ALBATROSS

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3

 クラッシックカーが、ブオオンと唸るように音を鳴らして交差点を走り抜けていく。景色が走馬灯のように映り変わっていくさまを、後部座席からシートベルトを両手で握りしめて見つめた。ガコン、とクラッチが切り替えられる。ミラー越しに、今にも私を車から放り出しそうな瞳と目が合った。
「小エビちゃんさあ、マジで何考えてんの? 魚と人魚が一緒なワケねーじゃん。何世紀前の差別だよ」
「すいません、知らなくて……」
「知らねーで済むことじゃねーから。それでよく魔法史研究出来てんね? もーオレだって忙しいっつの」
「すいません……」
 わざわざ来てくれたフロイド先輩と会うのは、彼が卒業して以来だ。久々の再会が警察のお迎えなんて大変申し訳ない。お迎えは予想内だったが、先輩が来たのは予想外だった。明らかにオフです、というようなTシャツにGパン姿のフロイド先輩は、学生時代は襟足まであった髪を切っていて、顔が良く見えるぶん威圧感が増している。
「アハ、ジェイドのほうが良かったって顔じゃん。ムカつく」
「いえ、そんなことは思ってません」
「じゃあアズールだ。でもアズールのほうがムリだよ、今熱砂だから。ジェイドはいたけど俺が来ちゃった。なんでかわかる?」
「……暇だったから?」
「暇じゃねーよ」
 ガコンッとまたクラッチが踏まれて、スピードが増した。明らかに法定違反の速度だが、人通りが少ない道になってしまい警察は来ない。こんなことなら大通り沿いの賃貸にすればよかったと少し後悔している。曲がるときの遠心力が気持ち悪く、お腹を揺らした。腹部に手を当てて抑えながら吐き気を耐えていると、突然急ブレーキが踏まれてシートベルトがお腹に食い込む。外からの圧力に屈しないようにか、お腹の内側からもトンッと衝撃を感じた。初めてお腹蹴られたのがフロイド先輩の急ブレーキとは、なんとも情緒がない。気づけば家の前についていた。住所言ってないのに、まあ、そりゃそうか。
「家ン中は入るなって言われてっからここで終わりね」
「はい。ありがとう、ございました」
「……ねえ、写真とかないの? 稚魚ちゃんの写真。見してよ、俺写真撮って帰る」
「明日見れますよ」
「やぁだ」
 大きな手が差し出されて、指先が催促するようにちょいちょいと動かされる。どうせ明日の話し合いに同席するのだろうが、何故今なのか。お腹の子は彼の興味の範疇なのかもしれない。私は鞄から母子手帳を出して、そのままフロイド先輩に渡した。運転席でフロイド先輩がぺらぺらとページを捲っていく。おお、とか、へえ、とか小さな歓声が上がるが、エコー写真でそんなにわかるものなのだろうか。人魚同士感じるものがあったり。私にはわからないことだ。フロイド先輩は、母子手帳の中に何かを書き込んでから私に返してきた。
「さっき運転荒くしちゃってごめんねぇ、んじゃ明日」
 軽い挨拶で、車は去っていく。表紙の裏、両親名の欄に青いインクの殴り書きで、父親の名が記されていた。





「延期、ですか?」
 午後休で話し合いに行こうとしていた矢先に連絡があった。緊急に仕事が入ってしまったと。バスに乗る前に電話をとって、私はぼんやりとバスを見送った。午後休、今から取り消しに行こうか。
『ええ、申し訳ありません。また改めて近いうちに、と。なまえさんのご予定はいかがですか?』
「特にこれといって仕事以外は無いので。うちは休みも取りやすいですし」
『それは羨ましい。良い職場ですね』
「はあ、そうですね」
 電話口のジェイド先輩は機械のような声色をしているが、どことなく楽しそうな雰囲気が伝わってくる。奥からガシャガシャと荒っぽいノイズが聞こえてくるため、緊急の仕事とやらがお忙しいのだろう。まるで一瞬学生時代に戻ったような不気味さに鳥肌が立った。バス停前の公園のベンチに座り、手帳を取りだし、言われた日にちをチェックしていく。最短五日後。
「その日はちょうど午後休みなので、いいですよ」
『おや、他に予定が?』
「検診があって。なので、十五時以降にお願いします」
『では、そのように』
 迎えの車を回すと言われたが、散歩がてら歩いていこうと思い、待ち合わせは病院の近くのホテルにしてもらうことにした。私の家からモストロラウンジはとても遠くて、このお腹を抱えて一人で移動するのには少しはばかられるものの、病院の近くであれば家からそんなに遠くないし、遅くならなければ普通に公共交通機関で帰ることが出来る。帰りはタクシーとかで送ってくれると期待しているが、フロイド先輩の運転だったら遠慮しよう。昨日の急ブレーキをきっかけに、お腹の子は昨晩からぽこぽこと楽しそうにたくさん動いていて、私は少し辛い。
『弁護士についてですが、何名来られますか?』
「誰もきません、ゼロ人です」
『……ご用意されなかったので?』
「そんな余裕なくて。泥沼になる感じですか?」
『いえ、それは無いでしょう。もちろんあなた次第ですが、金銭に関してはお好きなように。フ、フフ、揉めるとしたら、親権でしょうね』
「私じゃないんですか?」
『五日後のお楽しみです。昨日はフロイドから写真を見せてもらいました。本当に自然妊娠なんですね』
「そうですよ」
 出産したら論文になります、と言うと、電話口でジェイド先輩が笑い出して、止まらなくなってしまった。まるで玩具で遊ぶ子供のような弾んだ声で、無邪気さを感じた。自然妊娠ってそんなにやばいんだ。





