温泉on ice当日。
着替えを済ませた2人のユーリが衣装の上にジャージを着て、諸岡アナにインタビューを受けると言うので「行ってらっしゃい」と、同じように衣装の上にロシアのジャージを着たエレナが手を振ると、呆れたようにユーリがその手をガシリと掴んだ。

「何言ってんだ。お前も一緒に行くんだよ」
「え、やだ。私は勝負しないし、ただのオマケだもん。インタビュー要らないよ」

手を掴んだまま引きずられ、エレナは両足で踏ん張って行きたくない!!と抵抗するが、ユーリがギロリと睨む。

「そのマスコミ嫌いどうにかしろよ、クソ女王! おいカツ丼! お前反対側持て!」
「「え」」

言われた勇利は驚き、エレナは逃げられない!、とうなだれた。
抵抗をやめたエレナにユーリは、無駄な抵抗しやがって、とブツブツ文句を言いながら歩き、エレナはトボトボと歩く。
一番最後にそんな対照的な2人を見ながら苦笑いを浮かべる勇利が続いた。

(ちょっと、残念だったな)

エレナがもう少し抵抗していれば、その手を握る事が出来たのに…と自分が考えていることに気付き、勇利はその考えを頭から追い出すかのように頭を振った。

「長谷津エキシビション温泉on iceが行われるアイスキャッスル長谷津へ来ております。さぁ、早速ですが勝生勇利選手とユーリ・プリセツキー選手、ゲスト出演されるエレナ・ベシュカレヴァ選手にこちらへ来ていただきました」

カメラに向かって話す諸岡アナの隣に勇利、ユーリ、エレナの順に並び、エレナは居心地悪そうにテレビカメラを見る。

(…私、勝負関係ないのに……ユーラの馬鹿)

「新SPは、ヴィクトル・ニキフォロフ振付。今日がそのお披露目対決ということで、お2人に意気込みを伺いましょう」
「え〜っと…この後、長谷津で温泉入ったりして貰えたら…」
「ちょっとちょっと、観光アピールじゃなくて、自己アピールを頼みますよ」
「…ユーリは2人も要らない。ぶっ殺す」

マイクを向けられた勇利が意気込みではなく、観光アピールをしだしたものだから諸岡アナは慌てたが、ユーリがテレビカメラを睨み付けながら諸岡アナの欲しかった言葉を話したのでロシア語でお礼を言った。

「では続いて、今日の特別ゲストとして出演される無敵の女王、エレナ・ベシュカレヴァ選手にお話を伺いましょう。本日はお2人の後に一曲滑られるとのことですが、一体どの曲を滑られるのでしょうか? お2人同様に、来シーズン用のSPのお披露目ですか?」

マイクが自分の口元に差し出され、エレナは苦笑いで口を開く。

「来シーズン用のSPは、実はもう出来ていますがまだ秘密です。今日は滑りません。ご期待させてしまっていたならすみません…大会で、ご覧いただければ嬉しいです」

申し訳なさそうに眉を下げて微笑むエレナに、諸岡アナはマイクを自分の口元に戻す。

「では、今日は過去に滑られたプログラムを滑られるのですね?」
「はい。ヴィクトルからのリクエストで『私を離さないで』を滑ります」
「おお! 私も個人的に好きなプログラムです。『私を離さないで』といえば、ファンの間では、ヴィクトル選手の『離れずにそばにいて』と対に成っているとも、アンサー曲だとも噂されていますが、その事についてはいかがでしょうか?」
「…この曲を作ってくれたのは私の父ですし、振付は私自身でやりました。ヴィクトルのプログラムとその様に噂されているのは知りませんでしたが…、確かに言われてみればそう感じる部分もありますね。私自身、驚いています。不思議ですね」
「それでは───…やはり、恋人同士ゆえのフィーリングという事でしょうか?」
「…え」

話が思いがけない方向に飛び火し、エレナは目を丸くした。

「……このプログラムは、私にとって大事な2人の事を想って作りました。残念ながら、その2人の中にヴィクトルは入っていません。ですから不思議だと言いました。諸岡アナの仰るような意味で言ったわけではありません」

苦笑いを浮かべて言ったエレナに、諸岡アナは慌てて話を纏めにかかる。

「そ、そうなんですね…すみません、早とちりで…。そ、それでは、最後に今日の意気込みをお願いします」
「今日の私は2人のオマケですが、全身全霊心を込めて滑ります。私の事も見てくださいね?」

テレビカメラに向かって手を振り、エレナは微笑んだ。

「ありがとうございました! それでは最後に突然コーチ業へ転身したヴィクトル・ニキフォロフさん! どうぞ!」

話は終わったとエレナが勇利達の方へ向かおうと一歩踏み出した瞬間、突然グッと肩を抱かれてエレナは小さく悲鳴を上げた。
諸岡アナのアップを映していたカメラから諸岡アナが横へ引くと、カメラには驚いて隣を見上げるエレナと笑顔で着物を着ているヴィクトルの姿が映し出された。
勇利達はギョッと目を見開く。

「はぁい! ハセツよかとこイチドはおいでー!」

片言の日本語で言ったヴィクトルに、エレナは混乱する。

「ちょ…ヴィチューシュカ何言って…てか手を離してっ」
「ヴィクトル何やってんの?」
「今日の対決が一気に安っぽくなるからやめろ!」
「え?」

勇利とユーリもヴィクトルを非難するように加わるが、ヴィクトルはキョトンとしている。
よく見れば、ヴィクトルが着ている着物と襷には『はせつ観光大使』と書いてある。

(いつの間に観光大使なんかになったの!?)

