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ALBATROSS

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孵化、はばたき

 不思議な話をしよう。まるで子供向けのおとぎ物語のような話なのだが、それは龍が空を翔け吉兆の現しとなるが如く、水脈を湧かし草花を豐かにするような話であるが、その反面同等の災害にも襲われ、然しそうして人生というものは巡っていくものである。これだけを申せば私は稀代の文豪にも負けぬ想像力の持ち主、あるいは現実には信じ難いオカルトじみたものを妄信する異常者ととられるのであろうが、事実は小説よりも奇なりともいゝ、まさしくその通りであると胸を張っていえるような、私が実際に経験した夢の話である。
 時代は富國強兵、殘虐かつ姦佞で暴惡の限りを尽くす外つ國から侵略の害を受けつつある日本國を守るため、すべからく日本男児は故郷を守るべき力として育てられた。私もまたその一人である。幼き頃より武道の道を往き、彼を知り己を知れば百戰殆からずとして知を蓄え、父がそうであったために幼子ながらにして周囲からはよき軍人となるだろうと言われ続け、ときには年相応に同朋と遊び耽り大人の目を掻い潛って賭博や不純異性交遊などのあまり聲を大きくして言うことをはゞかられるようなことも経験したが、それらはいうなれば稽古の帰り道に駄菓子屋へ多少寄り道した程度であり、最終的には成績優秀を保ったまま理想を貫くことを夢見て御國へ貢献する軍人と相成った。然して、文明が開かれた土地というものはたいそう明るく、私の愛國精神などは巣を違えた卵から孵化した雛がまったくの違う、それこそ鳥ではない狼のような種そのものが違う生物を親と思い込むかのようなまこと莫迦げたものであると認識を改めた。軍部というものが決して眞っ直ぐに正しさを纏い透き通った場所ではないと身をもって理解したのである。
 私が世話になり憧憬していた上官は権力保持のために下士官へ責任を擦り付け、また早くに出世したにもかかわらず我々にも謙遜し腰の低かった同期の男は拳銃で眉間を撃ち拔いた。その知らせを受けたとき私の中に雷光が走った。幸いにして私の故郷では食物が豐富で天災に見舞われることなく、また優秀な老医師が村にいたものであるから童子が七つを越えるのは当たり前であり、死というものは蟲や家畜やゆるやかに眠りの旅へ出ていく老人のみのものであった。同朋の自死というものが、私に目を醒まさせたのだ。
 死は萬物に訪れる。死は自然と出會い迎えにやってくるものである。そして人は自ら誘われ黄泉の道へ入ることもある。同朋は伊弉冉尊神のもとへ呼ばれ、暗く遠い坂道を登っていった。誘いのきっかけは至極単純なものであったという噂はあったが、私はそんなことはどうでもよく、同朋が死んだにもかゝわらず彼の旅立ちを批判した上官を許しがたかった。私は燃え上がる怒りの炎と今にも飛びかゝらんばかりに武者震う身体を抑えつけ、理性と智慧を集中させときには人に媚びを賣り身体さえ明け渡して懸命に努力した。
 そうしてたどりついた場所に殘るは空虚であった。
 上官が失脚した夜はこの世とは思えんばかりに幸福であったが、翌朝には頭から冷水をかけられ眞冬の谷底へ落ちていた。自分もまた人を破滅させ喜ぶ罪深き人間であると、自らの行いによって突きつけられたのだ。私は罪を背負い生きていくことゝなった。今更ながらに思うのだが、私は自尊心が高く、ある意味で猪突猛進を行う厄介な性格であるゆえに、軍に属するには向いていなかったのではないか。苦惱し悶絶したところで、私の周りにはかつての私のような上官を盲目的に思慕する部下で溢れており、そこは甘やかな溝の深部であった。
 鶴見篤四郎という青年がいた。私が破滅させた上官の姉の子で、軍の家系に生まれ母方の華やかな血を注がれたうつくしいひと。
 はじめて顏を合わせたのは私が上官と夜を明かした朝であった。彼は上官の邸宅の離れに下宿しており、上官の自慢の甥御であると朝食を囲みながら聞かされたが、終始俯きがちに聞かれたことには応えるが自ら発すことはなく、襃められる度に照れくさそうにはにかむような控えめな好青年という印象を抱いた。
 私が上官の宅に行くたびに彼と顏を合わせた。しばしば会話をした。挨拶から短いやりとりとなりやがて世間話や趣味の話までするようになった。ときには私の前でさくらの爪が整った指先を白い鍵盤の上を踊らせ、天上の音樂を奏でた。私は音樂の類は不得手でありあまり経験も無いものであるから上手く言えないのだが、彼の奏でるそれは魂に染み付いた穢れを少しづゝ溶かし陽の光を明るく変えていった。私は彼に、救われていたのだ。
