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気づくと全く知らない土地だった、なんてことがありえるのかありえないのか、世の中に通じるとは思わないが少なくとも私の中ではありえたこと、というか、ありえないと信じたいがありえてしまったことだ。アルコールと生ゴミ、カビやらのなんとも言えない不快な匂いが籠り、足の踏み場もあまりない汚い部屋の隅に膝を丸めて息を潜めている状況に当然混乱した。混乱して出て行こうとして、部屋の中にいたおっさんに殴られ蹴られ、意識が吹っ飛ぶまでボコボコにされた。本当に怖かったし、私の身体が上手く動かないのも目線が明らかに下なのも全てにゾッとした。ついでに言えば小さくなった私の身体は見たことがないくらいにガリガリで骨は浮いていたし、そんなの構わずにおっさんは私を殴り、身体は当然悲鳴をあげたが死ぬことは無かった。むしろ精神が先に死んだ。ガッシボカッな展開にならなかっただけマシかもしれない。骨が折れたかわからないが息もままならず、血が固まり傷口が化膿して酷い匂いがしようがおっさんは酒を飲み私を殴りたまにいなくなるだけだったし、部屋を片付けたり換気をする様子も一切無かった。私はひたすら息を潜め、大人しく殴られるだけだった。つまり、最初の状態になった。
それからどれくらい日が昇り落ちたのかわからないが、私の身体が餓死する寸前あたりで転機が訪れた。ここで死ぬだけなのか、最初から最後までわからなかったな、とろくに見えない視界で走馬灯じゃないが日本にいた頃を思い出して目を閉じた次の瞬間、私は病院で目覚めた。体に管を沢山繋がれ体の感覚は薄らとしかなく、酸素マスクの中のぬるい息と視界に映る天井の模様と電球に生きている、と実感をした。ナースさんやお医者さんに色々話しかけられたが、私はぼんやりしていて何を返すことも出来なかった。何故ならば、言葉がわからないからだ。何語で言われているのかさっぱりわからない。日本語でオーケー。かろうじてほんのちょっとだけ英語が可能(聞き取れるかとか通じるかとかはまた別)。ついでに声もあまり出なかった。つまり、私は簡潔に言って”記憶喪失”と判断された。後から知ったが虐待児あるあるらしい。こう、精神ショックで記憶が飛ぶとか人格が変わるとか。私はその中でもトップレベル扱いらしいが。なんせ言語も忘れるレベル、そりゃトップだ。

そうして私は言葉のお勉強から入ったわけだが、お勉強をしたところで私の中に入るかは別だ。誰しもがするすると理解出来るとは限らないし、私はそんな優秀な部類ではない。そもそも適当な絵本を見て書いてあるものを差して読みを繰り返したって理解できるものは少ないし、わかっても果物だとかの固有名詞だ。ついでにイタリア語の発音はしんどいものがある。更に私には加えて肉体のリハビリがあり、起き上がれるようになるまで、座れるようになるまで、動けるようになるまで、とおそらく結構な日数がかかった。なんとか言っていることがなんとなくわかるレベルまで成長した頃、私の身体は固形物を食べても吐かず自力で少しの距離なら走れるくらいまで復活した。そうして笑顔で先生方に見送られ、全く知らないボルサリーノのおじさんに連れられ退院した。
ボルサリーノのおじさんは流暢なイタリア語で私に沢山話しかけ、私を色々な場所へ連れて行ったが私はそのどれもをほとんど理解出来ない。ぼんやりと外の風景を見たり、おじさんの青い目を見つめたりしてみる数日後、おじさんは諦めたように笑い私を見るからに屈強な人や今にも死にそうな人などの集団に入れた。私はまずその集団で殴られた。殴られた後、手当てをされた。食事に毒を盛られた後、解毒をされた。ナイフを渡され殺されかけ、治療され、毒を飲まされ治療され、倒れるまで走らされたり、とまあ色々やらされたわけだ。死ぬと思ったし、一番最初と大して変わらないのでは、とも思ったが、おじさんはたまに私を見に来ては私に期待していると声をかけた。それだけでも私の心は高鳴った。今思えば超刷り込み。大人って怖い。しかしあの頃の私はそれが全てで、いつの間にかおじさんためにと体力をつけ俊敏に動くようになり銃の腕をあげどんな毒にも耐えどんな屈強な男相手でも死の苦しみを味あわせることが意図的に操作できるくらい腕を上げた。なんて非人道的なんだ。しかしその頃の私には倫理観もクソも無く、ただおじさんのために、と動いた。その頃には言葉は丁寧語だろうがスラングだろうが大体理解できるようになった。そうして私はおじさんの犬としてパッショーネに入ったわけだが。
盲目的におじさんの犬として暗殺を繰り返し人殺しの十字架を重ねて行った先に私は何を望んだのか。多分、根底には帰りたい願望があった。あったけど、その前に生きるのに必死だった。死にたくなかった。訓練時代にあったおじさんへの憧れのようなものは、きっと犬になった瞬間に既に満たされていて、私の中には何も無かったのだと思う。だから、こうしておじさんが死んだ後何も思うことがないのだ。おじさんがいつも被っていたボルサリーノが血に濡れていようが、おじさんの胸に穴が空いていようが私の中から欠けたものは何一つ感じないし、おじさんの顔すらぼんやりしている。流暢なイタリア語を紡いだその人はどんな声で私に話しかけたんだっけ。やっぱり私は何も覚えていないし、何も理解していなかった。

「ナマエ、テメーにお誘いだ」
「明日11時に来い」

見上げた先にあるいかつい黒人の顔は下卑たように笑い私の頭を乱雑に撫でる。明日11時、その言葉を頭の中で反芻して一人ぼっちの何も無い自分の家へ戻る。
冷たい床に座り、おじさんが死んでから渡された私の情報たちを月明かりを頼りに見つめる。薄っぺらい書類にはおそらくだが私の情報が書かれていた。読めるのは自分の名前と数字くらいだが、1984と書かれたその数字は間違いがなければ私の生まれるうんと前の歳のはずだし、私はイタリア人ではないはずだが、私の過去は確かにここにあったらしい。写真に写っているのは赤ちゃんの頃の私だ、それは覚えがある。だが、その私を抱く女性に覚えはないし、父親らしき人物にも全く覚えがない。もしこれが父親だとすれば一番最初の男と同一人物なのか、はたまた違うのか。違うとしたらそれはまた問題だ。いや、私の過去に問題以外は何も無いが。
知らない土地、知らない人、知らない親、知らない過去。それを認めた瞬間、私は何も知らない子供だと、それだけを理解した。

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