エレナが衝撃に固まっていると、眉間に皺を寄せたユーリが確認するようにヴィクトルに問う。
「俺らの戦い、ちゃんと見定めてくれるんだろーなぁ!?」
「勝った方の願いを聞いてくれるんだよね?」
「へ? ……勿論だよ!」

ユーリに続いて不安そうに勇利が聞けば、ヴィクトルはキョトンとしたまま一瞬固まり、分かってるよとばかりにキリッと笑って頷く。

「絶対忘れてたな」

ユーリの呆れたような声に、エレナは苦笑いで頷いた。
インタビューは終わりとなり、エレナ達は一度ロッカールームへ向かう。
ヴィクトルにずっと肩を抱かれたままだったので、エレナは動き辛かった。
既に入場していた観客達は、そんな2人の姿をデジタルカメラやスマホで激写し、SNSで世界中に拡散する。
その写真と、生放送で流れたエレナがヴィクトルを愛称で呼んでいる映像、さらにはこの後ファンに撮られた数々の写真が合わさり、瞬く間にトップニュースへと成っていく事をエレナ達はまだ知らない。
ロッカールームに入って漸く解放されると、エレナは息を吐いた。

「…いつの間に観光大使になんてなったの?」
「この前市長さんから頼まれて。どう? 似合う?」

青い着物に上機嫌なヴィクトルに、エレナは笑う。

「うん、似合ってる。けど、そろそろ着替えた方がいいよ」

会場内に流れるアナウンスが聞こえてきてエレナは告げるとロッカールームから追い出す。
やれやれとエレナが息を吐くと、背後から不機嫌なユーリの声が響く。

「おい、俺聞いてないんだけど?」
「……なにが?」
「しらばっくれる気か? 来シーズン用のSP、もう出来てるって?そんなん知らなかったんですけど?」
「そりゃあ言ってないもの。知らなくて当たり前じゃない?」

寧ろ知ってるって言われた方がびっくりするよ、とエレナが笑うと、ユーリは眉間の皺を濃くした。

「……え、ユーラもしかして拗ねてるの?」
「ちげぇし! 調子乗ってんじゃねえよ、レーナのクセに」
「私は調子に乗る事も許されないんだ」

ユーリの言葉にエレナはクスクスと笑う。

「じゃあロシアに帰ったら、見てくれる? まだ振付が終わった位だから見せられるようなレベルじゃないんだけどそれでもいい?」

エレナの提案に、むすっとしたままだったユーリがピクリと反応し、静かに頷く。

「…じゃあそろそろアップしようか」

エレナの言葉にそれぞれ身体を動かしだす。
エレナはロッカーを開けて鞄から手帳を取り出しポケットに入れるとロッカーを閉めるとそのままロッカールームから出て行った。

「今のって…」

勇利は身体を伸ばしながらエレナの行動を見ていた。

「………あれはアイツの試合前のルーティンだ」
「ルーティン? あの手帳で?」

同様にエレナの行動を見ていたのだろうユーリが柔軟しながらどこか複雑そうな顔で勇利の呟きに答えた。
勇利がユーリを見て首を傾げると、ユーリは舌打ちを1つして息を吐く。

「レーナの話を本番前に聞いて、取り乱さない自信あんの? 無えなら聞くな。黙って柔軟してろ」
「………なんだよそれ。エレナちゃんのルーティンと僕が何か関係あるって? それともヴィクトル?」

怪訝な顔で見つめてくる勇利に、ユーリは顔を顰める。

「うるせぇな。俺は、これ以上口出さない事にしたんだよ。聞くなって言ってんだろ?」
「そこまで言われたら気になるよ! 僕、今日で自分の気持ちにけりを付けるって決めたんだ! 最後なんだ、どうせなら知っておきたい!!」

勇利の力強い言葉に、ユーリは目を見張る。

「けりをつけるって……お前、諦めんのか?」
「────そうだよ。僕、エレナちゃんとヴィクトルが部屋で2人で話してるの聞いちゃったんだ。エレナちゃんが、ずっと…ヴィクトルのこと好きだったんだって話」
「…はぁあ!? んなわけねぇだろ! だってアイツがずっと好きだったのは……っ!」
「え?」