 職場の人のお知り合いに、離乳食も含めた料理教室をやっている先生がいるらしく、お試しでやってみてはどうかと声をかけてくれた。離乳食はまだ先だろうけど、出産したら余裕なんて無いと言うし、今がチャンスだと思って行くことにした。お試しだからお値段もそんなに高くないし。普段はエプロンなんて使わないから、うきうきで新しく可愛いものを買って準備をした。仕事帰りの夕方に、普通の住宅で行われた料理教室の先生は、獣人と人間のダブルのうさぎのお耳が可愛らしい人だった。教室は私の他に三人と、先生を含めて五人の少人数で、だからといって過干渉ということもなくこれも良い感じだった。
「今日は教室に新しい方がいらしています。人魚ちゃんを妊娠中のなまえさんです」
「よろしくお願いします」
 私よりも大きいお腹の人もいて、レッスンは気負うことなくゆったりと進んだ。包丁使いを褒められてたくさん照れて、お腹の子もどことなくご機嫌な様子で大人しくしていた。妊婦には葉酸・カルシウム・鉄分がとても大事だそうで、食育の軽い授業もありがたい。悪阻なども考慮してやりすぎず、意識しすぎず、人それぞれのペースですよ! と先生は強調していた。
 先生は獣人と結婚し、人間が四分の一のお子さんがふたりいるそうだ。一番お腹の大きい人は人間の双子を妊娠中で、そんなにお腹の出てない二人は人間と獣人らしい。獣人さんは悪阻の間唯一食べれたのがお肉だったため、落ち着いてきた今危険を感じて教室来ることにしたらしい。草食動物と肉食動物の夫婦だから食生活が大変だと言っていた。
「人魚の妊婦さんって珍しいですねえ。人魚って子供が出来たら海に行くってよく聞きますけど、そうしなかったんですか?」
「色々事情があって」
 なるほど、海か。考えたこともなかったが、確かに人魚なんだから、水槽の前に水しかない海で生きるのが一番だろう。先日のジェイド先輩の話だと金銭面は期待しても良いようだし、引越しも検討しよう。海というと、やっぱり珊瑚の海か。海水はすごく冷たくて寒い地域だとフロイド先輩たちは言っていた。……うーん、もうちょっと暖かいところじゃだめかな、私は寒さにあまり強くない。





 ついに話し合いの日が来た。今日は緊急の仕事も入っておらず、なんなら先方は全休をとっているとかで検診も同行しても良いかというお伺いの連絡が来た。しかし私にも覚悟というか、気合いというか、心の用意が必要であって、いきなり軽やかに挨拶とはいかないのだ。だから検診は一人で行くことにした。そもそも勝手に孕ませた相手に対してどうしてそう普通に接することが出来るのか、人魚とは不可解なものだ。少し苛ついた気分でいると、お腹の子も怒ったようにぽこぽこと動いていた。そんな元気なお腹を抱えて向かった検診で、医者はニコニコと嬉しそうに写真を撮っていた。
「すごいねえ、成長が早いねえ、これならもう半年もかからずに産まれちゃうかもねえ。ほら見てこれ、ちゃンと手足が出来てる。それにほら、ここも、可愛い稚魚ちゃンのお顔だよ」
 私のお腹をいつも叩いている手足と、顔。なんとなくそう見えなくもないけれど、言われなければやはり影にしか見えない。でも、今までで一番実感を感じた。人がお腹の中にいる、私は妊娠しているという実感だ。母になる事実でもある。しかし、なんというか、フォルムを見て改めて人魚なのだなと思った。顔はエイリアンだ。
 医者や看護婦さんたちからまだ産まれてないのに可愛い可愛いと持て囃され、お腹の子はご満悦の様子でぽこぽこと動いている。看護婦さんたちが幾人も診察室を覗きに来て、お腹に手を当てて振動を感じてはまた可愛い可愛いと連呼され、またご満悦で動き回るといういつまでも抜け出せないループだった。朝から元気に動いているから今夜は静かに寝てくれるかな。昨晩は日付を超えるまで動いていて少し寝不足だ。論文に載せると言うのでいつもよりも五枚くらい多く写真を撮って検診は終わった。
「長くて多いから、よく動くでしょう。可愛いねえ」
「お腹の中でこれだから、産まれたらもっと動きそうで今から不安です。私ついていけるかなあ」
「大丈夫だよ、お父さンもいるでしょう」
「うーん、どうでしょう。これから話し合いなんです」
「話し合い? なンのだい?」
「お金と、環境と、……親権?」
「あらまあ」
 それは大変だね、と医者はハーブキャンディをくれた。じゃあお土産ね、と写真を追加でくれた。私にくれた写真よりも映りが良くて釈然としないものの、これを見せたら一発でメロメロだという医者の言うことを聞くことにした。そんな効果があるかわからないが、明瞭な吸盤でお金が出るなら安いものだ。写真代も請求しようかと思ったら、抗議するようにぽこりと叩かれた。サービス精神が旺盛な子だ。





