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ALBATROSS

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人魚とヒトのこ

 一年ほど前から体調が悪かったのは自覚していた。食事も好き嫌いが激しくなったというか、体が受け付けないものが増えたし、何か食べてもすぐ吐いてしまったり食べる気が失せたり、たまに目眩がして貧血でフラフラなんてこともあった。NRCを卒業し資格をとって民間の魔法史研究室で働くようになって、オンボロ寮から出て街で暮らすようになり、色々と生活が変わったストレスなんかでそうなったのだと思っていた。グリムはいないひとりぼっちだし、お隣の学生さんは毎週末派手なパーティーを開いているようだし、下の階のおばさんは世間話が好きすぎて人のことにしょっちゅう口を出したり踏み込んできたりするから、多分それらが原因だと思っていた。しかし。
「ご懐妊ですね、おめでとうございます」
「…………はい?」
 医者にそう告げられたとき、頭がおかしくなったのかと思った。医者は偽物だし私は幻聴を聞いたのかと。しかし残念なことに医者はわざわざ国家認定の医師免許を見せてくれたし、私はただただ到底受け入れられない現実に泡を吹くしか無かった。専門の産科への紹介状を受け取ったあたりでようやく現実だと思った。一年前からの不調、急激に太りだした体、いやこれは太っていたのではなく腹が……子宮が膨らみ始めたのだ。病院を出たところで研究室に連絡し、丸一日休みをもらってその足で産科に行った。機械的な流れに身を任せ、診断を受けた。なにやら仰々しい検査を何度か行って夕方頃になって産科の老人の先生がほこほこと髭を揺らして言った。
「うーン、人魚とヒトのダブルは珍しいね」
「人魚」
「うン、若いのにすごいねえ、普通は一生かかっても出来ないもンだよ」
 受け取った母子手帳に、父親となる欄の記載はされない。出来ない。いないし、いるわけないし、なんなんだ人魚。とぼとぼと家に帰るまで、私はついぞ言えなかった。
 とってもおかしいんです、私、処女なのに。
 このお腹の人魚って、なんですか? お昼に食べたお魚ではなくてですか?
 前途多難、私は異世界異国の地、ワンルームの小さな城で何年ぶりに大声を上げて泣いた。





 普通は一生かかっても出来ないはずの人魚とヒトの間の子は私の腹の中でスクスクと育っている、らしい。全く覚えはないが、腹部はぽっこりと出てきて服で隠すのも難しくなってきた。体調はあまり変わらず、体重もたいして変わらない。先生曰く、人魚は水分量が多くて大きさはあるけど軽いらしい。本当に未知の生き物を腹に入れていると思うとゾッとする。
 人魚とヒトの間の子の例は過去に数回しかなく、どれも出産は水中だそうで、自然と私もそうなるらしい。おろせないんですか、と一応聞いてみたが先生は仰天してとんでもない! と声を荒らげた。ただでさえ珍しいのに、おろすなんて、とまあ私にも事情があることを察してかそこまでのことは口に出さなかったものの表情で語っていた。それに、人魚というものは妊娠期間が本来短いもので、しかし母体がヒトの場合細胞や環境の違いから随分と時間がかかるらしい。数少ない報告だから君に当てはまるかわからないが、と言われてしまえば疑いの気持ちは生まれるものの、どちらにせよ私の自覚症状の期間と中の子の成長具合を見るにとっくにおろせる時期は過ぎていたらしい。既に魔力を保有するくらいまで成長しているのだとか。人魚の赤子のメカニズムはよくわからないが、中の子は魔法を使えるようだ。それを聞いて、初めて学園長のことを思い出した。
 闇の鏡の一件以来お世話になり続けた学園長は卒業とともに私に新たな戸籍をくれて、就職してからは目まぐるしく過ぎていく日々にあまり連絡を取れていない。このことも伝えるべきなのか、大いに迷う。お世話になった人への報告は大事だが、自覚は処女なのに妊娠しました、相手はいません知りませんだって処女だから、なんてことを言えるほど私は冷静ではない。もう少し私の精神が落ち着いてからにしようか、と思う。いつになるか、わからないけれど。





 やけに喉が渇くようになった。
 いよいよ隠せなくなり、素直に妊娠しましたと職場に報告したらあっさりとおめでとうと祝われて、所長の計らいで複雑な産休の申請が名前を書くだけで済んでしまった。産まれるまで在宅でも可能と言われたが、家に一人でこの腹で、正気でいられる気がしなくて頼み込んでギリギリまで出社するようにしてもらった。医者からは渋い顔をされたものの、正直私は中の子が死んでも何も思わない、思えないのだ。妊娠したから母親の自覚なんて出来ないし、母性なんか芽生えないし、愛なんて生まれない。一年前からなんだかおかしいことになっていたものが戻るだけだ。
 腹の子はよく水分を蓄え皮膚を作っているらしい。今出来ているのは内臓だけで胎盤もまだで、ここからまた長ければ半年かかると言われた。私はあと半年もこの腹でいるらしい。とてもおかしなことだ。毎日2Lの水を家から持っていき、お昼にもう2Lを買う。定期便で週に一度頼むようにしたダンボールが玄関に積み重なるようになった。どんなに飲んでも喉は乾いて、腹は膨らむことなく尿の量は変わらない。まるで水を溜め込むタンクになったようだ。
 膨らんだ腹を撫でても何も反応は無い。病院で記念にともらった聴診器を当ててみると、トク、トク、とものすごくゆっくりな心音が聞こえた。日本で高校生をやっていた頃に、生物で「寿命が短いほど心拍数が多いように出来ています」と習ったことを思い出した。活動エネルギー消費量がどうとか、今はもうあまり詳しいことは思い出せないけれど、普通ならばきっと中の子の心拍数は異常だけど、人魚らしいから正常なのだろう。ツイステッドワンダーランドにおける種族による寿命の差は理解している、これでも資格持ちの魔法史研究者の卵だから。しかし、中の子の寿命が長いのはわかっても成長が遅いのでは困る。私はいつまで大量の水を飲み続けなければいけないのか。飲料水は高いのに。
 ああ、また喉が渇いてきた。





