生かさない愛とずっと
採れたてだという売り文句とみずみずしい見た目を見分けて野菜を籠に入れる。玉ねぎ、にんじん、じゃがいも、牛肉が入った籠の中身は、ナマエが少し成長をした証だ。先日商店街のヤヨちゃんのお母さんから、らいすかれえという西洋食の調理法を教わった。ナマエの家は決して西洋文化を受け入れないわけではなかったが、ナマエは西洋食を食べたことがない。だから興味を引かれた。しかし、それは誰にも話していなかった。ナマエは元来あまり口数が多くはなく話すことはむしろ苦手なであるし、口数の多い兄の話を聞くのみの生活に慣れている。さらに、今は家によく知らぬ軍人が居候をしているから、尚更軽く口を開けない。ただ、兄は今朝方客に貰ったというかれえ粉というものをナマエに寄越した。「きっとナマエなら美味しく作れるよ!」そんな曖昧な期待と共に偶然渡された小さな缶に、ナマエの心が少し動いた。ただ、それだけだった。
「アラ、ナマエちゃん」
「……ヤヨちゃんのおかあさん」
「こんにちは。お買い物? 重そうねえ。アラ……今夜は肉じゃが?」
たまたま角で会った、事の発端ともいえるヤヨちゃんのお母さんの問いにナマエは首を振った。
「らいすかれえ」
表情は大して変わっていないが、どこか雰囲気が明るかったのかもしれない、ヤヨちゃんのお母さんはナマエを見てころころと笑った。「なら、福神漬けを忘れないでね」ふくしんづけ。鸚鵡返しのナマエに頷き、ヤヨちゃんのお母さんは通り向こうにある漬物屋を教えてくれた。漬物はあまり買わないからナマエは少し眉を寄せたが、ヤヨちゃんのお母さんは今夜の夕食なら作るより買った方がいいと言う。一度味を知った方がいいという意見は確かだ。ナマエは頷き礼を言うと、重たい籠を持ち直した。
漬物屋には、当たり前だが多種類の漬物が並んでいた。樽の中、瓶の中、店中ぬかの香りが濃く鼻につく。ナマエは福神漬けを店主に頼むと、店主は籠の中を見てニヤリと笑い大きな瓶を出した。色の濃い中身に、ナマエが目を見張る。これが、福神漬け。
「随分大家族なようだが、これで足りないくらいかもしれんな」
「瓶、おおきいよ」
「福神漬けはあっという間に無くなるんだ、買っとけ」
そう言い募る店主にナマエは少し疑いの目を向ける。だが、最終的には大人しく金を出した。籠の中、底に瓶が置かれる。持ち上げると、ナマエの細い腕が痛みを主張したが持ち帰らねば夕食は作れない。兄は、家族を失ってから仕事以外では滅多に外食もせずナマエの作る食事を食べ続けている。
「おまえさん、剥製屋の娘だろう。軍人が出入りをしている。厄介事か?」
「しらない」
「こんな子供に重いもん持たせる軍人だ、ろくなもんじゃない」
やけに軍人を目の敵にしているらしい漬物屋の店主の様子に、ナマエは目を細めてさっさと店を出た。重たく引きずるように籠を持つ。おおかた息子を戦で亡くしたとかそのあたりだろう、お国のためにと送り出して帰って来なかった家族を思う気持ちは時に残酷に牙を剥く。ナマエの兄は戦にも行かなかったが、兄もいなくなってしまったらナマエはどう生きればいいのかわからない。ナマエ自身もまた歪んでいる、そう気づいたのはつい最近のことだ。
だが、ろくなもんじゃないという表現はあながち間違いでもないのかもしれない。ナマエは軍人を、兄を変えた人々を警戒している。兄は母の死を認めて以来豚の皮の服を常に着て、あの面をつけた男──鶴見、と名乗った男に心酔している。「鶴見中尉に会いたい」「どうして鶴見中尉がいらっしゃらないの!」と気が狂ったように一日に一度は必ず言っている。まるで生まれたての雛鳥が異径を親と認識して慕うさまを見ながら、ナマエは変わらずあの家で息を潜めて生活している。順調に、地獄への道を歩んでいるようだ。