 とりあえず、クリアファイルにネットで調べた慰謝料の相場に少しプラスした金額と、今までかかった経費、これからかかりそうな経費をまとめた紙を入れて、一緒にエコー写真を挟んでおく。私の準備は完了したが、心の準備がまだだ。ホテルに入る前に、何度か深呼吸をした。しかしお腹の中がうるさくて全く静まらない。なんと情緒のない子か。あまりにも蹴ってくるため少し苦しくなってきて、慌ててロビーへ入った。待ち合わせは二階のレストランだ。エスカレーターであっという間に上がり、カチッとした制服を着た女性の店員さんが名前を言うだけで席を案内してくれる。つまり、向こうは既に来てるってこと。緊張で汗ばむ手のひらを揉みほぐしながら、ドアが開けられた個室に入った。
「……よかった、もう少しで迎えに行くところでした」
「お、またせ、しました……アズール先輩」
 私を見るなり席から立ち上がったアズール先輩は、先日会ったフロイド先輩とは違い、洋服がさらに上等なものになっているくらいで、一見学生時代そのままだった。今日は全休と聞いていたものの、わざわざしっかりスーツを着て来たらしく、少しオシャレ着程度の私が恥ずかしくなった。学会用のスーツを着てくれば良かったと後悔しても今更だ、そもそもお腹が出ていたらその一張羅も格好がつかないし。そして、予想に反して個室にはアズール先輩以外の姿は無かった。
「なにを惚けているんです? どうぞ座って。疲れたでしょう、やはり迎えに行った方が良かったのでは」
「いえ、そういうわけじゃないです、大丈夫です」
 アズール先輩がわざわざ椅子を引いてくれたため、失礼します、と一声かけてから席に座った。飲み物を聞かれてレモンソーダとミネラルウォーターを頼んだ。レモンソーダは私が単純に飲みたくて、ミネラルウォーターは体が欲しているものだ。値段は少し割高だが、アズール先輩持ちなので遠慮せずに言った。飲み物が来て、喉を潤してから改めてアズール先輩と向き合う。しかし、色々と考えていたのにいざ面と向かうとなにを言い出せばいいかわからなくなって、無駄に愛想笑いをしてしまう。
「エート、お元気そうですね、はは。てっきり今日はジェイド先輩たちもいると思ってました」
「その予定でしたが、あなたが一人で来ると聞いたので」
「……私が一人だから、先輩も一人で?」
「ええ。仕事ではありませんし、個人間の問題ですから。弁護士が同席する場合は証人のために人を置くつもりでしたが、あなたは一人で来た。……無謀だ」
 繊細そうな、骨ばった男性の指が眼鏡をスッとなおす。嘲るわけでもなく、吐き捨てるようでもなく、ただ事実を淡々と言われた。それに対して私は肩をすくめる。
黄金の契約書(イッツ・ア・ディール)があるから、いいかなって。一番の目的は金銭ですけど、ジェイド先輩曰くそれは好きなようになると言っていましたし」
「ほう、ジェイドがそんなことを」
「むしろ揉めるのは親権じゃないかって。……欲しいんですか?」
「もちろん」
 にっこりと微笑まれて、背筋が寒くなった。確実に獲る、という目をしている。ジェイド先輩の言う通りらしい。守るようにお腹に手を当てる。先程まであんなに元気だった子は、今は疲れたのかお休み中らしくなんの反応もなかった。

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