思わず口から飛び出した言葉に、ユーリはハッと気付いて口を噤んだ。

「諦める事にしたんなら、尚更聞かない方がいい。本当に……聞くな、そのまま黙って諦めろ。それが賢明だ」

ユーリは切なそうに顔を歪め、勇利に背を向けた。
だが、勇利は黙ってなど居られなかった。
自分に背を向けたユーリの肩を力強く掴む。

「…僕は、後悔してるんだ。あの時、ちゃんと自分の気持ちを伝えていればこんなに悩む事も、苦しむ事もなかった筈なんだ。エレナちゃんに劣等感を感じて大会で声を掛けなかった事も、長谷津で再会出来て2人で話した時も! チャンスはあったのに……意気地なしだったから! 勇気が…傷付く勇気がなかったから!」
「カツ丼……」
「ユリオ、僕はもう散々傷付いたし、散々悩んで、諦める事に決めたんだよ。僕が知らなかった事がまだあるなら、知りたい。教えて」
「───お前の気持ちは分かったけど、聞いたら尚更後悔するぞ? 最悪、決意が揺らいで諦めたくても諦められなくなって…今以上に苦しむかも知れねぇ。それでも良いんだな?」

脅しにも似た確認。
ユーリは勇利を見定めるかのようにその瞳を見つめる。
静かに頷いた勇利の目は、ユーリの脅しにも一切揺れなかった。
ユーリの視線から、逃げなかった。

「……話すから、柔軟しながら聞け。俺は忠告したんだ、これで負けても文句言うなよ」
「分かった」

勇利は頷くと、柔軟をしていた場所に戻り身体を伸ばし始めた。
それを見届けたユーリが、そっと口を開く。

「──アイツは本番始まっちまえば自分の力を出せる強さがあるが、メンタルそこまで強くないからプレッシャーや緊張でガチガチになるんだ。無敵の女王が周りから受ける重圧は酷く重い。そんな今にも潰れそうなアイツを落ち着けてくれんのがあの手帳の中に挟んである写真。なんでも、ジュニアGPF初出場した時にその写真にキスしたのがきっかけでそれから本番前に必ずするようになったらしい。そうすると緊張せずに滑れるらしい」

写真、と聞いて勇利の脳裏に手帳に挟まれていた写真が浮かぶ。

「写真……って、いつも同じ?」
「ジュニアの時から変わってねぇらしいな…まぁ、写真を見たことあるのはミラだけだけど」

自分がこっそり盗み見た事は棚に上げてユーリが言うと、勇利は息を呑んだ。

「その写真に、レーナの初恋の相手が映ってる。アイツ、いつも大切そうに手帳に挟んで鞄に入れて持ち歩いてる」

勇利の動きが止まった。

「写真に誰が映ってるか、お前は分かるか?」

勇利は、ユーリに問われても返事を返せなかった。
勇利は知っている。
手帳から滑り落ちた写真に映っていたのは、幼い頃エレナの父が撮った写真。
幼いエレナの隣で笑っているのは…。

「────僕、だ」

口から滑り出た声は弱々しい程に小さく、掠れていた。
勇利は自分が大きな勘違いをしていたことに気が付いた。

「知ってたのか?」
「…昨日、鞄から手帳が落ちた時に偶然見た」

驚くユーリの問いに、勇利は力無く答えた。
心ここに非ずといったような様子に、ほら見ろという言葉は飲み込み、代わりに別の言葉を告げる。

「アイツの初恋は…アイツがずっと好きだったのは、お前だよ。けど、今アイツが好きなのはお前じゃない…ヴィクトルだ」

ユーリの言葉は、勇利の心を深く突き刺した。
傷口は深く、とても立っては居られない。
フラリ、と勇利の身体が揺れ、崩れるようにベンチに腰を下ろした。
うなだれるように俯く勇利の姿に、ユーリは舌打ちを1つ落とす。

「おい、呆けてる暇はねぇぞ。さっさと柔軟終わらせて集中しろ。俺は、手加減なんざしねぇからな!?」

ガッ、と勇利の胸倉を掴み上げ、今にも泣き出しそうなその顔をユーリは鋭く睨み付ける。

「…ユリオ……うん、ありがとう」

勇利は緩く笑うと、立ち上がる。
この一週間、勇利は悩み苦しむ日々が多かったが、それだけではなかった。

「負けない!!」

力強い声と瞳に、ユーリはホッと息を吐いたがすぐに勇利を睨み付け、勝つのは俺だ!、と怒鳴るように言い放ち、そのまま2人はアイスリンクに繋がる控え室に移動した。





episode*7 温泉 on ice






ロッカールームを出たエレナは、その場を静かに離れるとポケットから携帯音楽プレーヤーを取り出すとイヤホンを耳にはめ、再生ボタンを押し音楽を流す。
流れ出した音楽を聞きながら壁を使って柔軟を始め、意識を本番モードへ切り換えていく。
今日は大会というわけではないから、いつものような無敵の女王なのだから勝って当たり前、負けることなど許されないといった風の重圧はそこまで感じない。
生まれ故郷で滑るということは、自を知っている者も多いだろう。
そして、父を知っている者はもっと多い。
それよりもやはり一番の要因となっているのは、勇利への想い。
今日で最後、というエレナの決意が失敗出来ないというプレッシャーとなり緊張をより高めている。
柔軟を終え、エレナはその場で軽く飛びながらプログラムの重点箇所を脳裏でおさらいし、流れる曲に合わせて身体を動かす。
曲が終わると、エレナは息を吐き出しポケットから手帳を取り出す。
手帳から写真を取り出すと、写真に映る幼い勇利を見つめる。
エレナはずっと、この勇利の笑顔に励まされてきた。
勇利に自分の滑りが、想いが届くようにと祈りながら勇利への想いを込めて滑った。
それも、今日で終わる。
エレナはそっと指先で写真に映る幼い勇利に触れる。

