさると思う」

ハリーには、セブルスがドラコに咎めるように言っている薄い唇が、綻ぶのを必死で堪えているように見えた。

「さあ、どうでしょうね。先生が立候補なさるなら、父が支持投票すると思います。僕が、父にスネイプ先生がこの学校で最高の先生だと言いますから……」

セブルスは薄笑いしながら地下教室を闊歩したが、幸いにもシェーマスが大鍋にゲーゲー吐く真似をしていたことには気付かなかった。
ハリーは馬鹿げたやり取りに、頭が幾分か冷えて落ち着いてきたが、それでもドラコは喋り続けていた。

「『穢れた血』の連中がまだ荷物を纏めていないのには、まったく驚くねぇ」

アスカがこの場に居たならば、ドラコの声は忽ち消されていたか、もしくは黙っていろと口を縫われていただろうな、とハリーは眉間に皺を寄せて考えた。
だが、ドラコの口から出てきた次の言葉に、ハリーは自分がされたように慌ててロンの腕を掴む事になった。

「次のは死ぬ。金貨で5ガリオン賭けても良い。グレンジャーじゃなかったのは残念だ……」

その時、終業のベルが鳴ったのは幸いだった。
皆が大急ぎで鞄や本をかき集める騒ぎの中で、ロンの出鼻を挫いたからだ。

「やらせてくれ」
「ダメだよ。君の杖がどういう状態か忘れたのかい?」
「構うもんか。杖なんか要らない。素手でやっつけてやる」

唸るロンをハリーとディーンが引き止めるが、ロンは2人の手を振り解いて今にもドラコに飛びかからん勢いだ。

「急ぎたまえ。『薬草学』のクラスに引率していかねばならん」

セブルスが先頭から生徒達の頭越しに怒鳴った。
生徒達は皆ぞろぞろと2列になって移動した。
ハリー、ロン、ディーンが殿で、ロンは未だ2人の手を振り解こうともがいていたが、セブルスが生徒を城から外に送り出し、皆が野菜畑を通って温室に向かう時になってようやく暴れなくなった。
薬草学のクラスは沈んだ雰囲気だった。
仲間が3人も欠けている。
ジャスティンとハーマイオニー、それからアスカだ。
スプラウト先生は、皆に手作業をさせた。
アビシニア無花果の大木の剪定だ。
ハリーが萎えた茎を一抱えも切り取って、堆肥用に積み上げていると、ちょうど向かい側にいたアーニー・マクミランと目が合った。
アーニーとハリーがこうしてしっかりと会うのは例の図書室以来だった。
アーニーはスーッと深く息を吸って、非常に丁寧に話しかけてきた。

「ハリー、僕は君を一度でも疑った事を申し訳なく思ってます。君はハーマイオニー・グレンジャーを決して襲ったりしない。僕が今まで言った事をお詫びします。あの時…あの図書室で、ベル・ダンブルドアに言われた時に気付くべきだった。そうすれば、彼女はまだ───…いや、僕達は、今皆同じ運命にあるんだ。だから…」

アーニーは、丸々太った手を差し出した。
ハリーはその手を掴み、2人は握手を交わした。
アーニーとその友人のハンナがハリーとロンの剪定していた無花果を一緒に刈り込む為にやってきた。

「あのドラコ・マルフォイは、一体どういう感覚をしているんだろう? こんな状況になっているのを大いに楽しんでいるみたいじゃないか? ねぇ、僕、あいつが『スリザリンの後継者』じゃないかと思うんだ」
「全く、いい勘してるよ。君は」

ロンはハリー程容易くアーニーを許してはいないようだった。
そんな事よりも、ハリーは先程アーニーが言っていたことで気になる事があって、その話を聞きたくてタイミングを伺っていた。

「ハリー、君はマルフォイだと思うかい?」
「いや」

ハリーがあんまりにもキッパリと言い切ったので、アーニーもハンナも驚いたようだった。

「それよりアーニー、君、さっきベルがどうとか言ってたよね? あの───…図書室でって」
「え?」

ハリーの問いに、アーニーはハンナと目を合わせ、お互いに何とも言えない苦笑いを浮かべ頷き合う。

「あの時、君が──…その、怒って出て行った後、ベル・ダンブルドアが現れたんだ」
「ベルが? ベルがあの時、あそこに居たの?」

ハリーは、アーニーの言葉からまさかとは思っていたが、実際にそうなのだと聞いて、目を見張った。

「僕達、君と、ベルのあんまり…その、良い話をしていなかったから、出て来るに来れなかったみたいで…」
「アーニーは、危うく殺されかけたの」
「「え?」」

話を聞いていたロンも、物騒な言葉にハリーと声が重なった。

「自分がハリーと離れているのは理由があるからだ、邪推するな。大事な友達を傷付けるのは許さない!って」

アーニーは、あの時アスカが触れたように自分の首をユルリと撫でる。
その表情は、どこか恍惚としているようでほんのりと頬が朱に染まっていた。
ハリーとロンは、アーニーの豹変に引き気味だ。

