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ALBATROSS

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ろくな愛をしらない

江渡貝くんの妹


 ガシガシと勢いよく洗濯板に服を擦り付ける。シャツは優しく洗いなさい、という母の教えなどとうの昔に庭先の小さな墓の下に埋めて、知らんふりをして力を込めて汚れと繊維を盥の中に落としていく。白い泡が白いシャツを白く彩り、まるで空に浮かぶようだった。
「なまえ、なまえー、どこに……キャアッ! 僕のシャツ! くしゃくしゃのビリビリじゃないか!」
 裏口から出てきた兄が乙女のような声を上げてなまえの持つ洗濯板からシャツを奪った。よれよれになり襟が大きく開いたシャツは泡がついたままだが、兄は泡が洋服につくのを気にせずシャツを抱きしめ、なまえを睨むように見る。兄を見上げると、兄の後ろには悪魔の館のような家がある。なんの色味も見えない暗い家だ。なまえはいつもこの家で寝て起きて生活しているのだ。
「何度目だい、なまえったらいつも僕のシャツをこんなにして──剥製にしちゃうぞ!」
 兄の口がペラペラと動く。なまえはぎゅう、と唇を噛んだ。いつだって兄は怒ると剥製にするぞ、となまえを脅すのだ。その度になまえはお母さんたちみたいに? と、居間にある人間の剥製たちの中に自分が入るのを想像する。中身が空っぽの自分に兄が話しかけるのだ。ねえなまえ、今日の夕飯は何がいいかな? 返事の無いなまえに、兄は嬉しそうに「ならそうしよう!」と台所に向かうのだろう。兄はなまえの好物を作るのかもしれない。吐き気がした。おえ、と吐くような動作をすると、途端に兄はシャツを放り出し、オロオロと様子を変えて「苦しいの? 吐き気がする? はやく医者に行こう」と迷子のような不安そうな目でなまえを見る。その愚直な瞳に、なまえの歪んだ顔が映り込む。否定の意を込め首をふり、視線を逸らした。
 なまえの兄は狂っている。なまえの母も狂っているし、父も狂っていたのだろう。なまえはまだ幼いが、世間一般から見ると己の家族が異常で奇怪なのだと理解している。少なくとも商店街のヤヨちゃんの家に人間の剥製は置いていないし、いじめっ子のカンゾウの兄は豚の皮で出来た洋服を着ない。それに、物言わぬはずの剥製と会話をする人間なんて、世界を探しても少数だろう。その少数に当てはまる兄は、どう見たって異常なはずなのだ。しかしなまえにとって家族はもうこの兄しかいない。例え日々物言わぬ人間の剥製に怒られて泣いたり、物言わぬ人間の剥製の分の食事を出し皿の中が一向に減らないのを見て心配するなどの奇行を繰り返していても、なまえが生きていく上でこの兄は必要不可欠なのだ。だが、なまえは疲れていた。兄の奇行と周囲の溝は埋められないほど浮き彫りになっているのに、兄は自分を個性だと言い、なまえがその個性を理解していると思っている。そして兄の一番近くにいるなまえを、兄は心から信頼している。そこに血が同じ兄妹の情愛はあるのか、あったところでなまえにとってハズレの飴玉よりどうでもいいものだが、兄は妹がそばにいないと夜も眠れないのだと泣き喚く。もう所帯を持っていても可笑しくはない年齢の兄と毎日同じ布団に入らねばならない。なまえにとって兄は唯一の生きる道だ。ただし、その道は地獄の花道なのだろう。
 兄が放り出したせいで土がつき洗い直しになったシャツを手に取る。兄は、シャツを握るなまえの手を叩いた。痛みになまえの目が潤み、拾ったシャツをまた落としてしまう。手は水の冷たさと叩かれた痛みで既に赤くなっていた。その手を兄が包み込み、見えない何かを塗り込むように何度も摩られる。
「だめだろうなまえ、汚いよ、もうそれは雑巾にしよう。工房で使うから、あとで乾かしてハサミで切っておいて。手を洗って、今日はお家にいよう。お客さんが来てるんだ、美味しいご飯をたくさん作ってくれる? 僕はなまえの作るご飯が大好きだから、大好きなものをあの人に教えたいんだ」
 そのお客さんとは生きている人なんだろうか。なまえは痛む手を兄の手のひらから抜くことが出来ず、兄のにっこりと笑う優しい顔に黙って頷く。またシャツの残骸が血を吸い暖炉で灰になる。兄のいう美味しいご飯はお客さんと人間の剥製の分もしっかり作らないといけないのだろうか。今から商店に走ってヤヨちゃんの優しい生きてるお母さんからお夕飯の材料を買わないと。時間帯に間に合うだろうか。暖炉に焚べるご飯を作るのは嫌だが、兄が寂しいと泣くのはもっと嫌だ。なまえはそっと兄の手から自分の手を抜こうと力を抜いた。しかし、兄は離してくれず、それどころかするりと抜けそうな手を離すまいと更に力を込めてくる。「なまえ、僕の話を聞いてくれる?」ビクン、と身体がはねた。今までに聞いたことない兄の声だった。男性にしてはあまり高くない声は悲しげに小鳥のように細々と鳴く。