 上官は西洋文化好きであったために週末はよくホールへ誘われた。背広を着て香水と白粉の香る女人と踊るのだ。はじめはエスコートもできず下手を晒し笑いものになったが、相手の女人は子を抱く母のようなまなざしで私に指導をし、そしてしなる腰を抱かれた。
 そうすると、必ずその夜は上官の宅へ呼ばれた。上官はたいへんに変わった趣味の持ち主で、彼はよく私に女物の格好をさせたがった。無骨な男の身体に纏うドレスはちぐはぐで見目の惡いものであったが、なぜか上官はそれを氣に入り毎度私に酌をさせともに眠る。私もはじめは心底厭だと思っていたのだが、敬愛する上官の頼みを斷るとはなんたることかとはゞかられ、また他の者には頼まず私にだけという優越感に支配されて袖を通しはじめれば、そのうち厭だと思うことも無くなった。
 然し羞恥の感情は消えることなく澱みになっていった。着用は構わないというのに羞恥心だけは一人前に育つのだ。鏡の前に立たされたときのなんと醜いことか。上官のよろこびと引き換えに私の中の男という性がほろほろと柔らかい西洋菓子のように少しづゝ崩れていく。その醜く淺ましい姿を篤四郎青年に見られたときには死んでしまおうと思ったのだ。扉の隙間から覗く彼の見開かれた黒眼と合った瞬間、同朋を追って黄泉に飛び込むと心の中で叫んだが、然し私の健全な肉体がそれを許さなかった。
 夜を明けた先に篤四郎青年がいたかは不明である。なぜなら私は夜から逃げたのだ。上官が寢入ったのを見て服を慌てて身につけ身嗜みなど氣にせずにただただ夜の場から逃げ出した。街の角の暗く底の見えぬ井戸で水を浴び、ビチャビチャの全身で部屋に飛び込んだ。誰もいない一人の場所が良いと思っての行爲であったが、それはまったくの逆であった。そういった夜は人とおらねば疑心暗鬼の闇がじわじわと足元から侵食してきてひどく混乱し首を括るのにも道具が足りず、然しまた夜に出るのは婦女子のように怖く感じ、羊膜にくるまる赤子のごとくふとんの中に丸まり一人震えて朝を待った。
 そうして上官の宅に行きながらも篤四郎青年を避けた數日後に同期が死んだのである。
 訃報を聞き一度頭が噴火山のようにカッとなってからは篤四郎青年のことなどもうどうでもよかった。醜聞も慚愧もなにひとつとして私の腦みそから消え失せ、ただただ復讐といえるほどうつくしくもなく、盲目的であった、そういられたかつての己に対する嫉妬や悔恨の念がどろどろに混じり合い矜持がぎしぎしと聞くに堪えぬ音を立て変形していった。後に顏を合わせたはずの篤四郎青年の若くハリのあるうつくしく端正な造形をなにも覺えていなかった。
 ひとを人として認識できなくなり、かつて憧憬していた上官を失樂させてすべての衝動が燃えつきてから「あの頃はお世話になりました」と聲をかけてきた鶴見篤四郎と名乘る者があった。軍部へあがり情報將校として露西亞へ潛入が決まったという彼の低くなめらかな聲に聞き覺えはあるが顏がまったくわからぬことを自覺し、己の変化にはじめて嘆いたのだ。
さて、こゝまでの経緯では冒頭にあった摩訶不思議な話というものは一切なく聽衆が慾しいがために法螺を吹いたのではと思われてしまうやもしれないが、本題はこれからである。すでに勘づいているだろうが、この話の本題は篤四郎青年であって、同期の男や上官は私の過去に過ぎない。
 篤四郎青年、もとい將校は露西亞への間諜として立派にその任を務めていた。その手腕は驚くべきもので、あっという間に懷へ入り氣に入られ、國境にほど近い地で細々とうつくしく儚げな美人と家族を成しつゝも軍事機密を颯爽と盜み出すのである。私は部下や周囲の中將などが彼を見事であると評価している裏で、彼らが篤四郎將校を危險視しほんの一滴でも問題があらば排除しようという考えを察していた。それほどに、彼は優秀であった。
 その頃の私はというと、軍への意慾が消え失せるのみでなく、まるで魂が拔けたように日々の生活でさえ億劫に、食事を部下に無理矢理口へ詰め込まれるような有樣でついには精神病院への通院を強制された。少し早い隱居生活を送るようになり幾年が過ぎ、白髮が目立つようになって身寄りのない慘めな死を薄らと意識しつゝあったとある日、ふらりと私の家に男がやってきたのである。髮が不揃いに伸びだしている坊主頭、縁の割れた眼鏡、無精髭がだらしなく伸び頬は赤く腫れ目は虚ろに、千鳥足でふらふらと夢遊病のように彷徨っていたが、その男は眞っ直ぐと道順通りに我が家へと入ってきたのだ。
