ALBATROSS

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ただし全ては偶然である

 時間が無い。そして時間が無い。第七師団に配属されてからというもの、尾形と過ごした最初の一週間はとうに過ぎて、しかし特別な出来事はない。だからこそ焦っている。このままだと死ぬ。嵐の前の静けさとはまさにこのことか。
 すでに世間はきな臭い。露西亜に近いこの地では、街は平和たまに物騒といったものだが軍部は緊張感に包まれだしている。かの国が満州の鉄道を開通させたと聞いていよいよ危うい。日露戦争が始まったらどうなる? 俺が死ぬ。イヤーッ。会議中だけど泣きそう。涙を耐えて強ばった顔は國を思う青年と変換されたらしく、会議後に淀川中佐からめちゃくちゃ褒められてしまった。お父上も鼻が高い? ほんとですかあ、嬉しいなえへへ。何も嬉しくない今すぐ辞表を叩きつけて本土へ逃げ帰りたい。
 余命期間をひしひしと感じ背筋が震える。鶴見中尉からは風邪かと心配されてしまった。あとで軍曹が白湯を届けてくれるらしい。優しいね。中尉ったら俺の事そんなに見てたんですか。怖い。違う意味で震えてしまう。
 鶴見中尉の鋭い視線からも追われない形でとにかく逃げる方法に頭を悩ませながら部屋に戻ると、机の上に手紙が置いてあった。なんだろうかと裏面を見れば、本土で上官に可愛がられ後輩に慕われて女人にキャアキャア黄色い声をあげられのうのうと平和に暮らしているであろう勇作からだった。おっと凄まじい嫉妬で偏見だらけになってしまった、いかんなまえしっかり気を持つんだ俺の方がかっこ……可愛いのは事実だから認めるしかない。悔しい。
 さて、封筒にはすでに開けた形跡があった。……まあ、どうせここは優秀な情報将校の管理下だってことは勇作もわかっているだろうし、見られて困るようなものでも無いだろう。
 ペリペリと乾き出している糊を剥がし便箋を取り出す。拝啓から始まる勇作の、インクが少し滲んだ文字を追う。蝉の鳴き声が夏の訪いを、という時候の挨拶にはイラッときた。自慢か? やーいお前んとこド田舎ー! とでも言いたいのか。北海道ではまだ蝉の鳴き声などせん。ふんっと鼻を鳴らして先を読む。そして俺は信じられない知らせに目を見開いた。俺が急に立ち上がって椅子を倒す音と、部屋をノックする音が合わさる。

「花沢少尉? どうかなさったのですか?」
「い、いえ、いいえなんでも……うとうとしていたから驚いてしまって」

 俺付きの軍曹が心配そうに見てくる。愛嬌のあるあばた顔にふるふると首を振り、もらった白湯を飲んで落ち着いた。
 手紙を力の限り握りしめていると、それに気づいた軍曹が首を傾げた。何か悪い知らせが? いや。いいやそうじゃない、むしろいい知らせかもしれない。口元がムズムズしてしまう。

「え、縁談があるようで……その……」
「なんと! それはよろしゅうございました」

 よろしゅう、そう、よろしゅう、とてもよろしゅうございます! えへへと笑うと軍曹も笑って、自分も妻とは──と微笑ましい夫婦エピソードを聞かせてくれた。先程までの余命への恐怖が薄れ、生命力というものが漲ってくる。
 俺は次男だからきっと婿入りだろうし、そもそもこういっちゃなんだが母親が特殊型気狂いなので縁談ももらえないと思っていたのだ。今ならば淀川中佐の花沢中将ベタ褒めトークにもうんうんとにっこり頷いていられる。このまま年内にスピード婿入りしてしまえば、俺の寿命もこちらのものでは無いか? 天は俺を見放してはいなかったのだ──ああ神に感謝を! センキューやおよろず!

 そう、思っていたのに。







 花沢少尉にお見合い話が来たという話題は、少尉付きの軍曹の小さなつぶやきからすぐさま広まり、そして消えていった。陸軍中将の息子で次男ともなれば繋がりの欲しい御人たちはこぞって婿に欲しがるだろう。

「それに比べてお前は……ぷぷぷ!」

 宇佐美が耐えきれないと噴き出して笑う顔に、ここが食堂で無ければ銃弾をぶち込んでやれたのに、と尾形は残念に思った。
 だが、それなりに軍人としてやっている自分よりも花沢なまえという名前だけの人間に群がる様子を見ることに腹が立たぬわけではない。 
 花沢なまえが旭川に来てすぐに、鶴見中尉の思いつきによって尾形は彼奴と一週間を過ごした。お坊ちゃんは大変甘く柔らかな籠の中で育てられたようで、何も知らぬ無垢な顔をして尾形と向き合い、そして今は軍曹の後ろをひよこのようについていく生活をしている。いつもにこにこと何が楽しいのかわからぬ笑みを浮かべ、上官から少しでも怒鳴られれば頬を膨らますか丸い目に涙を浮かべる。大人のふりも下手な子供であった。
 しかし、何故か彼奴は人によく気にいられ可愛がられている。菓子をもらい頭を撫でられ、本土から渡ってきてひと月も立たぬうちに近隣の女学生から下の名前で呼ばれていた。走ることは出来るが剣術も銃も下手、だが人の懐に入る才能だけは特化しているらしかった。

