- ナノ -

愉悦を一匙

 ちはや!ちはや!と俺ではない俺を呼ぶ悪魔の声から逃げるために押し入れに隠れつつ、俺は某青い鬼のガタガタクローゼットの如く震えていた。この場合の鬼は言わずもがな、母だ。それよりも手の中の紙破りそう。破って捨ててしまいたい。夢であって欲しい。
 真白な紙に書かれているのは、配属先である。『第七師団第二十七聯隊』の文字が信じられない。なんで?どうして?あわあわと疑問符が押し入れの中で舞い踊る。

「──ちはや!」
「勇作てんめふざけんなよ誰がちはやだゴラ!」
「ちはや!そこにいたのですか!」
「ギャア!」

 ドンッと押し入れを開けて来た我が双子の兄殿のせいで悪魔にバレてしまった。案の定、急ぎながらも足音は立てない母が部屋に入ってきて目がつり上がっている。頭の簪がまるで鬼の角だ。母は低い声で「ちはや、またそのような格好をして……!」と言った。シャツにズボンの何が悪いというのか。ええ、ええ、悪いのでしょうよ、でもねお母様、ぼくは毛が薄いゆえ髭は生えませぬが、股にはちゃんと生えているりつぱな大人の男なのでございます。父に殺される恐怖から必死に逃げた青春の結果、何もせずとも優秀で向上心のある勇作と共に差をつけられつつも少尉に昇格致すことになった情けない軍人の男なのでございます。ですからその女性物の着物はおやめになってくださいね。とまあ抵抗をすればするほど母の声は甲高くキーキーと鳴る。声変わりもしたというのに母の前では無理やり高く保たねばならないこの屈辱を双子の兄殿は知っているのだろうか、否、知るわけがない。俺は頭痛とプライドと戦い頭痛をとった。藤色の着物に袖を通しながら、帯を整えるのがやけに上手い勇作に聞く。

「どこの聯隊所属になった?」
「第一師団第一聯隊だ」




 俺は泣きながら北海道の大地に降り立った。ふ、ふええ。こわいよお。最後まで駄々こねたけど父は俺を殴り列車へ放り込んだ。許さない。
 思えば俺は幼年学校時代から抵抗し続けていた。そもそも陸軍は嫌だ。死亡率が高すぎる、あと尾形がいる、絶対に嫌だ。せめて行くなら海軍だ!そう思っていたのに海城学校は許されず、殴られて泣きながら引きずられ幼年学校、士官学校、全て陸軍属だ。それでも俺は努力を怠らなかった。この母お気に入りの可愛いフェイスを駆使してたくさんお偉いさんに媚びを売ってなるべく遠征が少なく死ぬ可能性の少ない内地に、内地に配属!と思っていたのに、その努力はどうやら勇作に流れてしまったらしい。
 これが長男の力か。俺は弟でスペアだからいいのか。いや、どちらかというと俺は厄介者だから父の配下に起きたいのか。ふざけるな、子供の未来をなんと心得るか。面子と命どちらが大事だ!?一度はそうキレたが、答えは聞くまでもなかった。俺は父に殴られつつ気狂いの母に育てられこーんなに大きくなったよ!どうして勇作はこんなにストレートに立派に育っているのか。俺を反面教師にしたと言われたなら納得である。許さない。
 さて、少年よ大志を抱け。場所は違うが、駅のお姉さんにお花を貰ったのでそこそこ気分は良く本部へ向かう。お姉さんのお国言葉全然わからなかったけど。それにしても旭川は寒い。冬じゃないのに寒いんだ、これは冬になったら俺は死んでしまうかもしれない。尾形に殺される前に殺される。頭ぶち抜かれるか凍死か選べと言われてもどちらも嫌だ。俺は生きたい。日露戦争も生きて帰りたい、っていうかそもそも行きたくない。どうしよう、病気でもすればなんとかなる……しかしこの時代安易に病気も出来ない。風邪で死ぬこともあるハードモードだ、一か八かすぎる。
 悩みつつ門を越えれば、懐中時計を懐にしまいながら爽やかに片手をあげる美丈夫と目が合った。彼は俺の上官、ここは旭川と書いてさんずのかわと読むんだったか?