 その日食事を持ってきた部下は誰かわからないと警戒していたが、私には彼が篤四郎將校であると一目見て分かった。弱った私の身体では支えきれず、部下に命じて彼を家へ上げ傷の手当てをし、髮と髭を整え風呂に入れて飯を食わせた。腹が治まるなり倒れこむように眠りにつき高熱を出した。彼の看病を三日ほど行うと、今までの病院通いが嘘のように篤四郎將校の顏がはっきりと私の目に映っていた。頬骨は高く平行に、鼻筋が通り唇は少し厚めで笑むと目元に皺が寄る。ああ、思い出の中の篤四郎青年と同じである、幾年ぶりに見た人の顏は変わらず私はこゝろの底から歡喜し涙を流した。そして、篤四郎將校は涙する私を一瞥し、彼もまた黒い眼玉を潤ませたのだ。これには私も驚愕したが、調べを頼んだ部下による報告で私は彼の壯絶な任務終了を知った。間諜であると嗅ぎつかれ逃げ出した後、少なからず情を移した妻そして生まれたての赤子と死に別れ彼自身も帰国後すぐに尋問にかけられたのだという。それは尋問という名のいじめのようなものである。
 篤四郎將校は少年のように泣き、私に縋った。そこで私の中の炎がまた燻りだしたが、殘念なことにかつてのような氣力と体力が回復することはなく、私にできたことは謹慎期間中に家へおいて面倒を見てやり、復歸した頃に役立つよう年を重ねて増えた人脈を驅使し多少の手回しをしてやることくらいでなんと情けないことかと肩を落としたが、謹慎が明ければ中尉へと昇進することに決まった篤四郎將校は「親身になってくださること、これ以上にうれしいことはございません」と頬に唇を寄せた。そう、我が家に滯在している間に篤四郎將校と私はかつての私と上官のような関係になっていた。
 彼は熱が下がってからも自ら口にはせず、また私も何も聞かずに見守っていたが、日々惡夢に苛まれ眠っている間に必ず魘されすすり泣いた。「オリガ、フィーナ」と心あらずに呟き小さなふたつの骨を後生大事に懷に仕舞うことから、それらが彼の家族の遺骨であることがうかゞえた。一見身体は健康に見えても着物の下に隱した傷とぼろぼろになった精神は彼をうつくしく魅せる欠片の一部に過ぎなかった。鬱々とした背中、うつむきがちな陰影、虚ろな瞳、掠れたか細い聲、唇の皮がひゞわれ血がたらりと顎にかけて深紅の絲を作る。細やかな吐息や爪の割れた指先、ふとしたときに誰も居ぬところへ薄らと微笑む。私は彼のうつくしさに息を呑んだが、そのような状態の人間に劣情を抱くほどおちぶれてはいなかった。然し、人はこゝろという不屈の岩骨のように硬いものがなにかしらのきっかけによってひびわれ砕けたとき、たとえ藁でも掴めば救われた氣になる。偶々藁が私であったのだ。そして情けないことに私は年をとったとて男という性に生まれ、求められゝばかつて秘めていた想いというものがまた芽を出してしまった。篤四郎將校を慰める日々は短くも夢のようであった。部下に世話されていた私が自力で立ち食事を用意し彼の世話をする。部下は狐につままれた表情で宅を去った。懸命に世話を續けてくれていた部下を顧みなかったゆえの罰であったのか、神が今生最後に使わせてくださった奇跡か。謹慎が明けると、篤四郎將校は跡を濁さずに、まことの夢のように消えた。
 空白があった。私のうつくしい夢か現かわからぬまま、不思議なことにそれからの私はまるで同期が自死する以前の若々しく幼い時分に戻ったように活力が湧き、然し月日を重ねた分の証が殘るというちぐはぐな人間になった。
 篤四郎將校の活躍は自然と耳に入った。人望が厚く優秀な軍人であるという評価は耳心地が良かったが、それゆえに戦争が始まると前線へ送られ、日本男児として立派な誇りであると私は口にできなかった。戦地から屆く報せは悲慘なものであった。戦は恐ろしいものだ、すべてを無に返し殘るのは慾望の勝者と地獄の門が開くのを待つ時間のみ、私はすでに亡者の成す長蛇の列に並び始めて幾年が過ぎていたが、私よりも先に彼が飛び込んでいると知り嘆き呼氣を抑えた。
 戦後中央より篤四郎中尉が再び危險視されていると知り、彼の命があることに感謝したが私にはもう滾る熱情は存在しなかった。
 和田大尉の葬式で顏を合わせた篤四郎中尉は私の知らぬ顏をしていた。「奉天で女神に腦を食われかけたのです」と快哉に笑うその微笑みは、篤四郎青年のものではなかった。
「鶴見中尉」
「ああ。閣下、ご紹介してもよろしいですかな。こちら私の部下の月島と申しまして、異國語が堪能で──」
 篤四郎中尉は青年の影を亡くし、鶴のうつくしい羽根を広げ人々のこゝろを呑み込んだ。私は思うのだ。矮小な人間が何を申すかと垂れる反面、彼の羽に触れた者への妬みの渦に襲われながらも、そう思わずにいられなかったのだ。
 ああ、君を食らうのは私でありたかった。