ALBATROSS

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星空が君を見下ろす夜

風が強い朝だった。普段ならば起床は昼近くだが、その日は朝早くに目が覚めた。薄いカーテン越しに入ってくる陽の光がやけに眩しく感じ、何度か目をこすると窓の前を鳥が横切り部屋に影が差した。少し冷えるようで鳥肌が立つ腕をさすりながら居間へ行くと、数年前に知り合いの結婚式の引き出物でもらった花柄のバスタオルの上に寝ている犬が僕の気配にほんの少しだけ目を開けた。今日は平気なのか、と近づこうとすると、犬はグルルと唸り僕に威嚇した。「……まだダメ?」「バウッ」「わっ、……起こしてごめん」犬に向かって伸ばそうとした手にある赤い瘡蓋を見て溜息を吐いた。

数日前に起きた犬は人に恐怖を抱いているようで、目覚めてすぐに家から出て行こうとした。しかし栄養失調は酷く、フラフラと居間から出るか出れないかのあたりで倒れ、僕は犬に何もしないからと言い聞かせてまた寝かせた。それから犬は大人しく、近づいたら噛み付いてくるものの、食事も食べて水も飲むようになりなんとか、なんとか徐々に元気になっているようだった。犬はくったくたのパスタよりもスープに浸したパンの方が好みらしい。

その日の夜、バイトが長引いて遅くなった。僕によくしてくれる編集長さんが「アンタも気をつけなさいよ」と巷で噂の脱獄犯の話を少しして、それから以前犬を飼っていたらしくHowto本をくれた。少し古くて折り目のついた本は今後の参考にしようと車の助手席に置き少し覗いた。食生活の項目のところを見たとき、僕は既にあの犬にオニオンを食べさせていて、やってしまったと頭を抱えた。
家に帰ると動けるようになったらしい犬がソファの上で寝ていた。床では嫌だったらしい。一応お気に入りだったワインレッドのシーツが黒い毛だらけの埃だらけになってしまった。よく見たら少し泥がついている。外は既に真っ暗で、空を見上げると明明と星がいくつも光っていた。時刻は日付が変わるか否かのあたり、身体は疲れている。しかし、僕は仕方なく腕や足を噛まれながらも犬をソファから降ろし、シーツをバケツに放り投げると、犬を抱き上げた。「バウッ、ガウッ!」「ソファに上がれるくらい動けるようになったんだからいいだろう、大人しく洗われてくれよ」

犬は強い顎力で僕の腕をあぐあぐと噛み、僕は痛みに耐えながら犬を驚かせないようゆっくりと温いシャワーをかけていった。シャワーで泥や埃などをあらかた流し、石鹸を泡立ててわしゃわしゃと洗っていく。すごい匂いだった。野生の犬はこんなにひどい匂いなのかと驚いた。それと同時に、犬が本当に細くて不安にもなった。もともと目に見えて細かったが、水を含んで毛がぺたんと倒れて細さが強調された。手でゆっくりと洗っていても、犬の足は僕でもぎゅっとつぶせそうなほどに細かった。しかしこんなに細いのに僕の皮膚を食い破るくらいには顎の力が強いというのも不思議だった。
洗っていくうちに当然僕の服もぐしゃぐしゃのどろどろになり、犬のひどい匂いも泥も埃も、それから僕の血もついてしまった。脱がなかったのは僕だが、こんなに汚れるとも思っていなかったのだ。これはもう着られない。仕方なく全て捨てようと決めて、なかなか取れない汚れを綺麗にしようと2回目の石鹸を手に取った。2回目は1回目よりも警戒心が無くなったのか、犬は僕の腕を噛むのをやめて大人しくしていた。耳元でハアハアと荒い息をされるのはあまりいい心地がしなかったが、噛まれるよりはいい。耳の裏を擦りながら話しかけた。「なあ、どうしてベンさんの畑に潜り込んだんだ?」犬は当然何も答えない。耳はもういい、と言うように、僕の手を抑え首を押し当てた。そこを擦れというのか。仕方なく、首回りを揉むように擦る。どろりと埃で泡が汚れた。これでは3回目が必要かもしれない。「次からはベンさんのところはやめておいたほうがいい。ベンさんは癇癪持ちなんだ、下手したらおまえなんて殺されてしまうよ」僕は大人しく犬の言うことを聞いて脇をなるべく優しく、傷つけないように洗った。2回目のシャワーをかけると、犬は前よりも綺麗になっていた。痩せているとはいえ、体格的には大型犬の部類なんだろう、そんな大きな犬の全身を何度も洗うのは、もともと疲れているのにさらに疲れる行為だ。どうせまた汚れるだろうから、近いうちにまた洗おうと僕は血と泥と泡で汚れた手を軽く洗い、ちぎった小さなスポンジに新たに石鹸をつけた。犬を座らせ、前足を出させる。爪や肉球の間に弱くしたシャワーをあてると、犬はくすぐったいのか身震いをした。肉球の間を洗うだけでも結構な時間がかかった。泥はもう固まってしまい、毛にこびりついていた。「そういえば、今日バイト先の人から聞いたんだ。指名手配犯中の脱獄犯がこの近所に来てるかもしれないらしい」びくり、犬が前足を僕の手元から無理に抜き取ってしまった。ああ、もう少しでとれそうだったのに。だめだろう、ともう一度掴むと、指先に痛みが走った。毛にくっついていた木の破片が刺さっていたようで、それを抜いて血を水で洗い流す。白やら灰やら茶色やらが混ざった床の水に赤が混じり、気味の悪い色を生み出していた。「……おまえはきっと元気になったらすごく強いんだろうね。もしかしたら脱獄犯もベンさんも倒してしまうかもしれない。でも、そんなつまらないことしちゃだめだよ、おまえのその大きな体と自由な手足ならきっとどこへでも行ける」僕をじっと見る灰色の瞳が、やけに人間くさく感じた。

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