「…………今まで、ありがとう」

写真にポタリと雫が落ち、流れていく。

(全部…今までの全部の想いを込めて、滑るから……だから、私だけを見て欲しい。一曲だけで良いから、貴方の為に滑る私だけを見て)

祈りにも似た願いを込めて写真にキスをすると、涙の味がした。
サッと指先で頬に少しだけ残る涙を拭うと、エレナは写真を抱きしめるように胸に押し付け、それから名残惜しそうにゆっくりと手帳に挟み込み、ポケットにしまう。
踵を返して控え室に向かうエレナの心は、穏やかに落ち着いていた。

エレナが控え室のドアを開けて入ると、既に2人のユーリと着替え終えたヴィクトルがいた。
エレナに気付いたヴィクトルが、声をかけようとするがエレナの表情を見ると開けた口を閉ざし、壁に寄りかかったまま目を閉じた。
エレナはどこかソワソワとした様子のユーリに気付くと苦笑いを浮かべる。

「ユーラ」
「…お前、遅えんだよ。もう始まるだろーが」
「間に合ったじゃん。ちゃんと見てるから、落ち着いて」

ユーリの背に笑いながら手を添える。

「練習嫌いのユーラがあんなに頑張ったんだもの。全力で滑っておいで」

優しい声音と表情に、ユーリの眉間の皺が解ける。

「ユリオくーん、そろそろ出番だよ」

カーテンで隔てられたリンクへの出入口から優子が顔を出して告げると、ユーリはジャージを脱ぐ。
現れた衣装に、優子は悲鳴を上げた。

「きゃーーー! それは、ヴィクトルジュニア時代伝説のスケクロス! 生で見れるなんて、美しい…っ」
「ゆ、優子ちゃん…鼻血…!」

ヴィクトルの演技を見た時同様に流れ出る鼻血を両手で押さえ、優子がキラキラと輝く瞳でユーリを見つめる。

「スッゴい似合ってるよ、頑張って!」
「お、おう…」

照れたようにユーリが素直に頷くのを珍しそうにニヤニヤしながら見てたエレナは、急に振り向いて手を伸ばしてきたユーリに虚を突かれた。
グッと肩を掴まれて引き寄せられた身体が、ユーリの肩にぶつかる。
自然とエレナの耳に近付いた
ユーリの唇が、小さく開く。

「俺のアガペーは、じいちゃんとお前だレーナ。ちゃんと見てろよ、馬鹿姉」
「!」

エレナが目を見開くと同時に、言うだけ言ってユーリはカーテンの向こうへ消えて行った。
エレナは呆然とそれを見送ると、口を両手で覆う。

「なに、今の!?」

ヴィクトルが飛んできてエレナの隣に並ぶ。

「……ユーラが…今……」
「うん?」

徐々に紅潮していくエレナの頬に、ヴィクトルの顔が険しくなる。
次いで、それを唖然と見ていた優子と勇利も、エレナの次の言葉を固唾を飲んで待つ。

「…どうしよう、私、スッゴく嬉しい! 今すぐ滑りたい!!」
「え…い、いやいや、ユリオの番だから我慢して!?」

嬉々として言ったエレナに、3人は三者三様に驚く。

「あ、そっか……って、そうだ見なきゃ!」

ユーリの名前をコールする声が聞こえ、エレナは慌ててユーリが脱いだジャージの上着をひっつかむとカーテンから飛び出した。
エレナに続いてカーテンから出て来た勇利は、沢山の観客で埋まる会場に目を丸くした。
エレナは既にリンクサイドでユーリを見ている。
エレナの隣にヴィクトルが立ったので、勇利はエレナの逆隣に立った。
エレナは、気付いているのかいないのか分からないが、真剣な表情でジッとユーリだけを見つめている。
スポットライトを浴びて、ユーリが身に纏う衣装に散りばめられたストーンがキラキラと輝く。
落ち着いた表情のユーリがリンクを滑り、観客席から歓声が上がっている。
実況席で、諸岡アナがユーリと曲の紹介を終えると同時にユーリはリンクの真ん中でポーズをとる。
一拍後、曲が流れ始めるとユーリもリンクの上を滑り出す。
エレナは自分が最後に見た演技との違いにハッと息を呑んだ。
透明感のあるソプラノと神々しく荘厳で神秘的な音色、無償の愛のコンセプトの曲をユーリは滑らかな動きと軽やかなステップで滑っていく。
最初のジャンプであるトリプルアクセルも綺麗に決まり、出だしは上々に見えるが問題は後半だ。
エレナはユーリの動き、表情を少しも見逃さないと静かに厳しい目つきで見つめる。
後半に入ってのコンビネーションジャンプ、更に最後のクワドトウループも綺麗に着氷したユーリに、会場が拍手で沸く。

