episode*5 キミへの気持ち





時は少し遡り、エレナと話が出来ないまま、ユーリと共に滝に打たれて頭を冷やした勇利は、濡れないようにおいておいたスマホにメッセージが届いている事に気付いた。
メッセージの送り主はヴィクトルだった。
勇利はメッセージを読むと、あまりの衝撃的な内容に固まった。

「カツ丼どうした?」
「───ヴィクトル、長浜ラーメン食べに行ってくるって…エレナちゃんと」

ユーリに問われて答えると、ユーリが眉を顰める。

「はぁ!? チッ…俺達も行くぞ!」
「え!?」

ユーリに長浜ラーメンを食べに連れて行けと頼まれたのではなく命令され、勇利はユーリと一緒にラーメンを食べた。
そうしてから家に帰ってきたのだが、ヴィクトルとエレナは帰って来ていなかった。
ユーリは、どうせ飲んでんだろ、と大して気にした様子もなく温泉に向かったようだった。
だが、勇利は気にしないということは出来なかった。

(…どこまで食べに行ったんだろう? ユリオの言うようにまたヴィクトルがお酒を飲んでるのだとしたら……エレナちゃん…今日はもう会えないのかな? 話、したかったんだけど……)

その時は、早く帰ってきて欲しいという思いが強かった。
それから温泉に入って、暫くテレビを見ながら待っていたが、日付が変わっても2人は帰って来ない。
メッセージも来ない。
ユーリはテレビを見ながらいつの間にかテーブルに突っ伏して眠ってしまっている。
こうなってくると、勇利の中に不安が生まれる。

(どうしてまだ帰って来ないんだろう……まだ飲んでるのかな? ヴィクトルだけだったら分かるけど、エレナちゃんも一緒、となると早めに帰ってきても不思議じゃないんだけど……)

ソワソワとわけが分からない不安が胸を覆っていく。
そうしていると勇利は、豪の言葉を思い出した。


『 だから、昨日のエレナへのキスはお前への牽制。エレナに手を出すなっていう…牽制の意味が含まれていて、わざとお前に見せ付けるようにやった』

牽制、という言葉が引っかかる。

(牽制した後って…何するもの?)

考えてみたが、牽制すらしたことのない勇利にはよく分からなかった。
視界の端で、眠るユーリを見つけて思わずその肩を揺する。

「ねぇ! ねぇ、ユリオ! ユリオってば!!」
「あ〜…? 何だよ、っせぇな……何? ヴィクトル帰ってきた?」

ユーリは寝ているところを無理矢理起こされ、不機嫌さを隠そうともせずに唸るように言ったが、勇利はそれどころではない。

「エレナちゃん達はまだ! それより!! 教えて欲しいんだけど!!」
「………………あ?」

どこか焦った様子の勇利に、ユーリは半分寝ぼけていた目を開けて、眉を顰める。

「あのさ、もし…ユリオが好きな女の子がいるとする。でも、ユリオの…例えば仲の良い友達も、その女の子の事が好きだったんだ。…それで、ユリオは女の子に手を出すなって、行動で友達に牽制するんだけど…」
「おい、ちょっと待て。それは何の話だ? 突然何言ってんだ? 寝ぼけてんのか?」
「だから! 自分が好きな女の子が違う男に取られそうになったら、ユリオならどうするのか!? って話!!」

ユーリの頬が若干赤くなっているのにも気付かない程、勇利は焦っていた。

「はぁ!? んなの聞いてどうすんだよ?」
「え!? あーーー…今後の参考に…?」
「そんなあるかも分からねえお前の今後の参考に、わざわざ俺を起こしたってわけか?」
「だってエレナちゃんが!! ヴィクトルと2人きりで出掛けてまだ帰って来ないんだ!! もう日付も変わってるのに!!」
「!!」

苛々を抑えきれずに叩きつけた勇利の拳に、テーブルがガンッと大きな音を発てた。
ユーリは驚いて思わずテーブルの傍から立ち上がる。

「…お前……」
「お願い、教えてユリオ。君なら、どうする?」

勇利の震える声と、切羽詰まった表情に、ユーリは仕方なさそうに考えるとポツリと呟くように答えた。

「……………俺なら、その友達より先に行動するだろうな…奪われないように」
「先に…? それって…」

勇利の脳裏に告白、という言葉が浮かんだ。

(ヴィクトルに、告白なんてされたら……)