「やあやあ、お待ちしておりました。もう少し遅ければ迎えに行こうと思っていたところです。こうしてお会いするのは何年ぶりですかな。第二十七聯隊を任されております、鶴見中尉であります」
「はっ、お待たせし申し訳ありません。本日より第二十七聯隊配属となりました、花沢ナマエにございます」

 ニコリと笑い挨拶をすると、鶴見中尉もまたニッコリ笑い、そんでもって俺の荷物を持ってくれた。重かったでしょう、だって。やだ優しい。多分試されてるとこあると思うけど、建前で「そっそんな上官に」と遠慮したら「いいんですよ、白い手が真っ赤になり痛々しい…後ほど軟膏を塗りましょう」とか言われちゃったもんだからえへへと笑ってありがたく手ぶらになった。なんだこの茶番。もらったお花はちゃんと持ってます。後でしおりにでもしようかな。指先でくるりと茎を回すと、鶴見中尉が首を傾げる。

「おや、それは?」
「駅で女性にいただいたのです。愛らしいお花ですよね」
「……そうですな、花沢少尉にとてもよくお似合いだ」

 おっとこれは馬鹿にされたな?でも俺はえへへとまた笑った。周りの兵士からの視線が痛いが許せ、これも処世術なんだ。仕方ないだろう、俺は何故か背もそんなに伸びなかったし筋肉もそんなにつかないんだ、媚びは可愛い方面で売るしかないんだよ……!母の呪いか?俺にもっと筋肉があれば全部筋肉で解決出来たのにな。訓練は問題ないのに見た目が変わらないのは何故だ。母も許さない。
 鶴見中尉は俺の荷物を持ち俺の前を歩く。まずは生活面のご心配を無くしましょう、だって。石の建物は燃える心配はないが寒さの心配はあるんだがなあ。通された俺の部屋は個室だが、隣は少尉育成係の軍曹がいるらしい。つまりなにか粗相をすれば撃たれるのか。恐ろしい。俺はコップを借りてお花を窓際に生けてから部屋を出た。次に案内されたのは食堂で、会議室、訓練場と回っていく。
 訓練場には数名の兵士が居り、皆坊主頭だったけど、たった一人の後ろ姿を見ただけで俺は気づいた。あれ尾形だよ。尾形百之助だよ。兄弟の見えない絆とか馬鹿なことは言わないよ。ただ父上様に似てんだわ。後ろ姿から似てるってすごくない?俺はむしろ父の面影すらないのにね、長男ってすごい。これは見た目だけでも十分血縁がわかってしまう。内心で感心半分焦り半分な俺だが、鶴見中尉はスタスタと尾形がいる方へ進んでいく。あれっ待ってこのままだと会うけど?

「実は、数日前に少尉につける軍曹へちょっとした使いを頼みましてな。本日には間に合う予定だったのですが、道中で羆が出たらしく足止めを食らっておりまして、帰還が最低でも一週間後になるのです」
「……ヒグマ。それは大変ですね、軍曹殿はご無事なのですか?」
「ええ、ご心配には及びません。ですが、そのような理由から少尉には申し訳ないのですが、軍曹が帰還するまで上等兵をつけさせていただきたい。代わりの軍曹も現在本部にはおらず、人手不足でお恥ずかしい限りです」

 嫌な予感しかない。嫌な予感なうえに確実に当たる予感がある。案の定当たった。鶴見中尉は、「尾形上等兵!」と声をかけた。遅かれ早かれ、とはわかっていたが早過ぎないか。これが鶴見篤四郎という男か。
 しかし、しかし俺はこの配属先が決まったときからちゃんと考えてきたのだ。勇作は兄様と慕ったから、というのも理由の要因にあるはず。勇作は良い奴だけど確かにしつこいお坊ちゃんだからたまに殺したくなる気持ちはわかる。俺はちはやと呼ばれる度に階段から突き落としたくなる。まあ結局殺しの理由は父の愛情云々らしいが、父から俺へは嫌悪しか向いてないことは後から仕込んでいくとして、まず俺は尾形とフラグを立てるわけにはいかない。ならば俺がとる行動は──そう!知らんぷりだ!