「なまえ……あのね、母さんは……母さんは、死んでるんだ」
 今まで黙っていてごめん。

 兄は番を喰われた鳥のように寂寥と言い、切なくはらはらと花を散らすように涙を流す。そんな兄を見るなまえの目は混乱していた。今まで兄は母を生きていると思っていた。それは知っている。母の剥製を大事にしていたから、なまえは兄の機嫌を損ねまいと同じようにした。母が足が痛いと言ったらしいときには高い米をわざわざ粉にして溶いて塗ってやったし、何が食べたいあれが食べたいなど食事の要望を伝えてきたらしいときには言う通りにしてやった。なまえは一生この家から出るまでそれが続くのだと思っていた。何故こんな唐突に、兄は現実を受け入れたんだろうか。なまえは天変地異が起きたような感覚だった。しかし、兄はなまえの様子をショックを受けていると思ったらしい。なまえに「母さんとお別れをしよう」と言い、その手を引いて居間へと向かう。
 廊下を進んでいくうちに、なまえの心臓は嫌なほど動いていた。ドクリドクリ、耳の中で脈が動き、首の後ろにじわりと汗をかく。お客さんが来たと兄は言っていた。間がおかしいだろう。なまえはまだ幼いが阿呆ではない。嫌な予感はよく働くほうだ。
 扉が開けられる。むわりと火薬のような臭いが鼻についた。「おや? おやおやおや?」ビキリ、部屋からした声に体が固まる。兄が不思議そうになまえの手をグイグイ引いた。「江渡貝くぅん、その子供は?」
「僕の妹です。人見知りかなあ……大丈夫だよなまえ、おいで」
 部屋には男が三人いた。額に変な面をつけて、気味の悪い変な服を着た男と、軍服を着ているけど頭に布を巻き付けた男、それから同じく軍服姿で他の2人に比べると特に特徴の無い男。皆なまえからしたら背が高く、元より暗い部屋の中で三人の男の顔はのっぺりと薄気味悪さを醸している。なまえは恐怖から後ずさると、兄がなまえの手を引く。
「なまえ……信じられないんだね。怖い思いをさせちゃったんだ、ボクのせいだ……でもね、なまえ、もうボクたちは母さんに囚われなくていいんだよ、お別れをしよう。新しい人生を生きるんだ」
 手を引かれるままなまえは完全に部屋の中に入ってしまった。居間の異様な雰囲気に包まれる。床に母の剥製が倒れていた。その額に銃痕のようなものがあるのを見て、思わず兄にしがみつく。兄は驚いたが、そのままなまえの身体を抱きしめた。震える背中を兄に摩られる。「ん〜、その子もか……。なまえちゃんと言うんだね?」
 気味の悪い服を着て額に変な面をつけた男がなまえと目を合わせるようにしゃがみ、なまえの顔をのぞき込む。至近距離で見たその顔には、皮膚が引き攣り未だ細胞の修復が追いついていないような赤く大きな傷痕があり、それは面の下に広がっているようだった。炭鉱があるから近所でよく酷い傷痕を見ることはあるが、その多くは火傷だ。この男の傷痕は、ガス爆発に巻き込まれたという炭鉱夫たちの痕によく似ていた。ギョロリと黒目がなまえを捕らえる。兄の服をぎゅっと握ると、その手をやはり兄が握り込んだ。
「はじめまして、私は鶴見と言うんだ。お兄さんによく似た可愛らしい子じゃないか」
「ええ、なまえはとても可愛いんです!あまり喋らないから暴言を吐かれることも多くて、籠った性格なんですが……とてもいい子なんですよ」
「そうかそうか、それなら尚更早く自由にさせてあげた方がいい」
 よく見なさい、と鶴見が無遠慮に指を指した先の母の剥製の額を貫いた弾は誰が撃ったのだろうか。家に銃は無いが、この軍人たちならば銃くらい持っているだろうし、実際鶴見以外の軍服の男たちは二人共背に銃を担いでいる。「なまえ……」兄にぎゅう、と押し潰されそうなほど強く抱き締められる。細い兄の胸に押し付けられ、鼻の奥が痛む。

「なまえ……もう、いいんだよなまえ、ボクたちは自由なんだ。母さんはすでに心臓発作で死んでいる、あれは抜け殻に過ぎない……母さんが動くことは、もう無いんだ。でも大丈夫だよなまえ、ボクたちがいるんだ。ボクにはなまえがいて、なまえにはボクがいるから、だから泣かないでなまえ」

 震える背中を兄の温かい手で支えられる。恐怖から戦慄いているなまえを、兄は悲しみで泣いていると思っているらしい。「なんて美しい兄妹愛なんだ……!」鶴見が情感のこもった声で呟いた。パチパチと乾いた拍手が部屋に響く。
 何度もなまえの内側に得体の知れない愛という名の毒を刷り込むように、なまえの名を呼び続ける兄の服の裾を握る。母は、なまえには優しい母だった。死んでいることなんて既知の事実だ、だって母が倒れてから息を引き取るまでなまえはずっと側にいたのだから。母は兄が認めた今日、二度目の死を迎えたらしい。
 そうか、兄は現実を受け入れたのだ。しかしすでになまえのまぶたには、母の抜け殻に嵌った硝子玉の瞳が焼き付いている。元来の瞳の形はどうだったか、よく覚えていないのだ。母と交わした会話の数々も薄らと淡雪の如く消えかけている。ここはまさに地獄の花道のど真ん中なんだろう、なまえは啜り泣く兄に名を呼ばれながらそう思った。