ヴィクトルがエレナにとびきり甘い言葉で想いを告げると、目を潤ませたエレナがヴィクトルの胸に飛び込み、そのまま2人はキスを……そんな妄想が頭の中で流れる。
膝から崩れ落ちた勇利に、ユーリは慌てて近寄る。

「お、おいカツ丼!」
「───…ん、なの…僕に勝てるわけ、ない…」
「……っ」

うなだれる勇利の表情を覗き込んだユーリは、ギリッと歯を噛み締め、素早く伸びた手が勇利の胸倉を掴み上げる。

「……お前、そこまで取り乱す位レーナが好きなら、なんで今日避けてた? アイツが今日、どんな顔してお前見てたか知ってんのか? あんな辛そうな顔させておいて、勝てるわけないだと!? んなの当たり前だろーが!! クソ豚!!」

腑抜けたツラしてふざけた事言ってんじゃねぇ!、と吐き捨てるように叫び、ユーリはギラギラと怒りで揺れる瞳で勇利を睨み付ける。

「自分がしたこと棚に上げて、勝手に傷付いたツラしやがって。お前、勝てるわけないっつったけど、何かやったのか? 自分から何かしたか? ただ、ガキみてぇに見てただけなんじゃねぇのか? どうなんだよ!?」
「っ、」