商店街を抜けて道路に出たところで、ナマエは息切れを起こしていた。籠はもはや引きずっており、手は真っ赤になっている。二度に分けて持ち帰った方がいいことは承知しているが、盗まれない確証もなく溜息を飲み込んだ。道端に寄せて、籠の隣にしゃがみ赤くなった手をさする。日が落ちる前には帰らないと、夕食の時刻に間に合わない。家まであと半分ほどの距離に、ナマエは手のひらが擦り切れるだろうと予想した。軟膏を借りに兄の工房に入ることは遠慮したい。既に水仕事でボロボロの手だが、痛いことはなるべく避けたいという感情はナマエにもある。剥がれそうな瘡蓋を舐めて、ナマエはぼんやりとした目で籠をまた引きずろうとした。
「やい、人形!」
カンゾウだ。いじめっ子のカンゾウがバタバタと走りながらナマエを揶揄する。人形、あまり感情を表に出さないナマエに対してカンゾウがいつも言う悪口だ。ナマエはその悪口の通り、人形の如くなんの反応も示さずそのまま籠を引きずる。すると、カンゾウに足をかけられてしまった。ナマエは無様に転び、手のひらに石が当たる。籠は倒れて中から野菜が転がった。
「何してんだよまぬけ!」
わははとカンゾウが楽しそうに笑う。だが、カンゾウは構ってもらいたいだけだということを随分前からナマエは知っている。カンゾウの兄が戦で死んでからというもの、カンゾウはあちこちで悪戯をするようになった。ナマエは黙ってカンゾウを無視し、小さな手で野菜を一つ一つ拾い籠に入れた。玉ねぎをひとつ、泥のついてしまった人参をひとつ、元々汚れてはいたが傷がついたかもしれないじゃがいもをひとつ──拾おうとしたら、ナマエの目の前で誰かに先に拾われた。黒く大きな長靴は見たことがある、否、毎日見ている。顔を上げると、家に居候している軍人がいた。
「大丈夫か?」
「…………ありがとう、ございます」
差し出されたじゃがいもを籠に入れる。大方目に見える野菜は全て拾ったが、遠くまで転がっていったものはおそらく既に浮浪者の手の内だ。わざわざ返してもらおうとは思わない。ナマエが大人しく籠をまた引きずろうとすると、軍人に怯え隠れたカンゾウがまた近づいてきた。またナマエを突き飛ばすつもりだろうか。カンゾウをじっと見ると、カンゾウは籠を蹴ろうと足を上げた。また拾うしかないか、そうナマエがぼんやりと見ていると、カンゾウの足は籠には届かず、籠は宙に浮いた。
「女子に意地悪をするな」
「なっ、なんだよおまえ!」
「男なら手伝ってやるべきだろう」
威圧感のある声にカンゾウは顔を赤くして、いかにもな捨て台詞を吐き逃げていく。カンゾウの背を見送り、ナマエは助けてくれたらしい軍人を見上げた。籠を受け取ろうと手を出すと、その手は何故か軍人の──月島の固い手の中に収まる。
「こんな重たいものを、よくここまで持ってきたな。次からは、買い物に行くときは言いなさい」
少し口角を上げ、目元を和らげた柔らかい表情で月島はナマエの手を握り、もう片方の手で軽々と籠を持つ。促されるままに足を動かす。
──家族以外の人間と手を繋ぐのは、初めてだ。骨と関節が太く、乾燥しているのか感触はあまり良くなく、訓練の賜物なのか肉刺の硬い掌は兄には決してない感触だ。大きく、温かい手の持ち主は普段は無愛想な癖をしてにこやかにすれ違う人々と挨拶を交わす。「よかったわねえ、ナマエちゃん」そう言われ小さく頷く。頷いてから、ナマエはわからなくなった。あのおばさんは何がよかったと思うのだろうか、少なくとも今日は重い荷物を代わってもらえているからだろうか。それとも、普段私を気にかける大人などヤヨちゃんのお母さんくらいだから、兄以外の人に構われているからだろうか。それとも──「ナマエちゃんはお兄さんと二人暮らしで大変そうだから、頼みますよ優しい軍人さん」定食屋で働く嫁ぎ遅れの女がどこかあどけない笑みで月島に媚を売る。ナマエの方にはちらりとも視線を向けず、ただ月島を見つめて「今度お店にいらしてください」と横髪を耳にかけた。無骨な軍人なら売れ残りをもらってくれるとでも思っているのだろうか。仮に街の住民と居候の男がどうこうなったところでナマエにとってどうでもいいことだ。ナマエは女から目を逸らし、当たり障りのない返事をする月島が動くのを待つ。