(ここからが、さらにキツい…)

エレナは次々と目まぐるしく変わるステップシークエンスをこなせば息を吐く間もなくスピンへ移行、ユーリの苦しそうな表情にエレナは眉間に皺を寄せる。
両手を掴んで上へ伸ばしながら上体を反らし、ユーリの演技が終わった。
会場から歓声と拍手が送られ、エレナは1つ、大きく深呼吸をする。

「ユリオー! 今までの中では一番良かったよー!」

隣でヴィクトルがユーリに呼び掛けると、呪縛から解放されたかのように上に伸ばしていた手を下ろしヴィクトルを見る。
肩で息をしているユーリのその表情は苦しそうに、納得がいっていないとばかりに歪んでいた。

「長谷津の観客を虜にしたユーリ・プリセツキー!」

ワッと拍手と歓声をあげる観客に礼をしてユーリはリンクサイドに戻ってきた。
エッジカバーをユーリに渡し、その肩にジャージを掛けてやるとエレナはまだ息が落ち着いていないユーリの頭を数回撫でる。

「……随分成長したね、ユーラ。良かったよ」
「!?」

エレナの声にユーリが顔を上げると、笑顔のエレナがユーリの頬をグニ、と摘まむ。

「最初の方は、ね。気になった所が何点かあったけど、それよりもやっぱりスタミナ不足。後半キツそうななのバレバレな表情での演技はいただけないね、集中切れてアガペーになりきれてなかった。練習嫌いが祟ったわね……ロシアに帰ったらみっちりヤコフコーチにしごいて貰いなさい。スタミナさえあれば、もっと光るよ。もっと演技に余裕が出来て表現力も増す…練習は、裏切らない」
「………うるせぇな、わかってるよ」

頬を摘まむエレナの手をうざったそうに払いのけ、ユーリはエッジカバーを付け終わるとリンクサイドに寄りかかるように立つ。

「ね、お姉ちゃんって、もう一回言って?」

ユーリを追いかけて隣に立ったエレナは、肩に掛けられたジャージに袖を通しているユーリのジャージをちょいちょい引っ張ってキラキラ期待するような顔でユーリに言うと、ユーリが心から嫌そうに顔を歪めた。

「ぁあ!? ふざけんな、んなこと言ってねぇ!」
「えぇー? さっき言ってくれたじゃん、ケチー」
「俺は馬鹿姉って言ったんだよ! お姉ちゃん、なんてキモイ言い方してねぇ!」
「あ、言ってくれた」
「!!っ もう、お前あっち行け! 俺は1人で見る!!」

ドン、と顔を赤くしたユーリに押されエレナが後ろによろけると、話をしていた勇利とヴィクトルにぶつかった。

「!?」
「ゆ、勇利くん、ヴィーチャごめん! ユーラに押されて……」
「大丈夫だよ。レーノチカこそ、大丈夫?」
「うん、少しよろけただけだから。ごめんね、話してたのに邪魔して……私、あっちで見てるから。勇利くん頑張ってね」

エレナが本番前のコーチと選手の話を邪魔してしまったとさっさと離れようとしたが、その肩を勇利が掴み引き留めた。

「待って! エレナちゃんも一緒に聞いて!」
「え」

勇利の声に、何故、と疑問を浮かべたエレナだったが、勇利の目が真剣に自分を見つめていたので何も言えず黙って頷き、勇利に向き直る。

「ヴィクトル、僕、スッゴい美味しいカツ丼になるんで、しっかり僕だけを見ててください! 約束ですよ!?」

言ってヴィクトルの首に手を回し抱き締める勇利に、ヴィクトルは薄く微笑む。

「勿論さ。カツ丼大好きだよ」

ヴィクトルから返答を得ると、勇利はヴィクトルを抱きしめていた腕を緩めるとヴィクトルの目を挑むように見て、もう一つ、と呟く。

「今日だけ…今だけで良いから許して下さい」
「え? ────…オーケー…分かった」

勇利が何を言っているのかキョトンと目を瞬かせたヴィクトルだったが、黙ってこちらを見ているエレナの姿を目にすると、勇利の言いたい事を理解して複雑そうに苦笑いをして目を伏せた。
ありがとう、と申し訳なさそうに礼を述べた勇利は、ゆっくりとヴィクトルの首に回していた腕を離し、自分達を黙って見ていたエレナを見つめる。

「エレナちゃん」

エレナに一歩近付き、その手を取ると勇利はわけが分からず戸惑っているエレナの頬をもう片方の手で包むように触れると顔を近付ける。
エレナは手と頬を固定され、間近にある真剣に自分だけを真っ直ぐ力強く見つめている勇利の瞳に、気圧され息を呑んだ。

