神仙魔伝−紅の節 | ナノ


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 ざく、となお力強く大地を踏む音がした。希望を込めて、というよりほとんど反射で少女を見上げれば、無表情で、けれど侮蔑を含んだ眼差しで男を睨む姿があった。
「だ、大丈夫なの!?」
「この程度」
ぽたぽたと落ちる紅い液体は、彼女の細い左肩から。袖を赤く染めながらも、少女ははっきりと言う。その口調は、強がりなどというものではない。傷口を押さえもせず、痛みなどまるで感じていないかのようにふるまっていた。
 銃口から目を逸らさないまま、少女は言う。
「悪いが、休んでいる暇はなくなった。ふたりで逃げろ」
「あなたは?」
「……あの面倒なものを壊したら逃げる」
不安げな月乃に、少女は答える。安心させるように、ぽんぽんと頭を撫でた。血が付かないように、右手で。
「弾の届かないところまではなんとしても逃げろ。私も流れ弾がお前たちに当たらないように配慮する」
春陽は複雑な感情を覚えた。無事に帰りたいのはもちろんだし、怖い思いなどしたくない。それでも、自分たちと年の変わらないであろう彼女にも、無事でいてもらいたかった。もっとも、太ももを切りつけられ肩を撃ち抜かれている時点で、無事とは言い難いのだが。
「早く」
言い残して、少女は跳ねる。来たときと同じように軽やかに木の棒を跳びながら、迷いなく危険な場所へ。
 ほんの僅かな間、ふたりは黙って少女を見ていた。けれど、
「い、行かなきゃ。逃げなきゃ……」
震えて力の入らない足を言い聞かせ、月乃は立ち上がる。怖かった。襲い来る男たちも、それをなんなく払いのける少女も。怖いものからは逃げたい。ごく自然な感情だ。
 それに、これ以上ここにいては足手まといにしかならない。分からないことだらけのなかで、それだけは明らかだった。少女の人間であることを疑わなければならないほどの身体能力と、それをもつ彼女自身は怖いが、それでも守ってくれる『味方』である。これ以上のけがはしてほしくない。
「行くよ、春陽」
「え、でもあの子……あっ、あの子って言ったら怒られるんだった〜」
「今はそこ、限りなくどうでもいいから」
こんな時になにを言っているんだと思いながら、月乃は座り込んだままの春陽を引っ張り上げる。本当に状況を理解出来ているのだろうか。
「私たちがいても意味ないどころか邪魔でしょ。あの子……じゃなくてあの人も逃げろって言ってたじゃない」
「う〜。確かに……」
呑気な春陽につられ、いつの間にか足の震えは収まっていた。
 ちらり、と振りかえれば、男たちの向こう側にあの少女が見えた。なるべく速く逃げなければ、彼女の戦闘を長引かせてしまう。その程度のことは、いまだに混乱している頭でも分かることだ。

 ふたりは、山道をひたすら走った。舗装などされていない道、しかも上り坂では足がもつれ何度も転びそうになる。それでも、息を切らせながら、小枝で肌を引っ掻きながら、とにかく走り続けた。それしか出来る事はなかったから。
 どれくらい走っただろう。随分長く走っていた気もするし、その実あまり進んでいないような気もする。けれど、もう振り返っても少女は見えなかったし、木々のざわめきの隙間に拳銃の咆哮が聞こえることもなかった。
 先に足を止めたのは月乃だった。手近な木に手をついて、肩を激しく上下させる。
「はぁ、月乃、大丈夫……?」
「ん、平気」
前を走っていた春陽が振り返った。全く平気ではないのだが、平気でないと言ったところで平気になるわけでもないと、月乃は言葉を返す。
 と、突然春陽が崩れ落ちる。なにが起きたのかと月乃が焦って駆け寄ると、聞こえたのは。
「ふえっ、えぐ」
嗚咽、だった。
「ど、どうしたの?どこか怪我でもした?」
「ううん、でも、でも〜!」
幼い泣き声が響き渡る。ただただ泣き続ける春陽を、月乃は優しく抱きしめた。なぜいきなり泣き出したのか、それは春陽にしか分からない―――いや、春陽にすら分からないことかもしれないが、泣きたいという気持ちは月乃とて同じだったから。
「多分、大丈夫だよ。ここまで逃げて来られたんだもん。安心して、私も一緒だから、ね?」
春陽に言い聞かせるように。
「あの子も、ちゃんと戻ってくるよ。見たでしょ?あの子はとても強いの。きっと心配いらないよ」
自分に言い聞かせるように。
「大丈夫、きっと大丈夫。だってあの子はとても強いから」
「……?」
何度も、何度も。いつも春陽を気遣ってくれる、実に月乃らしい行動。けれど春陽は、月乃のその言葉に違和感を覚えた。
「月乃、あの子のこと知ってるの……?」
「分からない」
涙を拭いながら問えば、返ってきたのは不確かな答え。知っているのか知らないのか、それが分からないとはどういうことだろう。
 人の気分を考えて表現をぼかすことはあれど、月乃の回答は、常にイエスかノーだ。そんな彼女が、しかもこんな事態だというのに曖昧な答え方をするなど、珍しく、不自然なことであった。
「……さて、どうするべきかな」
ごまかすように、月乃は立ち上がる。いささか子供っぽい仕草でごしごしと目を擦り、春陽もつられるように立ち上がった。
「ここまで来れば大丈夫だとは思うけど。念の為もっと進む?」
「でも、進んでもどこに出るのか分からないよ〜?」
「そうなんだよね……」
細い道を、と選んで来ただけで、道が分かっているわけではない。どうすれば山道に出られるのか、そもそもここはどの辺りなのかすらはっきりとは分からない。
「ここは、あの子と合流するのが先かな」
「ここで待ってるってこと〜?」
「そうなるね」
「分かった〜」
まだ若干鼻の頭を赤くしつつも、春陽は頷いた。
 無理をして動くのも、あまり良くない。ふたりは、先程の騒動など素知らぬ顔の山のなかで、しばしの休息を得ることとなった。

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