ユーリの言葉は、真っ直ぐに容易く勇利を突き刺した。

「…図星で言葉も出ねぇ、てか? 呆れた。とんだ意気地なしだな、お前。反論すらできねぇのかよ。そんなんならもうさっさと諦めろ。ヴィクトルも、レーナも!」

勇利の胸倉を掴んでいた手を離し、ユーリは階段を上がって行った。
1人取り残された勇利は、ゆっくりとした動きで視線を落としていき、最後はうなだれるように俯く。

「……そんなの、僕が一番分かってるよ…」

その瞳から、ポロポロと涙が零れる。
思い出すのは、エレナとの思い出。
『きみ、新しく入った子? 私、エレナ。うちの父さんに教えてもらえばすぐ私みたいに上手になれるよ! 一緒にがんばろうね、よろしく』
スケート教室に入会した時のエレナから始まり、バレエ教室でも一緒だった事に気付いた時の驚いた顔。
小学校で同じクラスになって嬉しそうに笑う顔。
友達が中々出来ない勇利と違って、エレナはいつも友達に囲まれて楽しそうにしていたエレナを見ていた時に感じた羨ましさと寂しさ。
1人でいる勇利の手をエレナは引っ張り出して、遊びに連れ回した。
あんまり仲の良くない子達と混じって遊ぶのは、勇利は正直苦手だったが、エレナはそんな事知ったことではないとばかりに楽しそうに笑うから、つられて勇利も笑ってしまう。
スケート教室の優子が気になってきていた頃は、よくからかわれてた。
僕が豪にいじめられてるとすっ飛んできて、窘めていた優子が驚くほどの罵倒を返してた。
ヴィクトルに憧れてからは、優子と3人でよく真似をして滑った。
勇利が1人で滑っていると、何故1人で練習するんだと怒って、自分も滑る!と滑り出した。
勇利くん、これ出来ないでしょ?とエレナが技を決めれば、それくらい出来るよ、と勇利もやって見せる。
一緒に滑るのはとても楽しかった。
エレナはスケートが上手くて、勝気、明るく活発で笑顔が可愛かった。
父親が大好きで、大きくなったら父親と結婚するんだと話していた。
そんな笑顔がなくなったのは、父親が亡くなった時。
宿題やってこなくて先生に怒られた時も、友達と喧嘩した時も、そこまで激しく泣いたりしなかったエレナが葬式の時は泣きじゃくっていた。
あんなに泣いているエレナを見るのはそれが初めてで、勇利は驚いた。
エレナは母親とロシアに行く事になり、あっと言う間にお別れが来て、エレナに優子ちゃんにちゃんと想いを伝えてね、と言われた時、勇利は自分でも分からないがショックを受けた。
そうして初めて、勇利は自分の気持ちに気付いた。
自分が好きなのは、優子ではなくいつも一緒にいたエレナだったのだと。
だが何も出来ないままエレナはロシアへ行ってしまい、寂しくて悲しくて、つらかった。
いつも一緒にいた存在が、いない。
1人で滑っていても、怒って一緒に滑ってくれる存在はいない。
学校で1人でいても、手を引っ張り遊びに連れ回してくれる存在も、大好きなあの笑顔も、もう見ることは出来ない。
寂しい、会いたい。
また、自分の手を引いて笑う、大好きな笑顔を見たい。
エレナに、会いたい。
ジュニアの大会で活躍する事が出来ても、エレナの姿はない。
けれど、テレビで見ていたジュニアGPFで、勇利はその姿を見つけた。
氷の上を滑るのは本の少し大人びたエレナだった。
あの時の勇利が受けた衝撃は、凄まじかった。
初出場で初優勝を成し遂げた表彰台
に立つエレナは、キラキラと輝いていた。
それから勇利はエレナに負けないように練習に一層真剣に取り組んだ。
頑張っていれば、どこかの大会でエレナに会えるかもしれない。
ずっと憧れているヴィクトルにも会えるかもしれない。
そう考えると、わくわくして仕方なかった。
けれど、ロシアの選手であるエレナに会える機会は日本の選手の勇利には中々訪れなかった。
やっと一緒の大会になった大会もあったが、ロシアの選手やコーチ、他の外国の選手に囲まれて楽しそうに、仲が良さそうに話しているエレナに声を掛けることは勇利には出来なかった。
その頃にはエレナはもう、無敵の女王の名で呼ばれ始めていた注目の選手で、勇利は自分と比べてしまい、引け目を感じるようになっていた。
立っている場所が違う、と勝手に劣等感みたいなものを感じて、自分から声をかけることができず、ただ、見つめているだけだった。
シニアに上がってからもエレナの活躍は目まぐるしく、無敵の女王の名は確固足るものになっていた。
勇利は、見つめているだけだった。
漸く出場する事が出来たGPFでも結果は散々で、声を掛けられずにシーズンが終わった。
そうして地元に帰ってきた勇利の元にヴィクトルがコーチになると言って現れ、ヴィクトルを追い掛けてユーリとエレナが現れた。
エレナが笑う顔がすぐ傍にある。
勇利は舞い上がった。
けれど、緊張してしまいうまく話せない。
エレナも戸惑っているようで、よそよそしい。
だが、エレナは勇利の知っていたエレナのままだった。
1人で滑っていた勇利の元に現れて、1人で練習するなんて狡いと懐かしい言葉を使い、勇利を勇気づけた。
嬉しくて、懐かしくて、あぁ、やっぱり好きだな、と改めて感じた。
離れていた日々が嘘だったかのように感じられた。
勇利の言葉に笑う顔も、照れたように赤くなった顔も、怒った顔も、蕩けるように美味しそうにご飯を食べる顔も、全てが愛おしく感じた。
けれど、エレナに想いを寄せていたのは自分だけではなかった。
勇利の憧れているヴィクトルが、エレナを好き、気付いた瞬間は驚愕したが、負けられないと思っていた。
思っていたが……ユーリの言葉に気付かされた。

(僕は……何もしていない。ユリオの言うとおりただ見てただけ。確かにこんな自分では、ヴィクトルに敵う筈がないのは当たり前…)

『勇利、ヴィクトルは世界一モテる男だって言われてるけど、だからといってその男の恋が必ずしも実るとは限らない。お前にだって可能性はあると思うぜ。俺はお前を応援する! 頑張れよ!』