「今から君を今の僕の全力で誘惑するから、僕から目を逸らさずしっかり見てて」
「え…?」
「僕だけを見て…約束だよ」

声と同時に頬に柔らかな感触、次いで勇利に掴んでいた手を持ち上げられ、その掌に柔らかな感触を感じると、勇利の手と顔は離れて行った。

「───っ……!?」

数拍置いて、額と掌にキスをされたとエレナが気付いて口を開くより先に、勇利はエッジカバーを外し「持ってて」と告げると、アイスリンクへ滑り出した。

「それではご紹介しましょう。日本を代表するスケーター。そして、遅咲きのニュースター勝生勇利ー!」

スポットライトを浴びた勇利は、観客席から贈られる声援と歓声に応えるように両手を伸ばしながらアイスリンクの中央へ滑っていく。
勇利が着ている衣装は、ヴィクトル
が世界ジュニアの際に着ていたもの。
当時髪が長く、中性的な容姿をしていたヴィクトルに合わせ、男女両方をイメージ出来るように作った衣装。
エレナは、やけに大きく何時もよりはっきりと見える背中を見つめながら混乱する頭と早鐘を打つ心臓に未だ状況整理が出来ずにいたが、勇利がターンしてこちらを振り向いた瞬間、混乱していた事など全て吹き飛んだ。
勇利の表情が、纏う雰囲気が、先程とは全く違った。
伏せられた瞳に、睫が影を落としている。
エレナは引き寄せられるように一歩踏み出す。
諸岡アナが曲を紹介し終えると、一拍後、曲が流れ出す。
艶めかしく腕をくねらせて上に上げ、滑らかな動きで体のラインをなぞる。
曲に合わせて一瞬動きが止まり、勇利がふっと誘うように挑発的な色気たっぷりにこちらを見て微笑むと、エレナはカッと顔が焼けるように熱くなった。
勇利から溢れる色気で顔を真っ赤に染めながらも、エレナは勇利から目が逸らせない。
隣から聞こえる口笛の音も聞こえない程、エレナは瞬きも呼吸すらも忘れて勇利の演技にのめり込む。
早いテンポのラテン調の要素が組み込まれた曲に合わせて、勇利は軽やかにステップを氷上で踊るように滑る。
エレナが一昨日見ていた演技とは全く違った。
色気を漂わせる流し目や、指先まで気を配ったしなやか動きは、カツ丼をイメージしているとは到底思えない。
勇利の動きは、カツ丼と言うよりも……そこまで考えて、エレナは気付く。

(ああ、そうか……これは、カツ丼じゃない)

自分でも気付かない内に、エレナの唇は弧を描いていた。
エレナはただ真っ直ぐに、勇利に言われた通りに勇利だけを見つめていた。
だから気付かなかった。
自分の隣にいるヴィクトルもエレナと同じように勇利を見つめている事も、そんな2人を悔しそうに見ているユーリの事も、気付きはしなかった。
エレナの目に映っているのは今は勇利だけだ。
後半に全てのジャンプを入れるという鬼のようなプログラム。
最初のジャンプは成功したが、次のクワドサルコウは着氷に失敗し片手を着いた。
その後のコンビネーションジャンプは綺麗に決めて見せた勇利に、歓声が上がる。
ユーリは氷上で艶やかに滑る勇利と、それを真剣に見つめるエレナとヴィクトルを見て、眉間の皺を濃くすると、そっと踵を返した。
勇利の演技が終わると、会場からワッと拍手と歓声が沸き起こる。
おかえりー、という声に息が上がって顔を紅潮させ、少し髪を乱した勇利は会場を見渡す。
笑顔で歓声に応えるように手を振る勇利を、演技を終えた今も目が逸らせず、ぎゅう、と勇利のエッジカバーを持つ手に胸の前で抱き締めるように力が入った。
自分の心臓の音がやけにうるさく身体中に響き、顔は最初に受けた衝撃からずっと赤いまま。

「……これは…参ったなァ……」

参ったと言いながらも、エレナの口元は弧を描いており、瞳はキラキラと輝く。

(想いを今日で断ち切る筈だったのに…あんなの見せられたら、あんな風にスケートで誘惑されたら……)

「ユウリ!」

隣にいた筈のヴィクトルが既に移動しており両手を上げて勇利を呼ぶ声に、ハッと気付いたエレナは慌てて踵を返して自分もヴィクトルがいるリンクサイドに向かう。

「あんな美味しそうなカツ丼初めて見たよ! 素晴らしー!」

戻ってきた勇利を抱き締め、嬉々として話すヴィクトルに勇利の顔が綻ぶ。

「あ、ありがとうございます!」
「ただ、1つ言って良いかい?」

腕を離して勇利を見つめるヴィクトルから笑顔が消えたので、勇利はびくりと肩を揺らしながらも頷く。

「は、はい!」
「あのイーグルからのトリプルアクセルはなんだぁ? 練習した中で一番最悪だ。それに…」

1つ所ではなくペラペラとダメ出しを始めたヴィクトルに、勇利は氷上に倒れた。

「? 勇利?」

(ああいう所はヤコフコーチそっくりだな)

