なまえで呼んで



彼女が長崎屋で一緒に暮らし始めて、もう随分と経つ。
彼女は、私とは勿論のこと、私の両親、手代達や離れの妖達とも仲良く、毎日楽しそうに笑っている。
私は彼女の笑顔を見ると心がふんわり温かくなる。
だけど、ひとつだけ。
ひとつだけ気になることがあるんだ。

「仁吉さん」
「はい」
「佐助さん」
「何ですか?」
「若だんな」
「……なんだい?」

彼女は何故か私だけ、名前で呼んでくれない。
おとっつぁんやおっかさんも名で呼び、栄吉も名で呼ぶ。
奉公している小僧ですら名で呼ぶと言うのに、何故か私は『若だんな』。
そのことを屏風のぞきに相談すると、

「そりゃぁ若だんなは若だんなだからじゃぁないのかい?」

と、身も蓋も無い言葉で返される。

「そんな顔しなさんな。とにかく、本人に言えば良いのさ。自分も名で呼んで欲しいってさ」

ニヤニヤと笑う屏風のぞきの顔が気になったけれど、言っていることはご尤も。
……そういうわけで、ずっと朝から機会を窺っているんだけれど、なかなか話を切り出せない。
私がモタモタしている間に、もう日が沈みそうだ。
「……な…若……若だ…な若だんな? 若だんなってば!」
「な、なんだい?」

どうしたものかと考え込んでいた私に、彼女は顔を顰める。

「もう、何回も呼んだのに…。どうしたの? 今日は朝からなんか様子がおかしいよ? 具合悪い? 仁吉さんと佐助さん呼ぶ?」
「だ、大丈夫! 悪くなんてないよ! ただ少し考え事をしていただけで…」

私は慌てて否定した。
あの兄や二人にそんなことを言ったら、私は忽ち蒲団で簀巻きにされてしまう。

「考え事? どんな?」
「え? えー…っと……」
「私に言えない事?」
「ううん、そんなことないよ!」

彼女が、寂しそうな顔をしたから、私は慌てて頭を振った。
そんな顔、させたくないよ。

「実はさ、聞きたいことがあるんだよ」
「私に?」

私は、これを機に聞く事に決めた。

「あのさ、ど、どうして私だけ……名で呼んでくれないんだい?」

何故か心の臓の鼓動が激しい。
それはもう痛いくらいで、私は着物の上からギュッと心の臓を握る。

「若だんなだけ? あれ……そうだった?」

キョトン、とした彼女の様子と言葉に、私は拍子抜けした。

「おとっつぁんやおっかさん、仁吉や佐助、栄吉や妖達までみんな名で呼んでいるだろう?」
「んー…藤兵衛さん、おたえさん、仁吉さんに佐助さん。栄吉さん、屏風のぞきに鳴家、獺に野寺坊、鈴彦姫……あ、確かに!」

彼女は口に出してみて、ポンと手を打った。
どうやら本気で気付いていなかったらしい。

「……でも、若だんなは若だんなだもの。皆もそう呼んでるし…」

何でもないことのように、屏風のぞきが言っていたのと同じ事を言って、彼女は笑う。
だけど私は頭を振った。

「君には、名前で呼んで欲しいんだよ」
「………………」

彼女の頬が仄かに赤くなる。

「で、でも今更名前で呼ぶのは、恥ずかしいよ」
「じゃ、じゃぁ少しずつでもいいから」
「―――…それなら……」

恥ずかしそうでも、こくりと頷く彼女に嬉しさが込み上げる。

「い、い…一太郎、さん?」
「わっ…な、何だい?」

名を呼ばれた瞬間、私の心の臓が跳ね上がったものだから、びっくりしてしまった。
そんな私の様子に、彼女は照れて赤くなった顔で怒る。
「何だいって、やだ、若だんなったら…一太郎と呼んで欲しいって言ったのは若だんなの方じゃない」
「ご、ごめんよ。すぐに呼んでくれるとは思っていなかったから、びっくりして……」

私の言葉に、彼女はキョトンとして、それからぱっと花が咲いた様に笑った。

「ふふふ、何それ」

ああ、やっぱり私は彼女の笑顔が大好きだ。
彼女が笑うとほんわかと胸が温かくなる。
彼女に釣られて、私も笑った。

「……やれやれ、若だんなったら嬢ちゃんに名を呼ばれたってだけであんなに浮かれて……こりゃぁ『お前さん』と呼ばれるようになったら、どうなっちまうんだろうかねえ」

一太郎達の様子を見ていた屏風のぞきの声は、微笑み合う二人には全く聞こえていないのであった。










(あなたは、トクベツだから…)


← →