こちらの怒声など聞こえていないかのように、くのたま2人を連れ、小さくなって見えなくなった背中にギリリと歯噛みする。

(あいつ…ッ)

だが、殺気を受けて己の身が強張ったのも確かだ。
少年、鉢屋三郎は自然と未だ鳥肌がたつ腕をさする。

(…あの殺気……やはり、ただ者じゃない。天女ではないだろうが、何が目的だ? 学園長か?)

自問するが、答えは出ない。

「歯牙にもかけぬらしい」

一呼吸の後背にかけられた言葉に顔だけ振り返ると、愉しそうに喉で笑い、さらさらの髪を風に遊ばせる先輩の姿があり、三郎は眉間に皺を寄せた。

「…立花先輩」
「殺気を抑えろ。先生方が此方に向かわれている。騒ぎの原因だと知られれば、何らかの罰則になるやも知れんぞ」

恐らく、あと数秒で着くだろう教師の気配を探りながら仙蔵が言えば、舌打ちした後、三郎は殺気を抑えた。
学園長が、千里を保護すると宣言している限り、千里は学園にとっての客人となる。
害を成そうとしたと知られれば、学園長の突然の思い付きの標的に成りかねない。
それは避けたい三郎である。

「それと、先程の言葉はお前だけに言ったものではない」
「──はい?」

仙蔵の呟きに、三郎が怪訝な表情で今度は身体ごと振り向くが、仙蔵はにやりと口端を上げると何も言わずに木の上へと飛び上がった。
そして、その気配は段々と離れていく。
教師達の気配が近いことに気付くと、三郎も、仙蔵に習うようにその場から離れた。
その数拍後、土井半助と山田伝蔵が到着した。

「……我々に気付いて逃げたな」
「はい。どうやら──…六年の立花仙蔵と五年の鉢屋三郎のようです。どうしますか山田先生」
「流血沙汰にはならんかったようだが……一応、学園長に報告をしておこう。土井先生は生徒達を頼む」
「分かりました」

学園長の庵へと向かう伝蔵の背を見届けると、半助は息を吐く。

「さぁ、皆、教室に戻るんだ。授業が始まるぞー」





「ようこそ、くのたま長屋へ。千里さん、ゆっくり療養してくださいね」

くのたま長屋での割り当てられた部屋に着くと、若い女性の快活な声で挨拶を受けた。
千里は、気配の方へ振り返ると深々と頭を下げる。

「貴女が山本シナ先生ですね。暫く御世話になります千里と申します。傷が癒えるまで、どうぞ宜しくお願いします」
「良いのよ。くのたま達に、色々な話を聞かせてあげてくださいな」
「分かりました。──…恐縮なのですが、お尋ね致します。この部屋なのですが……」

千里が通された部屋は、以前から空き部屋となっていた部屋だとユキとトモミに伝えられていた。
その事に、さして疑問はなかった。
だが、千里は歩いてきた道順で、まさかと思った。

「貴女にはここが合うと思って決めたのだけれど…気に入らないかしら?」
「いいえ、滅相も御座いません。ただ、私のような厄介者は、皆さんから離れていた方が良いのではないかと……学園の意志であるのなら、従います」
「そんな事気にしないでちょうだい。ユキとトモミから聞かなかったかしら? くのたま達は、貴女の話を聞きたくて待ちきれないの。例え部屋を離しても……ほら」

シナは美しい微笑みでそう言うや否や、畳をひっくり返し、流れるように苦無を天井に放ち、その勢いのまま襖を開けると、雪崩れ込むようにくのたま達が部屋に倒れ込み、天井から落ちてきた。
気配を察していた千里はさして驚いた風もなく、いつもの無表情を崩さない。

「ね? 部屋がどこだって同じだわ。それなら、近い方が良いと思わなくって?」
「仰せのままに」

千里はもう一度、深々と頭を下げた。

「良いわ。さ、貴女達、千里さんはお疲れです。気持ちは分かるけれど、話は授業を終えてから少しだけになさい。午後の授業を行いますよ」

くのたま達は、残念そうにはぁいと返事をすると、畳や天井を直し、千里の部屋から退出していった。

「授業が終わったら、お話聞かせて下さいね、千里さん」
「構いません。行ってらっしゃいまし」
「「行って来まーす!」」

ユキとトモミが、最後に元気よく返事をして、襖を閉めて授業へと向かって行った。
それを見送り、千里は一つ息を吐く。

(くのたま達は、今も昔も、元気だな…)


『こらぁ、またあんたは! 授業始まっちゃうでしょ!? またシナ先生に怒られたいわけ!?』
『でも今良いところなんだ。先に行っててくれ』
『何言ってんの! ほら、行くわよ!』
『ちょっ、やめろ! 私の本を返せ』
『私に追い付いたら返してあげるわよ』
『待て!』


楽しい笑い声が脳裏に蘇り、千里はうっすらと口端を上げた。
だが、すぐにいつもの無表情へと戻すと見えない目で部屋の中を見渡す。
暫く使われていなかったせいか、少し黴臭い匂いがするが、微かに懐かしい匂いも混ざっていた。
その匂いに、千里はやはり、と思いつつ、ゆっくりと足元を探る様に歩む。
やがて文机に手が触れると、そこに腰を下ろした。
文机の卓上を指で撫でるように探っていくと、隅の方に何か文字が彫られているのを探り当てる。
それを指でなぞって読み取ると、先程の思いを確信へと変えた。

(ここは、私の部屋。私が、くのたまの時に過ごしていた部屋だ)

学生時、卓上に彫ったのは自分自身の名である。
入学当初、まだ慣れない苦無で彫った己の名。
忘れる筈もない。

(消されずに未だ残っていたとは……もう、誰か別のくのたまの部屋になっているものとばかり思っていたが──)

千里は、下手くそな字を指でなぞる。

(この部屋に私を宛がったのは、学園長だろうか? いや、先程の口振りからすれば、決めたのはシナ先生だろう──わざとか? それとも偶然なのだろうか?)

千里は包帯で隠されている眉間に僅かに皺を寄せる。

(どちらにせよ、やはり気は抜けないようだ)

千里がこれからの事を思案していると、やがて、授業を終える鐘が鳴った。
少ししてから、くのいちらしくない足音が近付いてくる。

(……シナ先生の雷が落ちそうだな)

千里がそう思った途端、くのたま長屋に雷が一つ落ちた。
千里は、自分が怒られたわけでもないのに、びくりと肩を震わせたのだった。















(懐かしい部屋で聞く、懐かしい、雷)

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