エレナは苦笑いでヴィクトルの隣にしゃがみ込み、そっと口を開く。

「勇利くん」
「っ!!」

透き通る声名を呼ばれ、勇利はバッと上体を起こす。
勇利の目に入ったエレナは柔らかく細めた瞳で勇利を見つめていた。

「約束通り、ちゃんと勇利くんだけ見てたよ。すごく、エロスでした。女の私が嫉妬しちゃいそうなくらいの美女だった」
「…え」

目を見開く勇利にエレナは悪戯気に笑うと預かっていたエッジカバーを差し出す。
ぽけっと口を開けたままエッジカバーを受け取ると、エレナは立ち上がりジャージを脱ぎ、自分のエッジカバーを外してヴィクトルに預ける。

「ヴィチューシュカ、約束……お願い」
「…うん、分かってる」

ヴィクトルの真剣な表情に、エレナは眉を下げて笑みを浮かべると氷上に上がる。
未だ氷上に上体を起こしたままの勇利の背後に回ると、上体をかがめその耳元に唇を寄せる。

「今度は、私を見て。全身全霊で滑るから…私から目を逸らさずに、しっかりと私だけを見ていて?」
「!!っ」

ぞく、と勇利の背筋を何かが走った。
振り返った勇利の目に映ったのは真剣な目で自分を見下ろすエレナの姿。

「さっきのお返し。…約束ね」

フッと挑発的に笑みを浮かべたエレナは、氷上で踵を返すとスカートを翻して中央へ向かって滑り出す。





「ユリオくん! ちょっと…っ」

ガラガラとスーツケースを引いてアイスキャッスル長谷津を立ち去ろうとしているユーリの背に、優子が声を掛けた。
立ち止まったユーリの背に、優子は眉を下げる。

「結果も聞かないで帰るの? まだ、エレナちゃんの演技も終わってないのに…見なくても良いの?」
「…聞かなくたって分かるだろ、あんなの……。それに、レーナの演技なら別に……今日の演技を見るべきなのは俺じゃなくてアイツだろうから」
「え?」

ユーリが最後に言った言葉がうまく聞き取れず、優子が眉を顰める。

「ヤコフのとこで俺は続ける。レーナには、先に空港で待ってると伝えろ。じゃあな、ダスヴィダーニャ」
「……そっか…」

ロシア語で別れの挨拶を告げると、残念そうに呟く優子にユーリは振り向く。

「勘違いするな。ファイナルで優勝するのは俺だから! そう言っとけ!」

ユーリの言葉に優子が笑顔になると、ユーリはそのまま一度も振り返らずに歩き去った。
見送っていた優子の耳に、会場から洩れる歓声と拍手が届き、優子は慌てて会場へ駆け戻る。

「───さあ、最後を飾るのは、長谷津出生のロシアの無敵の女王、エレナ・ベシュカレヴァ!」

スポットライトを浴びて、エレナは拍手と歓声に応えるように優雅な所作で両手を広げる。
赤を基調とした衣装は、スカートの裾や胸元に散りばめられてストーンがライトを浴びてキラキラと煌めく。
ユーリがやたらヒラヒラしていると言った通りに、動きに合わせて翻る袖やスカートはエレナの脚や指先をよく映えさせる。
勇利は慌ててリンクからリンクサイドへ上がるとブレードにエッジカバーを取り付ける。

(見ていて、勇利くん。私の今までの想い……貴方だけの為に滑る、私を)

中央で祈りを捧げるポーズを取り、1つ深呼吸してエレナは目を閉じる。

「曲は、ラファイル・ベシュカレヴァ氏作曲『私を離さないで』」

諸岡アナが曲を紹介すると、一拍後、雪が降るような音で静かに曲が始まる。
流れるように後ろに滑りながら立ち上がったエレナは表情を軽やかなステップで滑り出す。
滑らかに動く腕と指先まで意識された手が、まるで雪が降っているかのように見える。
テレビの生放送で一度見たプログラムは、勇利の記憶と同じだった。
だが、エレナの表情は、あの時に見た悲しげなものではなく楽しそうに微笑んでいた。

「え……なんで…」

踊るように複雑なステップを氷上に刻むエレナの姿は、とても楽しそうだった。
エレナの下に下ろされている片手は、まるで誰かの手を握っているように、引っ張って走っているかのように
見える。

(…あ……)

エレナの手の先に幼い頃の自分の姿があるような気がして勇利は息を呑んだ。
曲が中盤になり、楽しげだったエレナが突然悲しげに顔を歪める。
勇利に向かって両手を切なそうに伸ばした手が宙を切り、胸元に引きよせる。
勇利の胸が、以前に見たときよりも大きく揺れた。
顔を両手で覆い、まるで泣いているかのように俯くと両手を大きく広げて、上体を反らせた状態のまま滑る。
観客席の目前を滑ったエレナの顔を見た観客から小さくざわめきが起きる。