「ごめんなさい。アーニーは、ベルのちょっとした信者みたいになってて……」
「ベルの」
「信者?」
「そうよ。アーニー以外にも、何人か居るみたい」

そ、そうなんだ…、とアーニーの様子を横目で見て、ハリーとロンは今度こそ引いた。

「でも、アーニーの気持ちも分かる気がするわ。ベルって、格好いいもの」
「え、あのおっかないベルが!?」

ハンナの言葉にロンは顔を真っ青をして、信じられない!という顔をしたが、ハリーは内心で同意をしていた。

(分かる気がする。ベルが傍に居てくれると頼もしいし、安心する。嬉しい。ベルは、あの時僕の為に怒ってくれたんだ。あぁ、だけどベルは格好いいだけじゃなくって──…)

「可愛い…」

無意識にポツリと小さく呟いた声は、3人には聞こえなかった。
ハリーが視線をロンの方へ戻した時、視界に入った大変モノに気付いて自分が感じた色んな感情を忘れて、思わず剪定鋏でロンの手をぶってしまった。

「アイタッ! 何をするん──」

声を上げるロンは、言葉の途中でハリーが指差している地面を見て、固まった。
そこには大きな蜘蛛が数匹、ガサゴソ這っていた。
ハグリッドが言っていた蜘蛛だ。
ようやく見つけたのだ。

「あぁ、ウン」

ロンは、嬉しそうな顔をしようとして、やはり出来ないようだった。

「でも、今追いかけるわけにはいかないよ」

今は授業中であり、更にはアーニーとハンナが聞き耳を立てているのが分かる。
ハリーは逃げていく蜘蛛をジッと見ていた。

「どうやら『禁断の森』の方に向かってるみたいだ」

なるべく直視しないようにしていたロンは、ハリーの言葉にますます情けなさそうな顔をした。

「ベルが居たら、あの蜘蛛達塵になってるかも」

ロンは、蜘蛛嫌いの同士がここに居たらと思う反面、居たら蜘蛛の命はなかったかも知れないという気持ちと、2つを抱えて大きな溜め息を吐いた。

薬草学のクラスが終わると、スプラウト先生が『闇の魔術に対する防衛術』のクラスに生徒を引率した。
ハリーとロンは皆から遅れて歩き、話を聞かれないようにする。

「もう一度、『透明マント』を使わなくちゃ。ファングを連れて行こう。いつもはぐと森に入っていたから、何か役に立つかも知れない」
「いいよ」

ファングは臆病なのだが、その事はハリーはすっかり忘れているようだ。
ロンは落ち着かない様子で杖を指先でクルクル回しながら頷く。

「えーと、ほら……あの森には狼男が居るんじゃなかったかな?」
「ベルはあの森に狼男なんて居ないって言ってたよ。それに例え居たとしても、満月じゃなければただの人間なんだって」
「ベルが? それ、いつの話?」

ロックハートのクラスで、一番後ろのいつもの席に着きながらロンがハリーを見る。

「一年の時。僕達罰則で入った事があっただろ? あそこにはいい生き物も居るよ。ケンタウルスも大丈夫だし、一角獣も」

ロンは禁断の森には入ったことがなかった。
ハリーは入ったことが一度だけあったが、出来れば二度と入りたくないと思っていた。
それに、今回はあの時一緒だったアスカは居ない。
ハリーとロンがそれぞれ思考に耽っていると、その時、ロックハートがウキウキと教室に入ってきたので、ハリーとロンもだが、皆唖然として見つめた。
他の先生は誰もがいつもより深刻な顔をしているのに、ロックハートだけは陽気そのものだった。

「さあ、さあ! 何故そんなに湿っぽい顔ばかり揃ってるのですか?」

ニコニコと朗らかな表情で問うロックハートに、皆呆れ返って顔を見合わせ、誰も答えようとしなかった。

「皆さん、まだ気がつかないのですか?」

ロックハートは、誰も答えない生徒達は物分かりが悪いとでも言うかのように、ゆっくりと話す。

「危険は去ったのです! 犯人は連行されました」
「一体誰がそう言ったんですか?」

ディーンが大声で聞くと、ロックハートは満足気に数度頷く。

「なかなか元気があってよろしい。魔法大臣は、100%有罪の確信なくして、ハグリッドを連行したりしませんよ。ベル・ダンブルドアもハグリッドが居場所を白状すればすぐに帰ってくるでしょう!」

ロックハートは、1+1=2の計算式を説明するような調子で答えた。

「しますとも」
「自慢するつもりはありませんが、ハグリッドの逮捕については私はウィーズリー君より、些か詳しいですよ」

ロンがディーンより大声で言った言葉に、ロックハートは自信たっぷりに応える。
「僕、何故かそうは思いません」、と言いかけたロンは、机の下でハリーに蹴りを入れられて言葉が途切れた。

「僕達、″あの場には居なかった″んだ。いいね?」

そう言ってはみたが、ハリーはロックハートの浮かれぶりにはムカついた。
たまに問題を起こすちょっと抜けたところがあるハグリッドだが、ロックハートが彼は良くない奴だといつも思っていた、とか、ゴタゴタは一切解決した、とか言う自信たっぷりな話しぶりにイライラした。
ハーマイオニーが好きだと言っていた『グールお化けとのクールな散策』を、ロックハートの間抜け顔に思いっきり投げつけたくてたまらなかった。
なんとか我慢して感情を腹の中に収めて、ロンに走り書きを渡す。

″今夜決行しよう″

ロンは、メモを読んでゴクリと生唾を飲み込んだ。
それからハーマイオニーのいつも座っていた席とその隣の席を横目で見る。
彼女達が仲違いをする前の、2人の定位置の空っぽの席が決意を固めさせたのか、ロンは頷いた。