ALBATROSS

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君がいれば夜も平気さ

また、風が青い匂いを含む季節になった。朝露がとろりと弾けるような時間帯、僕は汗臭いTシャツを着替えることが出来ないままぐったりとした身体で1人、誰もいない街へ出た。最近僕の書いた記事を気に入ってくれる人が多いらしく、バイトの仕事が増えた。収入が増えることは嬉しいが、これが本業で増えたのならとささやかな落胆を持つのは烏滸がましいだろうか。編集長は僕に仕事を回してくれるが、同時に彼女は僕に無理をするなとも言った。自分の納得する道を探したほうがいいのだと。元よりバイトの収入の方が多かった。それが更に増えた。1年ほど前から考えていたことだが、僕は絵をやめたほうがいいのかもしれない。書こうとしていた絵は下描きのまま止まり、売ろうと思っていた絵はいつの間にか大切なものとなり手放せる気にならなかった。そしてじきに増えていく記事の量に、こうして朝帰りとなることも少なくはなかった。街中にかかる霧が僕の中にも入ってきたようだ。僕は、好きでもないこの仕事に専念したほうがいいのだろうか。切なく泣く腹の虫を撫でて、車のエンジンを入れた。

肌を焼く気温は息を潜め、気道を冷やす空気が流れる中を、この1年でよく通ったためか潮の匂いが強く着いたラングラーが駆ける。窓を少し開ければこの辺りでは普通はしない潮をラングラーが連れてくる。すっかり潮風と仲良くなったようで、それに僕も海へ行く道路とは旧知の中のようにすいすいと走れるようになった。ただ、いないのは犬だけで。
あの日から、犬の姿は消えてしまった。玄関のドアは閉まっていたが、鍵はかかっていなかった。しかし、僕は常日頃から鍵をかける癖があまりないためそれだけで判断は出来なかったが、おそらく犬は家から出ていったんだろうと3日経っても帰ってこない様子に結論づけた。姉の杖は、犬が持っていってしまったらしい。それから、犬は犬ではなかったのかもしれないらしい。いなくなってしまった翌日もバイトがあった。仕方なく職場の人に聞くと、綺麗な金髪の彼は「犬が話すわけないだろう!はっはっは、君なかなかジョークが下手だな!」米語訛りの言葉でげらげらと笑い、そして親切にも犬の生態に関して教えてくれた。犬は、話さないし、人間の言葉も理解しないのだと。少なくとも彼の飼っているヨークシャーテリアは理解しないと言っていた。「風呂に自分から入る?人間みたいだ、それ、実は人間……モンスターだったんじゃないか!?」「犬だよ」「犬なわけないだろう!そのモンスターはもういないのかい?いい記事になるぞ!」犬が消えた理由を、彼は東洋の国の鶴の話に例えた。正体がバレるといなくなってしまうらしい。僕が聞いたあの声は、犬の正体だったようだ。不思議と恐れる気持ちはなかった。

軽く雨が降ったらしい。車を降りると、ぬちゃりと泥が靴に着いた。この汚い足で家に入るのは嫌だなあ、と玄関で靴を脱いだ。静かな、誰もいない家に帰るのはどこか寂しかった。しかし僕にペットを飼う余裕もなければ、あの犬以外を引き取る気にもならなかった。たった数ヵ月で僕は随分あの犬に心を寄せていたようだ。
鞄を階段のあたりに放り、泥のついた靴を持ってそのまま風呂場へ向かう。やっと汗から逃げられる、と服を脱ぎ熱いシャワーを浴びた。汗で身体が冷えたようで、熱さがじんわりと染み渡る。桶の中に靴を入れ、洗う気にもならなかったため洗剤と水につけたまま放っておく。さっぱりとしたら、次は腹の虫が泣いた。下着だけ身につけ、濡れている頭にタオルをかけて居間に行く。戸棚の中にもらったお菓子があるはずだ。姉の旦那が送ってきたものだ。1年前に僕に杖を向けた姉は、なんでも子供が出来て情緒不安定だったのだと旦那は手紙を寄越した。彼は何故か僕に優しく気をかけてくれているようだが、僕は彼に何も返せるものがないから少し怖い。ガリオン金貨とかいうものをもらっても、せいぜい瓶の中に入れてお洒落な雰囲気を出すことしかできないのに。子供は無事生まれたとこの間葉書が来たが、残念ながら僕は姪を見に行く気にはならない。ぺたぺたと幼稚な足音を立ててドアを開けると、暗いはずの部屋になぜか電気がついていた。
「……だれ?」窓のそばに、男が立っていた。すらりとしたモデルのような身体で、シンプルなジャケットを羽織っている。僕の声に、男は振り向き、しっかりと僕を見た。ぽたりと頬に髪から落ちてきた水滴が流れる。灰色の瞳に、犬を思い出した。「玄関の鍵は閉めても、窓の鍵は閉めない癖は治らないのか。気を付けた方がいいぞ」「……ええと、どちらさまですか」知らない人が家の中にいるのに、不思議と怖い感じはしなかった。何故だろうか、僕の心は不用心なのかもしれない。男が吐息だけでわらう。ふ、と吐き出されたそれが、連れ添った恋人のように空気と溶けた。コツリと靴が音を立てて僕のそばにくる。ふわりと香るコーヒーのような匂いに反応したのか、おなかがすいたと腹の虫がまた泣いた。無意識に腹をさすると、それに気づいた男がやれやれと呆れたように僕を見た。「またそんな恰好をして……」「……また?」男が僕の頭にかかるタオルを取り、僕の髪を拭く。手つきは乱雑だが、痛くはない。この人は、僕のことを知っているらしい。ぼう、と見ていると、男の髪は星が瞬きそうな、夜空のような髪をしていることに気が付いた。男が僕の視線を捉えて、何を見ているんだ、と愉快そうに目を細める。灰色の瞳は、色の印象とは裏腹に暖炉の火のような温かさを持っているようだった。目尻の皺が、妙に浮かんで見えた。「なにしに、きたんですか」「君に会いに」問いかけた言葉に対する答えはあっさりとしたものだった。僕に会いに、なんて奇特な人だ。男はふ、と整った髭のある口元を緩めた。

「また、海を見に行こう」

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