「───女王、今本当に泣いてなかった?」
「涙が見えた気がする…」

そんなざわつく声も耳に届かない程、勇利はエレナの演技に見入っていた。
曲が終盤に近付いてくると、エレナはジャンプ体制をとる。
コンビネーションジャンプを安定して決めると、最後のジャンプ。
プログラム上ではトリプルアクセルのジャンプだが、エレナは勇利が失敗したクワドサルコウを跳んだ。

「っ、うそ…」

綺麗に着氷したエレナに勇利は目を見開き、諸岡アナも観客席からも歓声が上がる。
身体の柔らかさを生かした流れるように技を変えるスピン
から、両手で自分を抱き締めて動きをピタリと止めると、エレナの演技が終わった。
会場から割れんばかりの拍手が巻き起こり、歓声が降ってくる。
俯いていた顔を上げて天を仰ぎ、大きく深呼吸するとエレナは頬を流れる涙を拭く。

(───あぁ、終わってしまった……私の初恋、終わっちゃった……)

観客席に優雅に礼をしてターン、もう一度礼をしてターンしようとしたところで、リンクサイドで自分を呼ぶ声にハッと顔を上げた。

「レーノチカ!! おいで!!」
「───〜っ、」

ヴィクトルの優しく愛しむかのような微笑みに、エレナはジワリとまた溢れそうになる涙を堪えて氷を力強く蹴った。
ヴィクトルが大きく広げる腕の中へ自ら飛び込むと、会場から悲鳴が上がる。

「よく頑張ったね……俺まで、泣きそうになったよ。しかもクワドサルコウまで跳ぶとか…君は本当に、最高だ」

優しいヴィクトルの温もりと香に包まれ、更には優しい声
が降ってきて、エレナの堪えていた涙腺は崩れた。
ポロポロと零れ落ちる涙でヴィクトルの胸を濡らし、エレナは動けなかった。

「エレナちゃん」

遠慮がちな声が聞こえ、エレナはヴィクトルの腕からそっと身を離す。
勇利が、ヴィクトルの背後に立っていた。

「ちゃんと見てたよ。やっぱりエレナちゃんはすごいや……ドキドキが治まらないんだ」
「っ、」

勇利が照れたようにはにかんで微笑むと、エレナが笑顔を見せた。
笑った眦から涙が1つ、頬を流れた。

(…私の想い……少しは貴方に届いたよね? 少しは、伝わったよね?)
ヴィクトルからエッジカバーを受け取り、取り付けてジャージを羽織ると、エレナはググ、と大きく身体を伸ばす。

「はーっ、疲れた! 結果聞いたら帰ろうか──────………あれ、ユーラ…?」

返ってくるだろう相槌が来ないことにエレナは、ユーリの姿を探して辺りを見渡す。

「エレナちゃん! ユリオくん、先に空港で待ってるって…」
「え」

ユーリの代わりに人混みを抜けて近寄ってきた優子の言葉に、エレナは一瞬固まった。

「優子ちゃん…アイツ……ユーラは先に行っちゃったの!?」
「う、うん。勇利君の演技の途中で…」
「はぁああ!? 私の演技見ずに帰ったって事!? あんのクソガキ…」
「エレナちゃん、昔豪君に言ってたみたいに口悪くなってるっ」
「うぐ…はぁ〜……分かった。教えてくれてありがとう」

脱力したように息を吐くと、苦笑いをしている優子に苦笑いで返した。

「温泉 on iceは勝生勇利選手の勝利となりました!」

結果発表となり、勇利はヴィクトルと表彰台に上がる。
どこか緊張している様子の勇利を支えるように肩を抱くヴィクトルを見ながらエレナは微笑む。

(…勇利くんは、ヴィチューシュカが居ればもっと高みへ行ける。昔のように私が手を引っ張らなくても、勇利くんは自ら前へ切り開いて走っていける。私は、幼馴染みとしてももう必要ないね)

スポットライトを浴びて表彰台で堂々とGPFの優勝を目指すと話す勇利を嬉しそうに、だが少し寂しそうに見つめて、エレナは踵を返す。

(直接さよならを言えば、泣いちゃうかも知れない。このまま黙って帰ろう。帰って……ヴィチューシュカを心から愛せるように…私の想いは全てここに置いて行こう)

ロッカールームで衣装から私服に着替えると、持ってきていたスーツケースに衣装とジャージをしまう。
鞄を持って、逆の手でスーツケースを引き、エレナは歩き出す。
まだ賑やかなアイスキャッスル長谷津の裏口からソッと外へ出ると、エレナは会場を一度振り返って見上げる。

「 ──スヴィダニエ…」

ユーリが優子に告げたまたなという前向きな一般的な挨拶とは逆の意味合いをもつ別れの言葉を用い、エレナは涙を一筋流して歩き出した。










(長かった初恋に永遠のさよならを告げる)



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