 妊婦には運動が大切だという。出産のときに必要な筋肉を保つため、体内の血流を滞らせないため、全てはお腹の中の赤ちゃんのため。要は運動不足にはなるなということらしい。それには及ばない、普段の通勤で普段通り運動しているから、と看護師さんに伝えると、出産経験のある看護師さんが言った。
「私もそう思ってました。でもね、出産のときに使う筋肉っていうのは、地獄ですよ」
「地獄」
「悪いことは言いません、先に地獄が小地獄になるようにしましょ、ね」
「小地獄」
 大変怖いことを言われたが、しかし経験者の言葉は重い。現実味がとても強い、なぜなら経験者だから。正直子供がどうとか言われるとあまりやる気にはならないが、その地獄を味わうのは私だ。まんまと脅えてそのまま医者に相談してしまった。すると、医者はしわくちゃの顔にさらに皺を寄せて難しい顔をした。私は水分量がそこらの妊婦とは違うし、すでに安定期といえば安定期だが、安定期と分類していいのか怪しい時期にいるという。専門用語だらけでわからない詳しい説明の不穏な雰囲気に私はまた脅えたが、医者はこれくらいなら構わない、と人魚用の運動のすすめとしてマタニティヨガのパンフレットを渡してきた。水中分娩用のトレーニングコースらしい。病院の帰りのバスの中で申し込みのメールをした。病院と提携しているところで保険適用、ラッキー。
 さて、私は水中分娩だから、水中には重力が無いし楽なんだろうと思っていた。しかしそれは全くの想像でしか無かった。実際に行ったマタニティヨガは私の体がいかに固いのかと思い知らされた。ヨガ講師は「あなた、骨盤で稚魚ちゃんを潰してしまうわ」と熱心に指導してくれて、たった20分で私はくたくたのへとへとになった。恐るべし、出産。
 出産はあまり乗り気ではないが、潰してしまうのは嫌だと思って私は講師の教えの通り、こちらも保険適用らしいマタニティヨガの初期コースからマタニティスイミングのセットコースを契約した。保険が9割負担してくれなかったら絶対契約しない値段だった。





 妊娠中のため勤務は午前中だけとなった週の真ん中、通い始めたマタニティヨガ教室でお友達が出来た。同じ人間で、同じく人魚の子を妊娠しているという妊婦仲間がいたのだ。人魚とヒトの子は滅多にいないと聞いていたのに意外といるじゃないかと喜んで、教室の終わりに施設にあるカフェに誘った。彼女の夫はサメの人魚らしい。サメには種類があって、彼女の夫は卵生タイプのサメだとかで、彼女が産むのは卵だと言っていた。よくわからないが、つるんっと出てきそうだ。そう言うと、彼女はケラケラと笑い私もそれを期待してる、と言った。胎生の場合のサメはお腹の中で胎児が共食いをすることもあるらしい。人魚ってとても怖い生態をしている。
 少しずつ打ち解けてきたあたりで妊娠の経緯を隠したまま、出産が不安だと打ち明けると彼女はたいそう驚いていた。
「そうよね、私もとても不安なの。種族が違うと全然違うから……旦那さんは支えてくれてるのでしょう?」
「ううん、いないから」
「……そうなの、確かに人魚は執着心が強いけれど、そういう種類もいるって聞いたことがあるわ。お気の毒に、悪い男に引っかかってしまったのね」
 そういう種類、ってなんだろうか。鳥のかっこうみたいな人魚がいるのか。驚きだが、それもきっとその種族の生き残る知恵なのだろう。巻き込まれたほうは溜まったものでは無いが。
「でもあと半年も産まれないなんて、人魚って大変だよね」
「は、半年? あ、あなた……自然妊娠なの!?」
「うん」
「まさか本当にそんな奇跡があるなんて!」
 彼女は酷く興奮してすごいすごいと私の手を握った。あれ、なんだかおかしいな、と思った。彼女はしきりに本当に授かった祝福だと繰り返していた。私はなんだか怖くなって、次の検診のときに医者に聞いてみた。すると医者は、そらそうよ、とカルテに色々と書き込みながら言った。
「ほとンどは魔法による人工授精、今の時代自然妊娠の方が少ないンだから。人族同士は出来やすいけど、自然妊娠はあまり聞かなくなったね。獣人族同士くらいじゃないかな、自然妊娠が当たり前なのって」
 魔法、ここでも魔法か。魔法が当たり前だと妊娠も簡単らしい。しかも、胎盤から作られるから母体の負担も少ないし妊娠期間も短い、自然妊娠は絶滅危惧種みたいなもので私は現代の生ける証人らしい。そもそも自然妊娠は胎児がちゃんと成長せずに死んでしまうリスクが高すぎるし妊娠期間が長いぶん母体への負担も大きいため人魚側も躊躇するんだとか。ならば私を妊娠させた人魚とやらはなんなのか。それとも私の腹にいるのはやはりイエス・キリストのようなものなのか。謎は深まるばかりである。