優しい、軍人さん。一体どこが優しいのだろう。この男は、鶴見中尉とやらと共に行動している男だ。母の頭が撃たれたときも、黙って静観していた男だ。狂気の現場に平気でいられる男が優しいものか。ナマエの手を握るこの硬い手で銃を撃ち、刃物で切り、裂き、刺しているのだ。にこやかな顔の裏で殺気を放ち、優しい声の裏で脅しかける。何が優しいものか。兄は、いつか殺されるかもしれないのに。
兄はこの軍人たちに妙な依頼をされているらしい。豚の皮で作る洋服、それには妙な模様を入れている。洗ったら落ちるかどうか、石鹸で色が変化するかどうか、兄はナマエにバレていないつもりらしいがそもそもそれまで家の事をやっていたのはナマエであって、高価な石鹸がどんどん減っていく様を見ているナマエを誤魔化そうなどと馬鹿な事なのだ。だが、ナマエは誤魔化される振りをする。少数人の軍人が依頼することなど、ましてや剥製屋の兄に頼むことなど真っ当なものではないのだろう。依頼が完了したとき、兄はおそらく殺されるのだ。そのときはきっと、ナマエも同じだ。そして殺されるとき、兄は憤慨もしないのだろう。もう兄は鶴見中尉の掌で楽しそうに飼われているのだから。そして、きっとこの男は兄とナマエを殺したあともこうしてまた誰かと優しく生温い会話をするのだ。誰かを殺すために生活している今のように。
話を終えたらしい月島に手を引かれ、ナマエはまた歩き出した。疲れたのか、転んだ膝が少し痛みだしている。
「あともう少しで家に着く、すぐに手当しよう」
「……じぶんでやる」
話しかけられたことにナマエは一瞬戸惑い、声が上擦った。月島はそれを気にすることなく、そうか、とひとつ頷くだけだった。その横顔にどこか既視感があったのを、ナマエは見ないふりをした。
膝の手当、といっても水で洗っただけの処置ともいえない手当をして、ナマエは台所に向かった。水のせいで体が少し冷えているが、動いていればすぐ温まる。夕飯の時間が少し遅れてしまうかもしれない、ナマエは少し焦りながら台所の戸を開け──すぐ閉めた。
「ナマエちゃん?」
「………」
何故、ここに。わざわざ閉めた戸を開けてナマエを見下ろす、上着を脱ぎナマエが洗った白いシャツの袖を捲っている月島を見上げる。腕の銃痕のようなえぐれた傷が少し目立つ。
「手伝おうかと思ってな。いつも任せきりだが、考えてみれば人数も増えた家事をまだ幼い女の子に任せるのは酷だ」
「いらない」
「そう言わないでくれ」
「いらない」
「早くしないと夕食の時間に間に合わないぞ」
「………」
人の話を聞かない軍人は、台上に置かれた鍋を釜の上に移動させ、野菜を手に取った。
「何を作るんだ?」
その質問に、ナマエはため息を吐いた。どうしても手伝うらしい、ならばこき使ってやろう。大人しくしていたところで子供相手に強く出る大人だ、逆にこき使ってやるのだ。こんな小娘にこき使われるなど軍人の自尊心に傷がつきそのうちいなくなる、そうナマエは思い「米を研げ」と強い口調で言った。月島はひとつ頷き、米櫃を開ける。水を流すと冷たいなと呟いた。軍人と並んで台所に立つなど、人生で一番奇妙なことかもしれない。
米の水が沸騰する音、鍋の芋が煮える音、トントンと野菜を切る包丁の音、いつもよりも少し多い物音が台所から聞こえるというのは不思議な心地だ。ナマエはいつも、一人だった。
「ライスカレーを作るのは初めてだ。作ったことがあるのか?」