豪の言葉が、勇利を勇気づける。

「僕は…諦めたくない。このまま何もしないまま、諦められない!」

勇利はぎゅ、と固く拳を握り締め、部屋に戻るとバックパックを背負い、アイスキャツスル長谷津に向かった。
その足音を静かに聞いていたユーリは、フン、と鼻で笑い寝返りを打つ。
勇利を応援しているわけではないが、ユーリはあのお節介で口うるさい姉貴気取りのエレナのことは、気にかけている。
エレナはそこまでメンタルが強くない。
一度滑り出してしまえば自分の滑りに集中できる強さを持っているが、そこまで行くまでには彼女の小さな肩に途轍もないプレッシャーがのし掛かる。
そんなエレナを支えているのが、エレナが常に鞄にいれて持っている手帳の中に挟まれている写真。
大会で滑る前に、エレナは必ずその写真にキスをする。
エレナのルーティン。
ユーリは気になってその写真をコッソリ見たことがある。
写真に映っていたのは幼い笑顔のエレナと一緒に笑っている男の子。
ユーリがその男の子が勇利であることに気付いたのはそれからずっと後の事だが、それでもエレナがヴィクトルのアプローチに靡かないわけが分かって納得したことがあった。

(アイツの初恋の相手が、あんな情けねぇ男だとは思っていなかったが……アイツが馬鹿みたいに笑ってないと、俺がなんか…落ち着かない…)

「─────チッ、俺は寝る!」

エレナが今ヴィクトルとどうしているのか考えて浮かんだ光景に舌打ちして考えるのをやめると、ユーリは布団を頭から被った。

翌朝、朝食を無言のまま勇利と摂ったユーリは、アイスキャツスル長谷津に向かう。
ヴィクトルとエレナは、まだ帰ってきていない。

(2人で朝帰りかよ。ってことは、やっぱりアイツら……)

想像して、ユーリは顔を険しく歪めた。

(んなわけねぇか。さすがにそこまでいかねぇよな)

バタンとロッカーを閉じると、ユーリはアイスリンクへ向かおうと歩き出す。
その背に、控え目に声がかかる。

「ユリオ」
「…………………」

呼ばれて無言で振り向くと、真剣な目をした勇利が真っ直ぐユーリを見つめていた。
その表情にユーリは内心驚きつつも、睨み付ける。

「昨日はごめん。ユリオの言うとおり、僕は本当に情けない奴で…ただ見てただけの意気地なしだ」
「────だから? 諦めるって俺に宣言でもするつもりか?」

何を言い出すつもりかと思えば、やっぱりコイツじゃなくてヴィクトルにしておけ馬鹿レーナ、と考えていたユーリは、勇利の返答に目を見開いた。

「違う。僕は…諦めない。ヴィクトルも、エレナちゃんも」
「……は?」
「負けないよ。ユリオにも、ヴィクトルにも」
「!! この野郎…」

笑う勇利に、ユーリは苛々とは別の感情を抱いた。

「往生際の悪い奴…精々頑張れば?」

自分の感情に気付いたユーリは顔を顰めるとぶっきらぼうに答え、踵を返そうとしたのだが、その肩を勇利が掴んだ。

「待って! あの…1つ、お願いがあるんだ!」
「あ?」
「昨日あの後、練習してみたんだけどやっぱり跳べなくて……4回転サルコウ! 教えてください!!」

両手を合わせ頭を下げる勇利に、ユーリは唖然とする。

「おい、お前…さっき俺に負けねぇって言ってなかったか? 図々しいとか、思わねえわけ?」
「思うよ。 けど、頼むよ! お願いします!」
「…………………」

ユーリは、突き放したりしなかった。
リンクに向かうと、クワドサルコウを跳んで見せ、やって見ろと言う。
勇利は喜んで、練習を始めた。
そうしてユーリに下手くそと罵られながらも練習していた所で、ヴィクトルが現れた。
エレナの姿がないことに勇利はすぐに気付いて問えば、エレナは二日酔いで部屋で休んでいるという。
その事にも驚いたが、それよりもヴィクトルがエレナをレーノチカと呼んだ事の方が衝撃的だった。
愛称で呼ぶと言うことは、つまりは2人が恋人同士になったと言うことを意味している。
一晩の内に一体何が起こったのか?
エレナが休んでいるのには、俺のせいでもあると言ったヴィクトルの真意は?
そんな事を考えた勇利は、練習を始めようとするヴィクトルを呼び止めていた。
エレナに何をしたのか聞いたが、サラリとかわされ、更にはただの幼馴染みの勇利には関係ない、とヴィクトルは言う。

(……そうだ、何もしていない僕は、そう言われても仕方ない。ヴィクトルにしてみれば、さぞかし邪魔な存在なんだろう)

牽制と独占欲をヴィクトルから感じ取った勇利は、うなだれた。

(これは、やっぱり諦めなきゃいけないの?)