「花沢少尉、尾形上等兵です。一週間、この男があなたの傍に控えます」
「第二十七聯隊歩兵、尾形上等兵であります」

 うわそっくり、思ってた何十倍もそっくり。しかし目にハイライトがない。あと父はそんな笑みを浮かべることはな……いやあるのかもしれないけど俺は見たことがない。壮年になれば父と見間違えそうな男だ。長男、次男に父要素が見事に注がれた結果三男はこれになってしまったというのか。遺伝子采配おかしいだろうが。
 俺はニッコリ笑い、手を差し出す。害意はないから殺さないでね!

「花沢ナマエと申します。尾形上等兵殿、短い期間ではありますが不慣れな身にご指導ご鞭撻の程宜しくお願い申します」
「……こちらこそ」
「仲良くなれそうですかな?安心しました」

 握手は返してくれたし、特に痛みを与えてくるわけでもなかったのでセーフだ。セーフか?何がセーフだ?よくわからなくなってきたが、俺は絶えずニコニコと笑みを浮かべた。含み笑いをやめない鶴見中尉が、この後会議の予定のため抜けると言い、つまり俺は尾形と2人きりになった。選択肢間違えれば死が近づく、何もしなくても死が来る。本来ならここに勇作がいたはずなのにどうして俺なのか。自問自答しながら本部案内は終了した。鶴見中尉の和やかな世間話を加えてのコースとは違い淡々と場所と用途を説明され歩くだけの案内はすぐに終わる。
 しかし、恥ずかしながら俺は自分の部屋の場所を忘れてしまった。では夕食の時間になったら声をかけます、と言い去っていこうとする尾形の袖を引く。怪訝そうな顔が振り向いた。お、その顔は父にもされたことあるぞ。

「すみません、自分の部屋の場所を忘れてしまいまして……口頭でいいので、教えていただけますか?」
「……ああ、ではご案内を」
「ありがとうございます」

 なるべく意識して柔らかい笑みを浮かべる。尾形は胡散臭い笑みを浮かべてくれた。笑顔ヘッタクソだなこいつ。おももはあんなに可愛く笑ってたのにな。そういえば、おももの面影はあまりない。ああ、でもきっと優秀な狙撃手の血はおももの家のものだろう、何せ花沢家は剣道と脳筋に全振りされている。
 考えながら歩いていたのが悪かったのだろう、いつの間にやら立ち止まっていた尾形の背中にぶつかってしまった。鼻を押えて謝ると、尾形はイラッとした表情を一瞬浮かべ、その上に胡散臭い笑みを貼り付けた。

「こちらが花沢少尉の部屋になります。お疲れのようだ、ゆっくり休んでください」
「ありがとうございま……えっ」

 礼を言い部屋に入ろうとすると、尾形の指が俺の目元を唐突に撫でた。目頭から目尻まで数回行き来する指がいつ俺の目を潰そうとするか気が気じゃない。戸惑っていると、尾形はニヤリと笑う。胡散臭い笑みと印象の悪い笑みどちらかしかないのかこいつ。

「少し赤くなっておりますね」
「え……あ、ああ、そうですか……泣いたからかもしれません」
「泣いた?」
「お恥ずかしながら、」
「家族と離れるのがそんなにお嫌で?」
「……かぞく?」

 急に何の話だ。きょとんと首を傾げると、尾形のハイライトのない目が俺を見下ろす。違うのか、と問うているようで、俺は首を振った。

「家族からは元より離れたいと思っておりました。ですが、知らぬ土地に行くのは少々怖くて」
「……まるで生娘のようなことをおっしゃる。花沢家は仲の良いご家族でしょう、双子の兄上とも離れるのは初めてだとか」
「仲の良いとはどこの情報でしょうか……いえ、失礼、なんでもないのです。兄と離れるのが嫌だなんて、馬鹿げたことは言いませぬよ。わたくしは男子です、家を離れるのなら早い方が良いでしょう」

 尾形が本気で不思議だという顔をしている。どういうことだ。我が家は確かに仲がいいで売っている、らしいが、実際の中身を鶴見中尉が知らないはずがない。尾形に言ってないのか?絶好の付け入る隙だろうから家族仲の不和は必ず言われると思っていたが、なにやら予想とは違う出方だ。困惑混じりに苦笑して「尾形上等兵はわたくしのことをよくお調べだ」と言うと、尾形はまた胡散臭い笑みで「もちろんです」とだけ言い去っていった。……もちろんです?何が?殺しのリサーチ?なんなの?こわい。