『尾形さんは銃がとても上手だと聞きました』
『さんなどと、とんでもございません、上等兵ごときにそのような。規律が狂ってしまいますので、自分のことはどうか呼び捨てで』
『……そうですか? では尾形上等兵、あのお店が見えますか?』
『──ハ、駄菓子屋ですか』
『ハイ!』
『……寄りたいのですか』
『ハイ! 実家では駄菓子など許されなかったもので……だめでしょうか』

 外回り中に何を言っているんだこのクソガキ、と口に出さなかった自分を見直した。尾形よりも三寸ほど小さい女顔は自然と上目遣いになり、整った目元がじっと尾形を見上げる。目の前にいるのが自分を害さず許す者であると信じているよう瞳で、そのとき尾形の胸元は手入れ中の銃に触れられるような不快感に満ちた。
 思い出すと、またざわざわと湧き上がってくる。
 見合い話が来てから、花沢なまえはいつにも増してご機嫌だった。相手はどんな方だろう、趣味が合ったら嬉しいな、しょっちゅう軍曹とそんな話をしていて、勝手に耳に入ってくるのだからたまったものではない。谷垣による時折妹のように見えると苦悩の吐露は大いに笑ったが、言われてみると、尾形に妹はいないが莫迦な女どもの浮かれた姿に酷似していると思い、酒の肴の笑いとなった。
 鶴見中尉は身を固めることにより花沢なまえも男として成長するだろう、などと言っていたが、さてどうか。見合い当日は頑張ってくださいと微塵も思っていない言葉を吐き見送る裏で、尾形はなよなよした女男が断られるほうに賭けた。
 それが、どうだ。

「うえええん」

 泣いて帰ってくるなど賭けの対象にもならん。これでは負けたのか勝ったのかさえわからないだろう、と岡田が口を尖らせた。
 普段はそっと開ける扉を、がん! がん! と体のどこかにぶつけ開けて宿舎へ入ってきた花沢なまえは大声で泣きながら廊下を走っていく。偶然階段で尾形にぶつかり、そのまま倒れ込んできてからというもの、びいびいと泣くばかりで尾形の苛立ちは増す一方だった。仕方なく肩を貸してやり部屋へ連れていくと、礼も言わずに布団へ潜ってただ泣いている。騒動を聞きつけやってきた世話役の軍曹がおろおろと声をかけても、花沢なまえは布団を涙でぐっしょりと濡らすばかりで答えやしない。軍曹が丸まった布団を慰めるように撫でるのを横目に、尾形は部屋を出てすぐさま八つ当たりに下っ端のどれかを殴りに行った。

 話題は鶴見中尉の耳にも当然入り、かのお方は仕方のない子供を見る目で笑い、揶揄もしなかった。そのうえ尾形へ「弟は可愛いものだろう」などと言う。そんなわけがないだろう。そもそも、弟というものでもない。血が片方繋がっていることも花沢なまえは知らない。知らないからこそ無邪気に尾形へ笑いかけられるのだ。
 何も知らないクソガキ、砂糖まみれのぼっちゃん、殺しも出来ぬ軍人、あんなものは男ではない。

「──はい、花沢勇作をおねがいします」

 心穏やかにならぬまま酒を煽り戻ると、通信部から声が聞こえてきた。やや上擦った声は泣きすぎたらしい。おっかあにでも泣きつくのかと思いきや、だいすきな双子の兄殿らしい。ハ、と嘲笑がシンとした夜に逃げていく。
 近寄りたくないという思いと好奇心がせめぎ合い、無駄にした金額分は回収しようと尾形は聞き耳を立てた。

「──てめえ勇作! ぜってえ許さねえからな! 死ねくそやろう!」

 しかし次に聞こえてきたのは兄へ甘える声ではなく、廊下にだだ漏れになるほどの怒鳴り声であった。
 予想だにしない展開に、山猫の瞳孔がきゅうと締まる。

「俺は! なまえだ! ちはやは死んだんだよ! 気狂いババアに言っとけ! クソボケ花沢なんかとっととくたばれ!」

 ガチャン! と力強く受話器が置かれ、昼とは違いぐすぐすという小さな泣き声が聞こえてきた。
 やがて泣き声はすすり泣きに変わり、ドアや壁にぶつかりながら宿舎へ消えていく。
 死ねくそやろう、とえへえへと口を開けずに笑う薄い唇から吐き出されたのか。にわかには信じがたく、しかし疑念を植えつけた。
 花沢なまえは猫を被っている、ということか。莫迦のふりをして世を渡っていると。
 それならば鶴見中尉が面白がるのも頷ける、が、卵が双子だったと嬉しそうにする子供のすべてがそうともいえない。しかし須らく要監視である。
 翌朝、夜半に女の泣き声が、と同朋が怪談話をしている横で、尾形の耳の奥はまだ痺れていた。

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