2人が恋人同士になったと言うなら、勇利は諦めるべきだろう。
だが、ここまで拗らせて来た初恋は、想いは、はいそうですかと簡単にすぐに忘れられるような小さな想いではない。
ユーリの舌打ちする音が聞こえ、ハッとしてリンクから出る。
最初から、と言われたユーリがアガペーを滑り出す。
ユーリのスケートを見た勇利は驚いた。

(昨日の滑りと違う)


基礎練に行こうと動き出した勇利は、ヴィクトルの呟く声を聞いた。

「ユリオのアガペーが見つかったようだ。next stageに進めるな」

勇利の脳裏に、昨日の滝行の際のユーリの姿を思い出す。
どこか心ここに非ずと言った様子で、儚げに感じた。
勇利の言うことに素直に頷くユーリなど初めてだった。

(──あの時、ユリオは見つけたんだ。自分のアガペーを。…next stage……僕もカツ丼というエロスを滑ったらその先があるってこと? まだ見つからない…このプログラムを通す大きな串みたいなものが、まだ足りない気がする)

勇利はユーリの演技を見ながら、ギュッと拳を握り締める。

(負けない。負けたくない)

負けたくない、諦めたくないという気持ちが強くなる。

(そうだ…僕は、諦めが悪いんだ。負けず嫌い。それに、今思えばヴィクトルとエレナちゃんが付き合っているって世間と同様に僕も思っていた時があった。でも、エレナちゃんをずっと好きだった。今だって、それで良いんじゃないか? 2人の関係が曖昧だったあの時とは、違うけど……エレナちゃんの事、忘れられる時までは好きでいるくらい…自由なはずだ)

すぐには忘れられない。
けれど、その時までは好きでいさせて欲しい。
勇利は、自分の心にそう折り合いを付けてこの日の練習に挑んだ。
家に帰り、温泉に行こうと母屋の階段を降りた後、エレナの部屋へ入っていくヴィクトルの後ろ姿を偶然見て足を止めた。

(……ちょっとだけ…)

駄目だと思いつつ、勇利は好奇心に勝てず足音を発てないように近付く。

「レーノチカ、起きてる? 入っていい?」
「ヴィチューシュカ? 起きてるよ」

どうぞ、というエレナの声の後、木戸が開く音がして一拍後閉まる音が聞こえた。
声が多少聞き取り辛くなったため、心中でごめん真利姉、と謝り勝手に真利の部屋に入る。
声は、廊下より聞き取れるようになった。
罪悪感と戦いながら、勇利は聞き耳を立てる。

「会いたかった、レーノチカ。体調はもう大丈夫?」
「ん、もう大丈夫。心配してくれてありがとう」

エレナのどこかくすぐったそうな声に、勇利は安心してホッと胸を撫で下ろす。

(声、元気そう。良かった…)

「ね、キスしていい?」
「え?」
(え!?)

ヴィクトルの声に、エレナの声と勇利の心の声が重なる。

「だ、だめ!」
「えー、でも駅でした時は大丈夫そうだったよ?」
(駅でキスしたの!?)
「だって…ここだと……」
「俺はただキスがしたいだけだよ? …レーノチカやらしい、何を考えたの?」
「違っ…か、からかわないで。ホテルでも駅でも私に許可なんて取らなかったクセに…」
(ホ…ホテル!?)

エレナの口から衝撃の言葉が飛び出してきて、勇利は目を見張った。

「ごめん、キミの気持ちが聞きたくて。ホテルでは戸惑ってたし、駅でも…平常心じゃなかっただろ? キミはオーケーしてくれたけど、心配で…」
(…話が見えないけど……不意打ちでキスされたとか、そんな…感じ?)