「食べたこともない」
「食べたことも? ……江渡貝くんは洋食は好まないのか」
「いいや」
「ならどうして」
「私は、家から出ることはほとんどなかったから」
鍋を見ているだけなのが暇なのかよく話しかけてくる月島と会話をしてやれば、月島は少し間を空けた後ひと言そうか、とだけ返事をした。以前の我が家の状況を考えたのだろう。こうして少し話を交えると、ナマエは月島という男を少し誤解していたようにも思う。確かにこの軍人はまともな類ではないのだろうが、とても思慮深い人間であることも確かだ。その辺の、武力のみで生きていけると思っているような軍人崩れの輩とは違い知識というものを持っているし、かつナマエにどんな口を聞かれたところで怒らぬ気も持っているらしい。ちらりと月島を見やると、月島は表情を変えないまま真面目に粉の入った缶のラベルを読んでいた。
「……ナマエちゃんは料理が上手いから、きっと美味しくできるな」
「……まずかったら?」
無言が気まずかったのかもしれない月島に、ナマエは少し意地の悪い気持ちで問いかけた。
「それでも美味いと言って完食するさ」
月島はふっと息を吐くように笑い、ナマエの頭をその硬い、銃が馴染む手で撫でた。ナマエは黙ってそれを受け入れた。じんわりと、頭がその感触を吸収するように、心地よく感じた。そして同時に、ナマエは胸が痛くなった。この手は、よくないものだ、よくないものだけど、心地いいのだ。
ぽたり、福神漬けの赤色が白い皿に流れていく。カレーの粉が鍋の水と野菜にじんわりと溶け、色を変えた。食卓に出したとき、兄は「とっても美味しいよ!」と笑った。月島は「よく出来ている」とナマエの頭をまた撫でた。もう一人の軍人、前山は「ほっとする味だね」とおかわりをして、さらにもう一人は何も言わずにおかわりをした。皿に盛った白米の上にかけられたらいすかれえは、あまりいい匂いがしない。鼻につく、香辛料の香りは父の香水を思い出した。一口、スプーンを咥え咀嚼する。舌先にピリリと痛みがあった。匂いが鼻の奥で溜まっていく。ちらりと月島を見た。行儀の良さなど知らぬ、生きるために食事をしている粗雑な姿に、この男は違うのだとホッとした。ホッとして、やはり胸が痛くなった。
「どうしたの、ナマエ。口に合わなかった?」
ナマエの様子を誰よりも早く察知するのはいつも兄だ。兄しかいない、そう、ナマエにはもう兄しかいないのだ。だから、兄が死ぬときはナマエも共に殺されるのだ。その覚悟が、ひつようだったのに。
「……舌が、痛い」
「ふ、ふふっ、そうだね、ナマエには少し辛かったかもしれない。カレー粉のせいだね、ごめんね、ナマエ」
次は甘口を買って帰るよ、そうしたらナマエも美味しく食べられる。兄は、少し舌を出したナマエの姿に嬉しそうに笑った。ナマエの口数がいつもより多いことが嬉しいのだと、ナマエが初めて自分から食べたいと思ったことが嬉しいのだと笑った。その笑顔が、いつもならばなんとも思わないのに、ただそのときは、そのときだけはナマエも嬉しくなって、少し頬がゆるんだ。「牛乳を飲むと少しましになるぞ」と、そう律儀にコップに注いぎ渡してきた月島がまぶしくて、そのやさしさにナマエは目を細めた。
でも、牛乳を飲んだところで、痛みは変わらないのだ。ナマエの頭を撫でたあの掌は、やはり人を殺める手で。全ては、夢だ。淡い淡い夢だ。痛いのは舌だけじゃない、喉も、腕も足も、全部、全部が痛いのだ。転んだ膝の傷なんかどうでもよかった。にいさん、そう呼ぼうとしても声が出ないのだ。ひゅうひゅう、風が木の隙間を駆け抜けるときのような音しか出ないのだ。ごうごうと兄の居場所が燃えていく。洗ったばかりの白いシャツに、福神漬けの赤色が流れて。
ナマエはもう二度と、らいすかれえは作らない。
title by afaik