勇利が考え終わっても、エレナは返事をしない。
不思議に思い、勇利は聴覚を研ぎ澄ます。
やがてエレナの嗚咽を押し殺した泣き声が聞こえてきて、勇利は目を見張る。

「…貴方が、言ったんじゃない。私の気持ち、知ってて言ったんでしょう? そういうことを聞くのは狡い…そんなにすぐ、変わるわけない。ずっと……ずっと、好きだったんだから…」
(!!)
「レーノチカ、ごめん……泣かないで。確かに俺は卑怯だった。君の気持ちを知っててあんな事を言った。けれど、俺は君を心から愛してるんだ。君が居なければ息も出来ない程…君が居なければ、生きている意味がないと思える程…愛してる。だから、お願いだ。俺の愛を受け止めて欲しい」
「ヴィチューシュカ…」

リップ音が聞こえてきて、勇利はたまらず真利の部屋を飛び出した。

(……聞かなきゃ良かった…)

盗み聞きなどしなければ良かったと、勇利は後悔した。
2人は昨日、飲んだ後に2人でホテルに泊まった。
ホテルで、駅で、キスを交わした。
そして、今現在もエレナの部屋で。
エレナはヴィクトルを愛称で呼んだ。
2人の会話は、恋人同士が愛を伝えあうもの以外のなにものでもないと勇利は感じた。
だからこそ、聞きたくなかった。
知りたくなかった。
けれど、好奇心に負けて聞いてしまった。

(諦めよう…温泉 on iceが終わったら…エレナちゃんへの想いに区切りをつけよう。その方が良い。彼女はロシアに帰るし……次に会う時には、ただの幼馴染みとして会えるように、気持ちが切り替えられているように……あと数日で、キミへの想いを終わらせよう)

勇利は、切なく痛む胸を押さえながら、静かに涙を一つ落とすと決意を固めた。
往生際の悪い自分には、良い気付け薬に成ったのかも知れないと勇利は自嘲し、未練を断ち切るように歩き出した。



重なった唇がゆっくりと離れると、ヴィクトルは優しくエレナを見つめる。

「ヴィチューシュカ…私、きっと貴方の事を好きになれると思う。だけど、それまでは…」
「分かってる。ゆっくりでも構わないから……ただ、俺の傍に居て。君が勇利を想って泣くのだとしても、俺の腕の中でにして。俺が、君の涙を受け止める。俺が、君を夢中にしてみせるから…今は、俺の為に笑って?」
「ヴィチューシュカ……ありがとう」

涙で濡れた頬をヴィクトルに優しく指先で拭われ、エレナはぎこちなく微笑む。
今はそれが精一杯だったが、ヴィクトルの想いを感じて嬉しかった。
こんなにも愛してくれる人を、好きにならない筈はないと思った。
今朝のように、自分に暗示を掛けるようにではなく、心からそう思えた。

(この人を、愛してると言える日が必ず来る……)

そう思えた自分を、エレナは信じることに決めた。

「ヴィチューシュカ、私…貴方の部屋へ移る」
「本当かい? 嬉しいよ」

エレナの言葉に嬉しそうに笑顔を見せたヴィクトルの髪をエレナは撫でる。

「レーノチカ?」
「マッカチンみたいだなって思ったらつい…撫でられるの嫌だった?」
「嫌じゃないよ。君がしてくれることは何でも嬉しい。けど、あんまり可愛い顔されると我慢出来なくなりそうだ」

ニヤリと笑ったヴィクトルに、エレナは意味を理解して顔を赤くしてすぐに離れた。

「安心して。隣にユウリとユリオが居るし…我慢するよ。かなり…ツラいけど……キミの可愛い声、2人に聞かせたくはないからね」
「な…っ!!」

エレナの真っ赤になった顔に、ヴィクトルは笑ってキスをする。

「キスは、我慢しないけど」

エレナは、ヴィクトルからの優しく甘いキスを受け入れた。










(私の、僕の、俺の、想い)



prev next